【完結】『左遷女官は風花の離宮で自分らしく咲く』 〜田舎育ちのおっとり女官は、氷の貴公子の心を溶かす〜

天音蝶子(あまねちょうこ)

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第五章 恋の行方と雅な春

春霞と最後の影

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 春の風は柔らかく、離宮の梅は薄紅の霞のように咲き誇っていた。
 梓乃は縁側に腰を下ろし、庭を渡る風の香りを胸いっぱいに吸い込む。
 あれほど厳しかった冬が、まるで遠い夢のようだった。

 肩の傷が癒えた宗雅は、日課の剣の稽古を再開している。
 その静かな剣筋の美しさに、梓乃はいつも目を奪われた。
 だが――その平穏の裏に、微かなざわめきが忍び寄っていた。

 その日、梓乃は薬草庫へ向かう途中、人気のない廊下で声を聞いた。
 低く押し殺した男の声。

「帝が行幸の途上にある間に――」

  言葉の続きを聞くより早く、梓乃の背筋は冷たくなった。

(まさか……再びこの離宮を狙うつもり?)

 足音を忍ばせ、彼らの姿を窓の隙間からのぞく。
 粗末な旅装の二人の男。
 見覚えがある。先日捕らえられた謀反人の残党だ。
 胸の奥がざわめく。
 すぐに宗雅様へ知らせなくては――。

 夜更け、宗雅の書斎に灯がともる。
 梓乃は息を整えながら、静かに襖を叩いた。

「……入れ」

 宗雅の低い声が返る。
 報告を聞いた宗雅は、眉をひそめ、すぐに地図を広げた。

「離宮の裏手、竹林の小道か。あの辺りは見張りが手薄だ」

 淡々とした声に、緊張が滲む。

「私も行きます」

 梓乃の言葉に、宗雅は顔を上げた。

「駄目だ。今度こそ、君を巻き込みたくはない」

 その声音には、命令というよりも、願いに近い響きがあった。
 けれど梓乃は、静かに首を振る。

「この地は、わたくしの暮らす場所。……見過ごせません」

 宗雅の瞳が、微かに揺れた。

「……君はいつも、そう言うな」

 苦笑を浮かべると、彼は懐から一枚の小札を取り出した。

「ならば、これを。護符だ。君の袖に忍ばせておけ」

 梓乃は受け取りながら、小さく頷いた。

(心配してくださるのですね……)

 その温かさが、胸の奥にしみて広がった。

 月の冴える夜、二人は竹林の入り口に身を潜めていた。
 夜風が笹の葉を揺らし、かすかな音を立てる。

「――来たな」

 宗雅の声が低く響く。
 闇の中、数人の影が現れた。
 松明の光に、刀の刃がきらりと光る。

 宗雅は梓乃に目で合図を送る。
 梓乃は息をひそめ、用意していた薬香の包みを放った。

 ぱん、と乾いた音とともに白い煙が広がる。
 敵の視界を奪い、その隙に宗雅が駆ける。

 刀が月光を裂く。
 宗雅の動きは風のようにしなやかで、速い。
 短い音が交わり、敵の刃が地に落ちた。

「梓乃、下がれ!」

 その声に応じるように、梓乃は最後の香包を投げる。
 淡い香が漂い、男たちは次々に咳き込み膝をついた。

「……そこまでだ」

 宗雅の剣先が、残党の喉元に突きつけられる。
 逃げ場はなかった。

 夜明け前、捕縛された者たちは衛兵に引き渡され、
 離宮には再び静けさが戻った。

 梓乃は庭の縁に立ち、空を見上げる。
 東の空がほんのりと朱に染まりはじめていた。

「怖くはなかったのか」

 背後から宗雅の声がした。
 振り返ると、彼は腕に軽い傷を負いながらも、どこか穏やかな表情をしていた。

「ええ。……あなたがそばにおいででしたから」

 その言葉に、宗雅は一瞬だけ目を見開き、すぐに視線を逸らした。
 だが頬のあたりに、わずかな赤みが差す。

「……無茶をする」

  低くつぶやきながらも、声は優しかった。

「次からは、もう少し私を頼れ」

 梓乃は小さく笑って頷いた。

「はい。けれど……たぶん、同じことをしてしまうと思います」

 宗雅は肩を落とし、けれど唇の端をゆるめた。

「やはり、君は困りものだ」

 その笑みに、梓乃もつられて笑う。
 夜明けの光が二人の頬を照らし、風が、ふわりと花の香を運んだ。
 梅の花びらが一枚、宗雅の肩に落ちる。
 彼はそれを指先で払いながら、そのまま梓乃の方を見た。

「……貴女と過ごすこの離宮も、もうすぐ春が終わるな」

「春が終わっても、香りはしばらく残ります」

「香り、か」

 雅は目を細めた。

「……それが君の香りなら、残ってくれても構わない」
 
 誰にともなく呟く。

 その声音に、梓乃の胸がかすかに跳ねる。
 けれど彼女は何も言わず、ただ静かに笑んだ。

 やがて朝日が昇り、庭を黄金色に染める。
 花びらが光の中を舞い、その中に立つ二人の影が、そっと重なり合った。
 ――春霞のように淡く、それでいて確かに。
 ふたりの間に生まれた想いは、もう、誰にも隠せぬほどに温かくなっていた。
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