【完結】『左遷女官は風花の離宮で自分らしく咲く』 〜田舎育ちのおっとり女官は、氷の貴公子の心を溶かす〜

天音蝶子(あまねちょうこ)

文字の大きさ
18 / 25
第五章 恋の行方と雅な春

春告げの庭にて

しおりを挟む
 春を告げる風が、離宮の屋根をやさしく撫でていった。
 長く張りつめていた緊張がほどけ、あの夜の騒ぎが嘘のように、庭には穏やかな日差しが満ちている。

 梓乃は廊の端に座り、硯に水を落としていた。
 墨の香がふわりと立ち上り、心まで静まっていく。
 庭では、千鳥が袖を広げて花びらを追いかけていた。

「姉さま、見てください! ほら、風に乗って、まるで雪みたいです!」

 声の弾みが嬉しくて、梓乃は思わず笑った。

「ええ、ほんとうに。春の雪ですね」

  花の白と淡紅が混ざり合い、空の青に溶けていく。
  その光景は、まるでひとつの夢のようだった。
 梓乃は筆をとり、和紙の上にそっと筆先を置く。

 ――帝への返書。

「この離宮こそ、わたくしの居場所にございます」

 その一文を書き終えたとき、胸の奥に小さな波が広がった。
 都への未練は、もうない。
 ただ、この地で芽吹いた風と花と、人のぬくもりがあれば、それでよかった。

「書き終えたのか」

 宗雅の声が、背後から静かに届いた。
 梓乃は振り向く。
 淡い陽光を受けて立つ宗雅の姿は、まるで春霞の中に溶け込むようだった。

「はい。……ようやく、心に迷いがなくなりました」

 そう言って手紙を差し出すと、宗雅はそれを両手で受け取り、封の金泥をじっと見つめた。

「この文は、私が都へ届けよう」

「よろしいのですか?」

「君の想いを、誰より確かに伝えられるのは私だ」

 淡々とした言葉に、梓乃は微笑んだ。
 宗雅の表情は相変わらず静かだったが、指先がわずかに震えているのを、梓乃は見逃さなかった。

「……本当に、ここに残るのだな」

 宗雅が低く問う。

「はい」

 梓乃はふわりと微笑み、ゆっくりと顔を上げた。

「あなたが、時々訪れてくださるなら」

 宗雅の目が、驚いたように見開かれる。
 次の瞬間、唇の端が静かにほころんだ。

「……約束しよう。季節の花が変わるたび、貴女を訪ねる」

 その言葉に、春の風がふたりの間をすり抜ける。
 庭の桜が、ぱらぱらと音もなく舞い落ちた。
 梓乃は笑って、筆を持ち上げた。

「では、花暦を作っておきますね」

「花暦?」

「ええ。あなたがいらっしゃる季節の花を、書き留めておくのです。たとえば――春は桜、夏は睡蓮、秋は紅葉、冬は椿。次にお越しのときに見せて差し上げます」

 宗雅はわずかに目を細め、どこか照れくさそうに笑った。

「では、私も約束を一つ。……その花暦を、毎年新しくしてもらおう」

「まあ、毎年?」

「そうでもしなければ、君が私を忘れてしまいそうでな」

 からかうような言い回しに、梓乃は思わず笑みをこぼした。

「忘れません。……きっと、忘れられませんわ」

 その瞬間、千鳥が花びらを両手に抱えて駆け寄ってきた。

「姉さま、宗雅様! 花びらの冠を作りましたよ!」

  元気な声に、ふたりは顔を見合わせる。

「冠?」

  宗雅が首をかしげる間に、千鳥は梓乃の髪の上に桜の輪をそっと置いた。

「はい、これで姉さまは“花の姫”です!」

「まあ、千鳥ったら……」

 頬を染めた梓乃に、宗雅はほんの少しだけ視線を落とした。
 花びらが髪に触れ、光を受けてきらめいている。

 ――美しい。

 その一言が、喉元まで出かかった。
 けれど宗雅は、それを飲み込んだ。
 代わりに、静かに言う。

  「……春の姫にふさわしい」

 梓乃は微笑み、指先で花冠を押さえた。
 その笑顔は、花よりも柔らかかった。

 夕暮れ。
 梓乃は縁側に座り、宗雅が馬を引く姿を見送っていた。
 都へ向かう道を進む彼の背は、いつもより少しだけ遠く感じられる。
 千鳥が袖を引いた。

「姉さま、寂しいですか?」

「……ええ、少しだけね。でも、また会えます」

 遠くから、宗雅が振り返った。
 風が吹き、桜の花びらが一斉に舞い上がる。
 それが、まるで別れの代わりに舞う祝福のようだった。
 梓乃は両手で髪を押さえながら、そっと笑みを浮かべる。

「宗雅様――季節の花が変わるころ、またお待ちしています」

 声は届かなかったかもしれない。
 けれど、春の風がその言葉を運び、
 去りゆく背中の肩口に、やさしく触れた気がした。

 夜、離宮の空は冴え渡り、星がいくつも瞬いていた。
 梓乃は灯の下で、新しい花暦の最初の頁を開く。

「春――桜。風、やわらかく。香、淡し。思い、ひとしずく。」

 筆を置いたあと、彼女は小さく息をついた。
 窓の外では、まだ風が花を運んでいる。

 ――約束の季節は、きっとめぐる。

 そのとき、再び誰かがこの庭を訪れる。
 そう思うだけで、胸の奥がほんのり温かくなった。

 灯火が揺れ、香が漂う。
 春は、静かに、けれど確かに告げられていた。

 離宮の夜に、梓乃の筆先がまた、そっと動いた。
 それは恋のはじまりを綴る、やさしい音だった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【完結/番外追加】サリシャの光 〜憧れの先へ〜

ねるねわかば
恋愛
彼女は進む。過去に囚われた者たちを残して── 大商会の娘サーシャ。 子どもの頃から家業に関わる彼女は、従妹のメリンダと共に商会の看板娘として注目を集めていた。 華々しい活躍の裏で、着実に努力を重ねて夢へと向かうサーシャ。しかし時には心ないことを言う者もいた。 そんな彼女が初めて抱いた淡い恋。 けれどその想いは、メリンダの涙と少年の軽率な一言であっさり踏みにじられてしまう。 サーシャはメリンダたちとは距離をおき、商会の仕事からも離れる。 新たな場所で任される仕事、そして新たな出会い。どこにあっても、彼女が夢を諦めることはない。 一方、光に囚われた者たちは後悔と執着を募らせていき── 夢を諦めない少女が、もがきながら光を紡いでいく軌跡。 ※前作「ルースの祈り」と同じ世界観で登場人物も一部かぶりますが、単体でお読みいただけます。 ※作中の仕事や制作物、小物の知識などは全てフィクションです。史実や事実に基づいていないことをご理解ください。

余命僅かな大富豪を看取って、円満に未亡人になるはずでした

ぜんだ 夕里
恋愛
傾きかけた家を救うため、私が結んだのはあまりにも不謹慎な契約――余命いくばくもない大富豪の辺境伯様と結婚し、彼の最期を穏やかに看取ることで莫大な遺産を相続する、というものだった。 しかし、人の死を利用して富を得るなど不正義! そう考えた私が立てたのは、前代未聞の計画。 「そうだ、遺産が残らないくらい贅沢の限りを尽くしてもらえば、すべて丸く収まるじゃない!」

下っ端妃は逃げ出したい

都茉莉
キャラ文芸
新皇帝の即位、それは妃狩りの始まりーー 庶民がそれを逃れるすべなど、さっさと結婚してしまう以外なく、出遅れた少女は後宮で下っ端妃として過ごすことになる。 そんな鈍臭い妃の一人たる私は、偶然後宮から逃げ出す手がかりを発見する。その手がかりは府庫にあるらしいと知って、調べること数日。脱走用と思われる地図を発見した。 しかし、気が緩んだのか、年下の少女に見つかってしまう。そして、少女を見張るために共に過ごすことになったのだが、この少女、何か隠し事があるようで……

「25歳OL、異世界で年上公爵の甘々保護対象に!? 〜女神ルミエール様の悪戯〜」

透子(とおるこ)
恋愛
25歳OL・佐神ミレイは、仕事も恋も完璧にこなす美人女子。しかし本当は、年上の男性に甘やかされたい願望を密かに抱いていた。 そんな彼女の前に現れたのは、気まぐれな女神ルミエール。理由も告げず、ミレイを異世界アルデリア王国の公爵家へ転移させる。そこには恐ろしく気難しいと評判の45歳独身公爵・アレクセイが待っていた。 最初は恐怖を覚えるミレイだったが、公爵の手厚い保護に触れ、次第に心を許す。やがて彼女は甘く溺愛される日々に――。 仕事も恋も頑張るOLが、異世界で年上公爵にゴロニャン♡ 甘くて胸キュンなラブストーリー、開幕! ---

押しつけられた身代わり婚のはずが、最上級の溺愛生活が待っていました

cheeery
恋愛
名家・御堂家の次女・澪は、一卵性双生の双子の姉・零と常に比較され、冷遇されて育った。社交界で華やかに振る舞う姉とは対照的に、澪は人前に出されることもなく、ひっそりと生きてきた。 そんなある日、姉の零のもとに日本有数の財閥・凰条一真との縁談が舞い込む。しかし凰条一真の悪いウワサを聞きつけた零は、「ブサイクとの結婚なんて嫌」と当日に逃亡。 双子の妹、澪に縁談を押し付ける。 両親はこんな機会を逃すわけにはいかないと、顔が同じ澪に姉の代わりになるよう言って送り出す。 「はじめまして」 そうして出会った凰条一真は、冷徹で金に汚いという噂とは異なり、端正な顔立ちで品位のある落ち着いた物腰の男性だった。 なんてカッコイイ人なの……。 戸惑いながらも、澪は姉の零として振る舞うが……澪は一真を好きになってしまって──。 「澪、キミを探していたんだ」 「キミ以外はいらない」

完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす

小木楓
恋愛
完結しました✨ タグ&あらすじ変更しました。 略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。 「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」 「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」 大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。 しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。 強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。 夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。 恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……? 「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」 逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。 それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。 「一生、私の腕の中で溺れていろ」 守るために壊し、愛するために縛る。 冷酷な仮面の下に隠された、 一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。 ★最後は極上のハッピーエンドです。 ※AI画像を使用しています。

「わざわざ始まるまでまたないで、今のうちに手を打ったってよくない?」

イチイ アキラ
恋愛
アスター公爵令嬢エステルは、夢をみる。それは先を映す夢。 ある日、夢をみた。 この国の未来を。 それをアルフレッド王太子に相談する。彼女を愛して止まない婚約者に。 彼は言う。 愛する君とぼくの国のためなら、未来を変えるのも仕方なくない?

下っ端宮女のひたむき後宮恋譚 ~前世の夢を追いかけていたらいつのまにか寵愛されていました~

紀本明
キャラ文芸
妃嬪から嫌がらせを受けつつも耐え忍んでいた下っ端宮女の鈴風(りんふぁ)はある日突然前世の記憶を取り戻す。料理人になるのが夢だった彼女は、今世でもその夢を叶えようと決意した矢先、ぼさぼさ頭の宦官・雲嵐(うんらん)と出会い、毎晩夕飯をつくることになる。料理人になるべく奮闘するも、妃嬪からの嫌がらせはひどくなる一方だった。そんなある日、事件が起こり、鈴風は窮地に立たされるが……――?

処理中です...