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第五章 恋の行方と雅な春
雅なる春風、ふたりを包む
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春の夜は、名残惜しいほどに静かだった。
離宮の庭は、昼間の騒がしさが嘘のように、桜の花びらがひらひらと舞い続けている。
灯籠の明かりがほのかに花を照らし、まるで雪解けのような淡い光を放っていた。
梓乃は、縁側にひとり腰を下ろし、ゆるやかに舞い落ちる花を見上げていた。
指先にひらりと落ちた花びらを、掌に包みながら小さく息をつく。
——これほど静かな春が、また訪れるだろうか。
離宮を騒がせた陰謀は、宗雅の采配により見事に収束した。
事の経緯を自ら伝えるため、宗雅は都への帰還を控えているばかり。
けれど今夜だけは、すべての音が遠くに霞んでいる。
「まだ、眠れぬのか」
背後から届いた声に、梓乃はそっと振り返った。
灯籠の光を背に、宗雅が立っていた。
薄衣に羽織を重ね、いつものように姿勢はまっすぐ。
だがその表情には、どこか柔らかな影がある。
「宗雅様こそ。明日のご出立を控えておいでなのに」
「眠れぬのは、お互いさまだ」
宗雅はそう言って、彼女の隣に静かに座った。
間に流れるのは、春風の音。
花びらがふたりの膝の上に積もっていく。
「桜が……」
梓乃は目を細めて、ひとひらの花を掬い上げた。
「散ってしまうのが惜しくて、つい数を数えてしまいました」
「数を?」
宗雅が少し驚いたように眉を上げる。
「ええ。落ちるたびに“ひとつ、ふたつ”と。けれど、気づいたらもう……いくつだったのか、わからなくなってしまって」
梓乃は苦笑をこぼした。
「終わりがないのですね。桜の花びらをすべて数えるには」
宗雅はふっと笑った。
「一生かかっても、数え終えられぬだろうな」
「ええ。それもまた、雅なことです」
風がふたりの間を抜けていった。
桜の花がふわりと舞い、宗雅の袖にひとひら落ちる。
その様子を見つめる梓乃の瞳に、灯籠の明かりが溶けるように映った。
宗雅はその視線のぬくもりに、わずかに息を呑む。
常に冷静さを失わぬ彼が、今、この穏やかな瞬間に心を揺らしている——
そんな自覚が、胸の奥で静かに広がっていった。
「……君は、本当に不思議な人だ」
「わたくしが?」
梓乃は首を傾げた。
「君と話していると、季節の流れまで緩やかになる。時間が、少しだけやさしく感じる」
宗雅の言葉に、梓乃は小さく笑う。
「それは、春だからではなくて?」
「いや、春より君のせいだ」
思わず出た言葉に、宗雅自身がわずかに驚く。
梓乃は一瞬目を見開いたあと、頬を染めて俯いた。
「……お優しいことをおっしゃるのですね」
宗雅は苦笑し、頭を掻いた。
「口がすべっただけだ」
「そうでしょうか?」
梓乃は少し悪戯っぽく、唇の端を上げた。
その仕草に、宗雅は胸の内がほぐれるのを感じた。
この穏やかな春夜の空気が、ふたりの間に漂うわずかな距離を柔らかく包み込む。
しばらく、言葉もなく花の音を聴いていた。
深まる夜の闇に、遥か遠くの鳥の鳴き声が、寂しげに響き渡る。
どこかで香炉の香が漂い、夜風が髪をさらう。
「明日は、都に戻られるのですね」
「うむ。報告と、帝への書簡の届けがある」
「お忙しい方なのに、いつもこちらへ足を運んでくださって……」
「約束だからな」
宗雅の声には、迷いがなかった。
「季節の花が変わるたび、君を訪ねる。そう言ったはずだ」
梓乃は静かに頷く。
「はい。わたくしも、その日を待つことにいたします。花暦を作っておきますね」
「花暦?」
宗雅が目を瞬かせた。
「ええ。桜、藤、菖蒲、紅葉……季節ごとの花を描いておけば、あなたがいらしたときに、どの花が待っていたか、すぐにわかりますもの」
宗雅はしばらく黙って彼女の横顔を見つめた。
桜色の光が頬に宿り、まつげの影が長く伸びている。
その姿はまるで、春そのものが人の形をとったようだった。
「君は……本当に、離宮に似合う」
低くつぶやく声に、梓乃はそっと微笑む。
「そう言っていただけるなら、もう寂しくはありません」
風がまた吹き抜け、灯籠の火がかすかに揺れる。
桜の花びらがふたりを包み込むように舞った。
そのひとひらが宗雅の髪にとまり、彼は無意識に手を伸ばす。
すると梓乃が、そっとその花を摘み取った。
「春の印です」
小さく呟きながら、掌に包む。
宗雅は、その掌ごと包み返した。
ふたりの手の間に、ひとひらの花が息づく。
時間が止まったかのように、夜風の音が遠のいた。
やがて、梓乃がそっと笑う。
「……これで、春を分け合えましたね」
宗雅は何も言わず、ただ頷いた。
その微笑みは、中納言の嫡子宗雅ではなく、ひとりの男の顔だった。
桜の花が散る音が、まるで遠い拍手のように聞こえる。
離宮の空には、静かな春の月光が、淡く満ちていた。
離宮の庭は、昼間の騒がしさが嘘のように、桜の花びらがひらひらと舞い続けている。
灯籠の明かりがほのかに花を照らし、まるで雪解けのような淡い光を放っていた。
梓乃は、縁側にひとり腰を下ろし、ゆるやかに舞い落ちる花を見上げていた。
指先にひらりと落ちた花びらを、掌に包みながら小さく息をつく。
——これほど静かな春が、また訪れるだろうか。
離宮を騒がせた陰謀は、宗雅の采配により見事に収束した。
事の経緯を自ら伝えるため、宗雅は都への帰還を控えているばかり。
けれど今夜だけは、すべての音が遠くに霞んでいる。
「まだ、眠れぬのか」
背後から届いた声に、梓乃はそっと振り返った。
灯籠の光を背に、宗雅が立っていた。
薄衣に羽織を重ね、いつものように姿勢はまっすぐ。
だがその表情には、どこか柔らかな影がある。
「宗雅様こそ。明日のご出立を控えておいでなのに」
「眠れぬのは、お互いさまだ」
宗雅はそう言って、彼女の隣に静かに座った。
間に流れるのは、春風の音。
花びらがふたりの膝の上に積もっていく。
「桜が……」
梓乃は目を細めて、ひとひらの花を掬い上げた。
「散ってしまうのが惜しくて、つい数を数えてしまいました」
「数を?」
宗雅が少し驚いたように眉を上げる。
「ええ。落ちるたびに“ひとつ、ふたつ”と。けれど、気づいたらもう……いくつだったのか、わからなくなってしまって」
梓乃は苦笑をこぼした。
「終わりがないのですね。桜の花びらをすべて数えるには」
宗雅はふっと笑った。
「一生かかっても、数え終えられぬだろうな」
「ええ。それもまた、雅なことです」
風がふたりの間を抜けていった。
桜の花がふわりと舞い、宗雅の袖にひとひら落ちる。
その様子を見つめる梓乃の瞳に、灯籠の明かりが溶けるように映った。
宗雅はその視線のぬくもりに、わずかに息を呑む。
常に冷静さを失わぬ彼が、今、この穏やかな瞬間に心を揺らしている——
そんな自覚が、胸の奥で静かに広がっていった。
「……君は、本当に不思議な人だ」
「わたくしが?」
梓乃は首を傾げた。
「君と話していると、季節の流れまで緩やかになる。時間が、少しだけやさしく感じる」
宗雅の言葉に、梓乃は小さく笑う。
「それは、春だからではなくて?」
「いや、春より君のせいだ」
思わず出た言葉に、宗雅自身がわずかに驚く。
梓乃は一瞬目を見開いたあと、頬を染めて俯いた。
「……お優しいことをおっしゃるのですね」
宗雅は苦笑し、頭を掻いた。
「口がすべっただけだ」
「そうでしょうか?」
梓乃は少し悪戯っぽく、唇の端を上げた。
その仕草に、宗雅は胸の内がほぐれるのを感じた。
この穏やかな春夜の空気が、ふたりの間に漂うわずかな距離を柔らかく包み込む。
しばらく、言葉もなく花の音を聴いていた。
深まる夜の闇に、遥か遠くの鳥の鳴き声が、寂しげに響き渡る。
どこかで香炉の香が漂い、夜風が髪をさらう。
「明日は、都に戻られるのですね」
「うむ。報告と、帝への書簡の届けがある」
「お忙しい方なのに、いつもこちらへ足を運んでくださって……」
「約束だからな」
宗雅の声には、迷いがなかった。
「季節の花が変わるたび、君を訪ねる。そう言ったはずだ」
梓乃は静かに頷く。
「はい。わたくしも、その日を待つことにいたします。花暦を作っておきますね」
「花暦?」
宗雅が目を瞬かせた。
「ええ。桜、藤、菖蒲、紅葉……季節ごとの花を描いておけば、あなたがいらしたときに、どの花が待っていたか、すぐにわかりますもの」
宗雅はしばらく黙って彼女の横顔を見つめた。
桜色の光が頬に宿り、まつげの影が長く伸びている。
その姿はまるで、春そのものが人の形をとったようだった。
「君は……本当に、離宮に似合う」
低くつぶやく声に、梓乃はそっと微笑む。
「そう言っていただけるなら、もう寂しくはありません」
風がまた吹き抜け、灯籠の火がかすかに揺れる。
桜の花びらがふたりを包み込むように舞った。
そのひとひらが宗雅の髪にとまり、彼は無意識に手を伸ばす。
すると梓乃が、そっとその花を摘み取った。
「春の印です」
小さく呟きながら、掌に包む。
宗雅は、その掌ごと包み返した。
ふたりの手の間に、ひとひらの花が息づく。
時間が止まったかのように、夜風の音が遠のいた。
やがて、梓乃がそっと笑う。
「……これで、春を分け合えましたね」
宗雅は何も言わず、ただ頷いた。
その微笑みは、中納言の嫡子宗雅ではなく、ひとりの男の顔だった。
桜の花が散る音が、まるで遠い拍手のように聞こえる。
離宮の空には、静かな春の月光が、淡く満ちていた。
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