【完結】『左遷女官は風花の離宮で自分らしく咲く』 〜田舎育ちのおっとり女官は、氷の貴公子の心を溶かす〜

天音蝶子(あまねちょうこ)

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番外編

番外編2:風花の朝、目覚めに寄せて(梓乃視点)

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 朝露が光る庭の方から、かすかに鳥の声が聞こえてくる。
 風花の離宮の朝は、いつもゆっくりと始まる。
 夜の間に冷えた空気が、やわらかく肌に触れ、胸いっぱいに吸い込むと、微かな花の香がした。

「……あら。まだ、宗雅様はお目覚めではないのかしら」

 薄衣の袖で口元を覆いながら、梓乃は静かに起き上がった。
 障子を少し開けると、外の光が差し込み、部屋の中に金の粒がこぼれたように明るくなる。

 外は、早くも夏の気配をまといはじめた初夏の朝。
 けれど、風花の離宮は涼やかな風が通い、まるで春がまだ居残っているかのようだった。

 梓乃は、几帳のそばに置かれた花暦に目をやる。
 昨日、宗雅に渡したもの――季節ごとに咲く花を描きとめた暦帳。
 その表紙を指でなぞると、墨の香がほんのりと漂い、思わず微笑みがこぼれた。

「宗雅様……喜んでくださったかしら」

 あの方の顔を思い浮かべると、胸の奥がくすぐったくなる。
 いつも凛として、冷静で、滅多に感情を見せないのに、花暦を開いたときの宗雅の瞳は、まるで春の陽のようにやわらかかった。
 その表情を思い出すたび、心がそっと温まる。
 小さな机の上には、宗雅が昨夜置いていった花が一輪、香りを放っていた。
 白い露草。ひっそりとした花だが、朝の光を受けると、青がいっそう澄んで見える。

「まあ……」

 そっと花を指先で撫でると、花弁の冷たさが肌に伝わる。
 宗雅が、朝の散歩の途中で摘んできてくれたのだろうか。
 そう思うと、胸の奥に小さな波紋が広がった。

「まったく、あの方は……不意に、こういうことをなさるから」

 口ではそう言いながら、頬が緩む。
 まるで、心を見透かされたような贈り物だった。
 宗雅は多くを語らないけれど、言葉の代わりに、行動で想いを伝えてくれる人だ。
 それが嬉しくて、愛おしくて、時に少し切ない。

 梓乃は小さく息をつき、手にした花を香炉のそばにそっと活けた。
 立ちのぼる香煙が花を包み込み、淡い光の中で揺れている。

 ――こんな朝が、ずっと続けばいい。

 気づけば、そんな言葉が胸の中に浮かんでいた。

 かつての自分なら、ただ静かに日々を過ごすことだけを望んでいたのに。
 今は、あの人と笑い合い、季節を共に見送ることが、何よりの幸せになっている。

 ふと、庭の方から足音が聞こえた。
 規律正しい歩き方――宗雅のものだ。

「おはようございます、宗雅様」

 障子を開けると、朝日を背に立つ宗雅が、少し驚いたように目を細めた。

「もう起きていたのか。……冷える朝だ、無理はするな」

 いつもの穏やかな声音に、胸の奥がじんわりとあたたまる。

「大丈夫です。今朝は香の調合を少しだけしようと思って」

「また、新しい香を?」

「ええ。……“初夏の風”の香りを、と思いまして」

 宗雅は微かに笑い、傍まで歩み寄る。

「その香を聞ける日を楽しみにしている」

 その言葉だけで、梓乃の心は満たされていく。
 二人の間を、涼やかな風が通り抜けた。
 障子の外では、露草が揺れ、ひとしずくの露が光を弾く。
 宗雅の衣の裾が風に揺れて、まるで花びらのようにひらめいた。

「……宗雅様」

「うん?」

「こうしてお話していると、まるで春が、まだここにいるようです」

 宗雅は一瞬、彼女を見つめ、それからゆるやかに頷いた。

「春は、君の中にある。だから、離宮にはいつも風花が咲くのだろう」

 その言葉に、梓乃は頬を染めて、そっと笑った。
 庭の風がまた吹き、香がふわりと立ちのぼる。
 
 それは“風花の離宮”の名にふさわしい、柔らかな朝の香りだった。
 やがて、千鳥の明るい声が遠くから響く。

  「姉さまー! 朝餉の用意ができましたーっ!」

 ふたりは顔を見合わせて笑い、静かな朝に、あたたかな笑い声が重なった。

 ――今日もまた、穏やかで、美しい一日が始まる。

 それは、風花の離宮に生まれた、ふたりだけの季節の物語だった。
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