【完結】『左遷女官は風花の離宮で自分らしく咲く』 〜田舎育ちのおっとり女官は、氷の貴公子の心を溶かす〜

天音蝶子(あまねちょうこ)

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番外編

番外編3:初夏の風、ふたりの始まり

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 夏の気配が近づくある朝。
 都の屋敷には、蝉の声よりも早く、涼やかな風が吹き抜けていた。

 宗雅は書物を閉じ、庭先に視線をやる。
 朝顔がほころび、梓乃が薄衣をまとう姿が見える。
 陽に透けるその袖が、淡い花びらのようで――
 胸の奥が不意にきゅうと鳴った。

「宗雅様、もうお目覚めでしたか?」

 振り返る梓乃の声が、風に溶ける。
 その頬には、まだ少し寝起きの柔らかな色が残っていた。

「寝坊してもよかったのだぞ。都の朝は、離宮より少しばかりせわしないからな」

「いえ……。朝のうちに香を焚かないと、一日の調子が整いませんの」

 そう言って微笑む梓乃の後ろで、千鳥が朝餉の膳を運びながら小声でぼやいた。

「姉さま、夜更かししてまで香を混ぜてたくせに~。宗雅様に褒められると嬉しくて、今朝は三の鐘より早く起きたんですよ」

「ち、千鳥!」

 梓乃の頬がぱっと染まる。
 宗雅は軽く咳払いをして、唇の端をゆるめた。

「……そうか。ならば、今日の香は格別に違いない」

「も、もう……宗雅様まで」

 困ったように目を伏せる仕草が、愛らしい。

 宗雅は内心、千鳥に感謝していた。
 離宮にいた頃は、どこか距離を保っていたふたりだったのに、こうして日常の中で、少しずつ表情が変わっていく梓乃を見るのが嬉しかった。

 朝餉のあと、庭の藤棚の下で茶を飲むのが、ふたりの小さな日課になった。
 今日も梓乃が茶器を並べ、宗雅が風を読むように座る。

「都の風は、少し重たく感じますね」

「人の気が集うからな。だが、慣れればそれもまた雅の音になる」

 梓乃は宗雅の隣で、茶をすくう手を止めた。

「……わたくし、ここに来てから、ふしぎと寂しくありません」

「それは良いことだ」

「ええ。でも、あの風花の離宮の風も、ときどき恋しくなります」

 宗雅はしばし沈黙し、彼女の横顔を見つめた。
 陽光が頬に降り、長い睫毛に影を落とす。
 そして、そっと言った。

「ならば、また行こう。花暦の“夏の頁”を見に」

「……夏の頁?」

「おまえが描いた暦の中で、まだ見ぬ花があるだろう。その花を、ふたりで確かめに行こうと思う」

 梓乃の瞳が大きく見開かれ、やがてゆっくりと綻んだ。

  「はい……ぜひ、お願いいたします」

 そのとき、庭の端から千鳥の大声が響いた。

「姉さまーっ! 都のお使いの方が、香料の注文をたくさん持ってきましたーっ!」

「まあ……もうそんなに?」

 梓乃が立ち上がると、宗雅は静かにその袖を取った。

「無理はするな。まだ都の暮らしに慣れていないだろう」

「でも、皆さまが求めてくださる香を、粗末にはできません」

 宗雅は苦笑し、指先にわずかに力を込めた。

「……まったく。離宮にいた頃から、君は変わらないな」

 その声は、叱るというより、愛しさを隠すような響きだった。
 梓乃は一瞬、彼を見上げて微笑む。

「宗雅様こそ、あの頃より少し柔らかくなられたようです」

「……そう見えるか?」

「ええ、とても」

 そのやりとりの中に、淡い照れが漂う。
 庭の木々が風にざわめき、陽光がふたりを包み込む。

 やがて宗雅は立ち上がり、梓乃の肩に手を置いた。

「では、行ってこい。……あとで、手伝いに行く」

「まあ、宗雅様が?」

「たまには夫らしいことをしてみようと思ってな」

 梓乃は驚いたように目を瞬かせ、それから小さく笑った。

「……では、ぜひお願いいたします。皆が驚きますね」

「それもまた、夏の風物詩ということで」

 ふたりの笑い声が、庭にやさしく響いた。

 昼下がり、屋敷には香のかぐわしい煙が立ちのぼり、千鳥が張り切って帳簿をつけ、宗雅は梓乃の隣で文を整理していた。

 ふと、風鈴が鳴る。
 その音を聞きながら、宗雅は何気なく呟いた。

「この音を聞くと、不思議と心が落ち着く」

「風が通っていく音です。……心の中の熱まで、連れて行ってくれるような」

 宗雅は、その横顔を見つめた。

「だが、その熱が消えてしまうのも惜しいな」

「え?」

 宗雅は少しだけ笑って、茶を口にした。

「……いや、何でもない」

 梓乃は小首をかしげながらも、頬を染めて笑う。

 その瞬間、風がふたりの間を抜けていった。
 香の匂い、夏の陽の匂い、そして恋の予感を乗せて。

 ――風花の季節は終わっても、

 ふたりの物語は、初夏の風の中で、静かに続いていた。
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