形だけの女王ですが英雄が王配となって溺愛してきます!〜虐げられ姫の幸せな婚姻〜

蓮恭

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35. 長きにわたる誤解の終焉

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 夕暮れの影が、軍の詰所の無骨な造りの廊下をゆっくりと満たし始めていた。
 その奥に位置するアレクサンドルの執務室では、重々しい空気が満ちている。

「……まさかあの娘がここまで生意気になり、しぶとく生き残るとは……思いもよりませんでしたな」

 そう吐き捨てたのは宰相だった。冷たく乾いた声で……だがその傲慢さは、すでに揺らいでいた。

 宰相の前に立つアレクサンドルは、背筋を伸ばしたまま動かない。
 年を重ねてもなおその風格と威厳は衰えず、彼の沈黙が圧力となって部屋の空気をズシンと重くしている。

「……どうして黙っているのですか。閣下、我々は目的の為に手を組んだ。それを今さら、裏切る気ではないでしょう」

 それに対する答えは、静けさだった。焦れた宰相が何か口にしようとした時、アレクサンドルが低く、よく通る声で答える。

「違うな、ジェロム。私は常に、『見ていた』だけだ」

 鋭く尖った宰相の目が、僅かに見開かれる。

「お前のような男が、どこまで腐るかをな。そして、アリシアがどれほどの痛みに耐えながら、王冠を背負い続けるのかも」

 アレクサンドルの声には怒りも嘲りもない。あるのは静かな決意と、過去への思いだった。

「あの子をお前の手から上手く守り切れなかったのは、私の罪だ。しかし、それでも私は見逃してなどいなかった。お前があの子に何をしたか、何を言ったか、誰を使って何を仕掛けたか。これまでの全てを、証拠と共に押さえてある」

 そう言ってアレクサンドルは机の引き出しから一冊の黒革の手帳を取り出す。
 そこには、彼が密かに集め続けてきた数年分の記録が綴られていた。証人の名、日時、行動の記録。すべてが、蜜月状態であったはずの、宰相の悪事を裏付ける決定的な証拠である。

「……おのれ、本気か」

 王族に対する敬語すら忘れた宰相の声が、怒りに震えた。

「お前の為に悪事に手を染めた娘を見捨て、このラヴァル王国を金儲けの道具にし、家名を盾にして多くの民を欺いた。その代償を払ってもらう時だ」
「ふざけるな……!」

 宰相は怒声を上げ、目の前にあった椅子を蹴って立ち上がる。

「貴様こそ、王弟などという立場でありながら、死んだマリア王妃を……!」

 その瞬間――低く少し掠れた声が宰相の言葉を制した。

「もういいだろ」

 それは、誰もいないはずの執務室の奥から響く。宰相が振り向いた先にいたのは、扉脇のクローゼットの中から姿を現したテオバルトと、アリシアだった。

 アリシアの顔は蒼白だったが、その瞳は揺れていなかった。真実を知った重みに震えながらも、彼女は真っ直ぐに宰相を見据えていた。

「何故……っ、そのような所にお前達が! く……っ、アレクサンドル! よくも私を謀ったな⁉︎ ……ぐっ」

 表情ひとつ変えずに、アレクサンドルが口汚く罵る宰相の喉元へ素早く抜いた剣を突き当てる。
 喉元にツウと赤い血が一筋流れた事でアレクサンドルの本気が伝わり、宰相は言葉を失った。
 
「黙れ、女王の御前だ。言葉には気をつけろ」

 冷たい、凍えそうな眼差しで宰相を睨みつけたアレクサンドルは、剣の切先はそのままでアリシアに視線を向ける。
 
「叔父様……どうして……?」

 その声は、掠れていた。アレクサンドルを見上げる青の瞳に浮かぶのは、とても複雑な心。
 疑いでも怒りでもない――悲しみと、ほんの少しの希望。

 アレクサンドルは僅かに目を伏せたが、すぐにアリシアの前へと進み出た。
 鋭い剣先から解放された宰相は、喉元を押さえながらよろけて、「信じられない」というような顔で成り行きを見守っている。

「……すまなかった。あの時兄上からお前を守れなかった事を、ずっと悔いていた。だが、今度こそ――」

 その時、宰相が隙を見て突然背後の扉へと駆け出した。

「こんな茶番に付き合っていられるか! 私は……っ、私はこんな所で終わるような男ではない……ッ」

 そう怒鳴りながら扉へ手をかける――が、

「……年寄りのくせに、やけに逃げ足が早いな」

 冷ややかな声とともに、テオバルトが一瞬で宰相の背後を取る。重厚な体躯が音もなく動き、宰相の腕を背中にねじ上げた。

「ぐあっ……このっ、離せ! この……異国人の平民風情が!」
「黙れ。お前がアリシアにしてきた事、ここで全部清算しろ」

 そう言ったテオバルトの横顔は冷徹そのものだった。が、同時にその視線の端にはアリシアの姿があった。
 これまで散々傷付けられてきたアリシアを守る為、あらゆる憎しみを自らの手で断ち切ろうとしていたのだ。

 テオバルトと視線を交わらせたアレクサンドルは軽く頷き、命じた。

「連れて行け、テオバルト。裁きの場は、もう整っている」
「了解」

 そう言ってテオバルトは宰相を無理矢理引きずるようにして部屋を出て行く。
 乾いた音を立てて扉が閉まる。室内に残されたのは、アリシアとアレクサンドルだけだった。

 沈黙が落ちる。やがて、アリシアがそっと声を漏らした。

「……叔父様、本当は……最初から、味方でいてくださったのですね」

 一瞬苦しげな表情を浮かべたアレクサンドルは、唇をギュッと結び、小さく頷いた。

(この人は、私の事を嫌っているのだと思っていた)

 宰相と親しげに言葉を交わす姿。アリシアの前では冷ややかに振る舞い、彼女の存在を無視するかのような態度。
 どれだけ手を伸ばしても、かつての叔父は振り返ってはくれなかった。

「私は、あなたに……ずっと見捨てられたと思っていました。宰相と同じ側に立って、私を都合よく操ろうとしているのだと……」

 震える声で、彼女はようやく口を開いた。言葉に込めたのは、怒りではなく――悲しみと未だ心に広がる動揺だった。

「……どうして、教えてくれなかったのですか。私……あなたの事、ずっと……」
 
 アレクサンドルは黙っている。だが、その瞳には確かな痛みが宿っていた。

「すまなかった。今思えば……もっと上手くやる方法があったのかも知れない。しかし私は軍人。ずっと王宮にいられる訳ではない。お前に嫌われ、恨まれたとしても、ジェロムの傍で奴の悪事の証拠を集めながら、お前の命を守る事しか出来なかった。心までは……守れなかった」

 その言葉に、アリシアの瞳が潤む。アレクサンドルは、震える小さな肩にそっと手を置いた。

「でも……何故私を守ろうと?」

 アリシアの言葉に、アレクサンドルは小さく目を伏せ、静かに口を開いた。

「……昔、アリシアが生まれる前の事だ。あの方……マリア妃が望んだ。私に、お前を守って欲しいと」

 アリシアの目が、わずかに見開かれる。

「……お母様が?」

 母の顔は父の私室にいくつも飾られていた肖像画で知っている。しかしその胸の温もりを知らずに育った生みの母。

「……そうだ。マリア妃はかつて私にこう言った。『私はこの子を守れないかもしれない。けれど、あなたならきっと、この子の未来を繋いでくれる』と……」

 アレクサンドルの声には、遠い記憶を辿るような懐かしさが滲んでいた。

「私は彼女にとって、実の弟のような存在だったと思う。私も、彼女を実の姉のように慕っていた。だからこそ、あの頼みは重かった」
「そうですか……実の姉弟のように……」
「兄上はジェロムに弱かった。そのうち狡猾なジェロムがいつお前の命を奪い、自らが国を乗っ取ろうとするか分からない。だから、どんな立場になろうとも姪の為に剣を取り、影に回ると――あの日、私は誓ったんだ」

 アレクサンドルはアリシアの方を見た。王家の血を引く印――アリシアと同じ色をしたその紫色の瞳は、今や何の仮面も被っていない。真っ直ぐな、ただ一人の叔父としての眼差しだった。

「ジェロムがお前を陥れようとする動きがあれば、誰より早く察知出来るように目を配り、いつかはジェロムを表舞台から引き摺り下ろす為にと生きて来た」
「でも……私は……そんな叔父様の気持ちも知らずに……」
「誤解され、疎まれていたのは知っていたよ。むしろそれで良かった。そうでなければ、素直で無垢なアリシアはすぐに顔に出てしまっただろうからな」

 アレクサンドルは静かに笑った。その笑みには、どこか寂しげな色が滲む。

「それでもいいと思っていた。憎まれても、軽蔑されても構わなかった。あの方に託された約束は……わたしにとって、何よりも重いものだったからな」

 アリシアは、しばらく何も言えなかった。胸の奥で何かが解けていくのを感じていた。
 絡まった糸が、ひとつ、またひとつと、丁寧にほぐれていくように。

「……叔父様は……ずっと辛い思いを一人抱えて……」

 ようやく絞り出した声は、涙に濡れていた。アレクサンドルは、まるでかつてのマリアを思い出すかのように、その涙をそっと見つめている。

「表立っては手を差し伸べられなくとも、時々王城でアリシアの姿を見つめていた。決して気付かれないよう、遠くから」

 アリシアは、その言葉を聞いて、ふと幼い頃を思い出す。

 

 ――それは、まだアリシアが七つか八つの頃。  
春先の雨が凍るように冷たく、王宮の外廊下を濡らしていた日だった。

 庭で転び、泥をかぶったまま戻ってきたアリシアは王女付き女官に叱責され、廊下に立たされていた。  
 ずぶ濡れの髪から雫が垂れ、淡いドレスの裾も泥と水で重くなっている。けれどアリシアは泣かなかった。ただ、じっと唇を噛みしめていた。

 誰も助けに来ない。それが、この城で生きる彼女の『当たり前』だった。

 けれど、しばらくするといつもの女官とは別の若い下働きが、アリシアの部屋に無言で毛布と温かい蜂蜜入りの紅茶を持って現れた。

 アリシアは戸惑いながらもそれを受け取り、毛布に包まり紅茶を飲んだ。冷え切った心がじんわりと熱を持ち直したのを今でもまざまざと覚えている。

 

 あれは……もしかしたら。

「……もしかして、あのときの毛布も、紅茶も……あなたが?」

 アレクサンドルはわずかに視線を逸らし、口の端を僅かに緩めた。

「さあ、どうだったかな。軍務で忙しくて、詳しくは覚えていないが……」

 そのとぼけた言い方に、アリシアは堪えきれず笑った。涙の粒が頬を伝ってこぼれ落ちる。
 誤解はようやく晴れ、二人の間に初めて、本物の家族としての絆が芽吹いた。

 アリシアはそっと手を伸ばし、アレクサンドルの手に触れる。

「ありがとうございます、叔父様。ずっと、私を守ってくださって。それと……テオバルトと……出会わせてくださって」

 あの頃の――痩せぎすで全てを諦めた目をした子どもは、一国の女王としての敬意と感謝に満ちていた。

「……私、ずっと、宰相から怒られるのが怖かった。けれど今日、ようやく……あの人がどれほど惨めな存在だったか、分かりました。私はもう、あの人の言葉に怯えなくても……いいんですね」

 アレクサンドルはその手を優しく握り返し、頷いた。

「お前はもう一人ではない。あの時に差し伸べられなかった私の手を、今後は正しい場所へ伸ばす。これからは私もお前の傍でお前を守ろう。それが、私の償いだ」

 アリシアは頷き返し、そっと涙を拭った。

「償いだなんて、叔父様は苦しい立場ながらもずっと私を見守ってくださっていたのですから……でも、ありがとうございます」

 その声は静かで――けれど、確かに強く、未来へと続いていた。
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