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37. 月の御子(アリシア、テオバルトside)
しおりを挟む宰相の裁きを終えてからふた月。
正義を貫いたという安堵とともに、どこか胸の奥に刺さったままの棘のような拭えない疲労感がアリシアに続いていた。
吐き気が治らず体の気怠さは日に日に増し、食も細く、度々立ちくらみさえ覚えるようになっていた。
「大変な思いをなさいましたので、疲れが原因かもしれませんが……念の為、女王陛下には『月の印の儀』を受けていただきましょう」
そう言って司教が勧めたのは、古くから王族の命を見守る為に伝えられてきた診察法だった。
アリシアは、王宮の奥――かつて幼い頃に足を踏み入れたきりの『月の間』へと導かれる。
円天井の中央には月の模様が刻まれ、窓からは柔らかな光が差し込んでいた。ここは定期的に大司教が訪れ、管理する神聖な場所。
普段からアリシアの体調を診てくれる司教一人と報告を受けた大司教も伴って、白い祭壇の前へと歩を進める。
香炉に火が灯ると、細やかな銀粉を含んだ煙がふわりと立ち昇った。
それは、夜の静けさをそのまま閉じ込めたような、不思議な香り……優しく、全身を包み込むような心地よい香りだ。
大司教がアリシアの手のひらをそっと取って掲げる。
そして胸元で唱えるのは、古語の祈り。アリシアに意味は分からなかったが、その響きはどこか懐かしく感じられた。
ゆらゆらと揺れる香煙が、月の光に照らされて淡く輝く。その色が白銀から金へと変わる瞬間――大司教が小さく息を呑むのが分かった。
「……神の命を、宿しておられるようです」
その言葉に、アリシアは思わず息を止めた。胸の奥で、何か暖かな光が灯ったような気がした。
子を――授かったのだ。
足元がふわりと浮いたような、不思議な感覚。命が、いま自分の中で芽吹いている。その事実がじわじわと心を満たしていく。
大司教と司教は、昇っていく煙のふた筋を見つめながら、どこか言葉を選ぶように、静かに言った。
「……少し珍しい形ではありますが、きっと月の加護が強く働いているのでしょう。安らかに、育まれますように」
アリシアは、心から微笑んで頷いた。
珍しい――という言葉に、一瞬の不安が胸をよぎったけれど、司教も大司教も穏やかに微笑んでいたから、きっと大丈夫なのだろう……と言い聞かせる。
テオバルトに知らせたらきっと驚いて、それからあの不器用な笑い方で喜ぶだろう。その姿を思い浮かべると、自然と胸が熱くなった。
「……ありがとう」
誰にともなく、そう呟く。それは生まれてくる小さな命へ。そして、これまで支えてくれたテオバルトへの、心からの言葉だった。
しかしこの時――アリシアはまだ知らなかった。
その煙が“二つ”に分かれた意味も、それが王族の記録に残るほど『稀』な兆しであることも。
その裏に潜む静かな危うさを、アリシアよりも先に知る事になるのは、テオバルトだった。
アリシアはいち早くテオバルトに知らせたくて堪らなかったが、体調が悪く、いつの間にかテオバルトが帰って来るのを待てずに眠ってしまっていた。
軍務から戻ったテオバルトは、夜遅い時間にも関わらず、大司教と司教が並んで自分を出迎えた事に、嫌な予感がした。
「女王陛下は、月の御加護を受けられました。おめでとうございます」
告げられた時、テオバルトは息を呑んだ。
この手が、無数の命を奪ってきたこの手が、命を授かる側になったのだと、アリシアが、自分の子を宿したのだという事実が、すぐには理解出来なかったほど。
何もかも報われた気がした。やっと何か、奪う以外の事が出来たような気がすると、テオバルトは思ったのだ。
しかしそれは一瞬の幻だった。
「――殿下、少しお時間をいただけますか。女王陛下には、まだお伝えしておりません」
そう言われ、テオバルトは司教と大司教と共に王城の一室へと足を踏み入れる。
アリシアの待つ宮から随分と遠い場所の一室を選ばれた事に、不安が膨らんでいった。
大司教の声は静かで、だがどこか張り詰めていた。
「お子は、双子です」
その言葉に、心臓が跳ねた。喜びの反応よりも先に、何かが背を這い上がってくる。
「双子……?」
「はい。ただし……月の印で『ふた筋』の煙が現れるのは、百年ぶりとも言われております。それほど希少な兆しです。ですが、その一方で……」
深い皺に囲まれた大司教の目が、そっと伏せられる。
「母体への負担が、尋常ではない。陛下は……おそらく、その身を削る形で、この二つの命を育むことになります」
沈黙が降りた。
言葉では説明出来ない、黒い沼へ沈みゆくような嫌な感情が、胸の内に広がっていく。
やっと、手に入れたはずだった。この手で守ると誓った相手。あの日、誰にも奪わせぬと心に刻んだ、愛する女が、今――
命の重みに、蝕まれようとしている。
「……奴らの罰は終わったはずだ。なのに、なぜアリシアが」
思わず呟いた声は、テオバルト自身が驚くほど掠れていた。
戦場で、幾度となく人を斬った。名も知らぬ敵を、命乞いする者を、何も感じずに葬ってきた。
剣こそが自分のすべてだと思っていたあの頃。ただ生き残ることしか考えていなかったあの頃。
――これは、その罰なのではないか。
ようやく得た幸福に、神が与えた代償。アリシアの命を懸けて、贖えと言っているのではないか。
テオバルトはそう思っただろう。
「それでも……守らなきゃならねぇだろ、俺が」
拳を握る。優しい色合いの花が綻んだような、美しく微笑んだアリシアの顔が、ありありと目の前に浮かぶ。
あの愛おしい命の光を、決して曇らせてはならない。
「アリシアには……まだ、伝えないように。俺から話す」
低く、押し殺すように言った。その背中に、沈黙のまま、大司教が頭を垂れた。
月の御子は、祝福か、それとも罰か。テオバルトには判断がつかなかった。
だが一つ確かなのは――この苦しみは自分が背負っていくべきだと、必ずアリシアの心と身体を守らねばならぬという決意だった。
とある夜――月光に照らされたアリシアの頬に、淡い輝きが宿る。テオバルトは彼女の背に近付き、静かに言葉を紡いだ。
「アリシア……実は、お前にずっと言えずにいた事がある」
アリシアが振り返る。自分を見つめるその表情がどこまでも澄んでいて、心苦しさにテオバルトは眉根を寄せた。
「腹の子は……双子だ」
「双子? 本当に? すごい……」
一瞬嬉しそうな笑みを浮かべたアリシアだったが、真剣な眼差しのテオバルトを前に、すぐ表情を引き締める。
「華奢なお前の身体には負担が大きすぎると、大司教は言った。どちらかが……あるいは、お前自身が、危ないかもしれないと」
アリシアは言葉を失う。静寂のなか、ただ月光だけが二人を包んだ。テオバルトは膝ををつき、まるで赦しを乞うようにしてアリシアの手をとる。そして告げた。
「それでも、俺は……命に命で報いたい。この試練が、戦場で奪ってきた命に対する罰ならば、全部俺が受ける。だから、アリシア――」
アリシアはテオバルトの目をじっと見つめている。普段は強気なテオバルトが、こんなにも悲しげな声で一言一言選ぶようにして告げるのが、アリシアの胸を打つ。
「俺は……お前と子ども達、三人の命を必ず守る。何があっても、だ。俺がお前の剣であり、盾である限り、必ず」
真摯な眼差し、黒曜石のような瞳にアリシアだけが映っている。真っ直ぐで、飾り気のない、ただ本音だけを告げる唇。
アリシアはそのどれもが愛おしい。
かつては傀儡として生かされていた。そんな自分が、相思相愛の相手の子を宿す事ができ、それだけでも奇跡だと思っている。
現在の自分を構成するもののうち、半分以上はテオバルトのお陰だと考えていた。
「テオバルト……話してくれてありがとう。でも、大丈夫よ。私、もうこの子が……この子達の事が愛おしくて堪らないの。あなたと同じくらい、この子達が大切なの」
そう言って、アリシアはまだまだ薄い腹をそっと撫でる。
その姿があまりに美しく、神秘的で、テオバルトは言葉を失い目を奪われた。
「だから大丈夫。必ず生きるわ。それに、この子達も生かす。四人で……家族になるのよ」
幼い頃から焦がれていた『家族』という形。奇跡のようなそれを手に入れた先に、今よりもっと幸せな出来事が待っているはずだと、アリシアは信じていた。
テオバルトは何も言えない。それでもただゆっくり頷き、アリシアの手の甲へ、まだ薄い腹へ口付けを落として答えたのである。
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