政略結婚の相手は、御曹司の元カレでした〜冷たいはずの彼が甘過ぎて困ってます〜

蓮恭

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6. 空回りしてしまう思いやり

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 その日、朝は晴天で雨が降る気配なんて全く感じさせなかった。
 それなのに夕方になって急に雷雨となり、私は夕飯の支度を終えたところで、礼司さんのことが心配になる。
 今日は定時で帰ると話していた。

「ここは駅から近いと言っても、この雨じゃあすぐにずぶ濡れになっちゃう」

 居ても立ってもいられず、玄関にある傘立てから礼司さんの黒い傘を手に取って、マンションを飛び出した。
 マンションから最寄りの表参道駅まで、徒歩でほんの四、五分だけど、やはり傘だけではずぶ濡れになってしまう。

「あ……そういえば」
 
 咄嗟に飛び出して来たものの、礼司さんが使う出口なんか知らない。仕方なく、きっとこちら側だろうと思う出口で待つ。

 改札の場所はここからは見えないけれど、人の流れの先に、きっと彼の姿がある。

 視界の端で、誰かが階段を上ってきた。少し先に、あの人の背の高さと、スーツのシルエットが見えた気がして――

(あ……)

 思わず歩み寄ろうとして、でも、寸前で足が止まる。

「……違う」

 口の中で呟いた独り言は雨音に溶け込む。

 雨は思ったよりも強くなっていた。私は出口の階段の上で、しばらく礼司さんの姿を探していた。

(……まだ来ない)
 
 いつまで経っても礼司さんの姿は見えない。電話番号だけは聞いていたけれど、メールのアドレスやSNSは聞いていなかった。
 それに今更電話をかけても、電車の中なら迷惑になるかも知れない。

(こんなことになるなら、聞いておけばよかった)

 ここまで自分の傘をさして来たけれど、雨で私の服は濡れていた。
 何もかも、全てが鈍臭い私を嘲笑っているみたいで、濡れた前髪から滴る雨に混じって、じんわり熱い涙が頬を濡らす。

 そんな時、バッグの中のスマホが着信を知らせた。

「礼司さん……?」

 スマホの画面に表示された名前を見てホッとする。

「はい……」
『静香、今どこにいる?』
「今は……表参道駅のB3出口の階段を登ったところに」
『何でそんなところに? まぁいい、すぐに迎えにいくから、そこで待っていろ』

 そう言って電話は切れた。

 傘を握る手がじんわり冷えてくる。通りを行き交う人々のほとんどは、急ぎ足で駅へと吸い込まれていく。

(もしかして……車だった?)

 いくら慌てていたとしても、礼司さんのことを知らなかったのだとしても、今思えばもっと上手いやり方はあった。自分の馬鹿さ加減が嫌になる。

「少しでも分かりやすいところへ……」

 そんな中、ふと――目の前の通りに、見覚えのある黒い車が滑り込むように停まった。

 助手席側の窓がスッと下がる。

「……静香」

 低く、聞き慣れた声。

「お前、なんでこんなとこで立ってるんだ。とにかく乗れ」

 そっけなく言いながらも、覗き込んだ車内にはタオルと、予備の傘。そのさりげない気遣いが、胸の奥を妙に熱くする。
 ずぶ濡れの服でシートが濡れるのを躊躇っていたら、「早くしろ」と少し怒ったように言われて、思わずドアを開けた。

「ごめんなさい……」

 慌てて乗り込み、身体を小さくする。車には詳しくはないからよく分からないけれど、見るからに高級そうな車内をこれ以上汚したくない。

「……どこに行こうとしていた?」
「……え?」

 運転は丁寧だったが、私に問いかける硬い声色、怒ったような横顔にヒヤリとする。

「家に帰ったら居なかった。連絡もなしに、だ。やましい事がないのなら、理由くらい話せるだろう」
「やましい事? 私はただ……」
「ただ?」

 ここで、「礼司さんを迎えに来ただけなの」と言えばいいのに、一人で勝手に空回りしたことを知られるのが恥ずかしく、情けなくて口籠る。

「……もしかして、俺を迎えに来たのか?」

 信号待ちで、礼司さんは私が持っていた二本の傘に気付く。薄紅色の傘と、黒い傘。二つとも濡れていて、私は出来るだけ車内に触れないよう、自分の身体に近付けて持っていた。

「……ごめんなさい。私が勝手に……電車だと思って……」

 母は車なんか持っていなくて、いつも電車で移動していた。
 野々宮では祖父の所有する車に乗る事が多かったけれど、私にとって通勤といえば電車だと、勝手に思い込んでいたのだ。

 居た堪れなくて俯く。ひとりでに涙が滲んで、目頭が熱い。鼻の奥がツンとした。

「……馬鹿だな」

 言われても仕方がない。そう思って、礼司さんの言葉を黙って受け入れる。

「風邪を引いたらどうする? それでなくとも静香は、無理をすればすぐに熱を出す体質だろう。だから無理はするなとあれほど……」

 ここまで言って、礼司さんは黙ってしまう。私の頬を濡らしているのが、前髪から滴る雨だけじゃない事に気付いたからかも知れない。

「……迷惑をかけて、ごめんなさい」

 それだけ、何とか口にした。その後礼司さんは何も言わず、気まずい空気が流れる中、二人でマンションに帰ったのだった。

 玄関をくぐっても、まだ心臓の鼓動が速いままだった。
 礼司さんの車に乗せてもらったあの短い時間、車内に漂っていたスーツの香りと微かな香水か整髪料の香りが、まだ鼻の奥に残っている。

(……恥ずかしいこと、してしまったな)

 勝手に思い込んで、勝手に走り出して、勝手に濡れて。
 そんな自分を見られてしまったことが、気まずくてたまらなかった。

「……着替え、持ってくる」

 礼司さんがそう言って姿を消し、しばらくして戻ってきた時、手にはバスタオルとTシャツ、そしてスウェットのズボン。

「静香の着替え、どこにあるか分からないから。とりあえずはこれを使え。先に風呂、入れよ」

 無表情な声だったけれど、それはどこか優しく――気遣うような響きがあった。

「……ありがとう」

 声が小さくなってしまったのは、濡れた髪と一緒に、心のどこかも少しだけ冷えていたから。

 

 熱いシャワーを浴び、礼司さんの服に袖を通すと、途端に胸の奥がくすぐったくなった。
 少し大きめのTシャツの袖が手の甲を覆い、スウェットはウエストをきゅっと絞らないとずり落ちてしまいそう。

(なんか……変な感じ)

 こうして誰かの家で誰かの服を着ているのは、私にとって初めてだったから。
 それが、六年ぶりに再会した元恋人のものだなんて、なんだか現実味がなくて――でも、どこか心地よくもあった。

 

 リビングに戻ると、礼司さんはダイニングテーブルでノートパソコンに向かっていた。

「あ……夕飯……温め直して、出しましょうか?」

(私ったら、夕飯も出さずに先にお風呂に入っちゃった)

 申し訳なさで肩をすくめながら尋ねると、礼司さんは手を止めずに答えた。

「もう食った。悪くなかった」

 それだけだった。でもそのひと言が嬉しくて、喉の奥がぎゅっと熱くなる。

(ちゃんと、食べてくれたんだ)

 何も言わなくてもいい。言葉じゃなくても、伝わることってあるんだ――そう思えた瞬間だった。

 

 夜も深くなり、礼司さんがパソコンを閉じたのは日付が変わる少し前だった。

「寒くないのか?」
「はい、大丈夫です。おかげで助かりました……服も、ありがとうございました」
「風邪、引くなよ」

 ぽつりと落とされたそのひと言に、胸の奥が静かに、でも確かに揺れる。

 六年前の礼司さんも、こうやって常に私を気遣ってくれていた。
 けれど当時の私は、そのあたたかさを自ら手放したのだ。

「おやすみ」

 そう言って礼司さんの背中が寝室に消えていくのを見送りながら、私は小さく息をつく。
 まだ距離はあるけれど、それでも今日は――少しだけ近付けた気がする。

(もう、今日みたいな空回りなんてしないように気をつけよう。メールアドレスも交換したし、きっと大丈夫)
 
 自分に言い聞かせながら、私はそっとリビングの明かりを落とした。
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