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10. 六年ぶりのキス
しおりを挟む「静香が悪いんじゃない」
言いつつ私に一歩、また一歩と近付く。そして私のすぐ近くに座り直した礼司さんの手が、頬の涙を拭おうとした。
けれど――触れてくれない。きっと、私が情けないことに呆れてる。
「私は……この場所に釣り合わない。あなたの隣に……相応しくないんです」
この場所に来て、私は何度他人を妬んだだろう。自分には無いものを持った、美しい女性達を。
仕事だって、私は祖父の計らいでたまたま環境に恵まれているだけ。自分の実力で得た場所じゃない。
こんなに素敵な会社、その会社をいずれ引き継ぐ礼司さんには、きっと小日向さんのような有能な女性が似合う。
「ごめんなさい……私は……あなたに……相応しくない。今も……昔も」
私の小さな嗚咽だけが響く嫌な沈黙の中、礼司さんは無言でハンカチを差し出した。
「泣くな……そんな顔、もう見たくない。あの時と……六年前と同じ顔だ」
差し出された紺色のハンカチを受け取り、そっと涙を拭う。礼司さんの発した言葉の意味を噛み締める。
「あの時俺は、純粋で、無垢なお前に触れる資格がないと思ってた。今も……まだ、そう思ってる」
驚いて顔を上げた瞬間、隣に座る礼司さんとの距離が近過ぎて息が止まる。すぐ近くで目が合う。
それは――まつげが触れ合いそうなほどの距離。礼司さんは私のこめかみに触れかけて、そして……ふと、手を引いた。
「……これ以上近付いたら、止まれない」
「……え?」
思いもよらない言葉に頬が紅潮する。
(どういう意味? 礼司さん、私に触れたいと思ってくれているの?)
今後の行動を決して間違えてはいけない、そんな気がして動けないでいた。
そんな私を置き去りにして、礼司さんは静かに立ち上がる。
無言で少し距離をとったその背中が、六年前と同じ、強い悲しみと切なさ、怒りのようなものを背負っているように見えた。
「礼司さん、私……」
咄嗟に立ち上がり、駆け寄る。その勢いのまま、私は礼司さんの背中に身を預けた。
硬い背中がギクリと震えたのを感じながら、それでも私の頬は、身体は、六年ぶりのその感触をしっかりと覚えていた。
「本当は……あなたが……ずっと忘れられなかったの」
あまりに自然と口をついて出た言葉。決して言うつもりなんて無かった。
でも、あの時と同じ背中を見て、考えるよりも先に身体が動いていた。
「私……ずるい女なの。祖父の遺言を知って……少し、期待してしまった。あの時、六年前には自分からあなたを手放したのに……」
ところどころ、泣きながらしゃくり上げるようにして伝えたので、礼司さんに全て伝わったか分からない。
そもそも私には自分の気持ちを伝える資格なんかないのに、礼司さんの沈黙をいい事に、本音をぶつけてしまったのだ。
「ごめんなさい……こんな事、あなたを困らせるだけって分かっているのに……っ、でも……ッ」
私の言葉は、最後まで紡げなかった。
突然振り返った礼司さんが私の顎を掴み、ぐいと上を向かせた。
泣き顔を見られたくなくて身を引こうとしてしまった私を、決して逃すまいとするように。彼は強く私を抱きすくめる。
「黙れ、それ以上は言うな」
「……ッ」
礼司さんの冷たい唇が、私の唇と重なり合う。私がこれ以上言葉を紡げないようにと。
懐かしいキス。傾けた顔の位置も、礼司さんの高い鼻が私の頬に触れるのも。
「ん……」
角度を変えながら、幾度となく繰り返されるキスは、甘くて熱かった。
「れ……じさん」
私を抱く礼司さんの右手が腰から下にスルリと滑ろうとしたところで、パッと二人の唇が離れる。
礼司さんはすっと私から距離を取り、右手の中指で鼻筋にかかった眼鏡のブリッジを押し上げた。
まるで、何かのスイッチが切り替わってしまったかのように。
「……すまない。どうかしてた」
それからどうやってマンションまで帰ったか、あまり覚えていない。
礼司さんがタクシーを呼んでくれて、会社からマンションには真っ直ぐ帰ったのだと思うけれど。
礼司さんが仕事から帰るまでの間、私はマンションで一人、今日の出来事を無かった事にしたいと神様に必死で祈っていた。
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