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40. 確かめ合う
しおりを挟む礼司さんは、私に向かって何かを伝えようとしていた。
けれど、言葉を探すように視線を彷徨わせたまま、しばらく沈黙が続いた。
「俺は……」
次にその口元が動いた瞬間、礼司さんのポケットの中にあるスマートフォンが着信を伝える。
一瞬だけ険しい顔をした礼司さんは、私に「すまない」と目で謝るようにして、電話に出た。
「……ああ。見つけた。無事だ。……ああ、ありがとう。……俺たちはもう少しだけ話をしてから戻る」
短く要点だけを伝えて電話を切ると、礼司さんはそっと私に向き直った。
「静香、聞いてくれ」
もう一度、まっすぐに私を見つめる。
「続きを……話してもいいか?」
頷くと、彼の手がゆっくりと私の頬に触れた。指先は、少しだけ震えていた。
「私は、逃げたりしません。でも……礼司さんも、もう逃げないでください」
礼司さんは私を見つめたまま、一瞬だけ目を伏せた。そしてゆっくりと、展望台の柵に背を預けるようにして小さく息を吐いた。
「……俺はお前のことを守りたかった。だからこそ、籍を入れることができなかった。あの時の婚姻届は……まだ俺が持ってる」
「どういう……ことですか?」
礼司さんが口にした言葉の意味を考えてみたけれど、やっぱりそれだけでは納得出来ない。
「……野々宮宗儀氏からの申し出だった。正式な婚姻ではなく、あくまでも一年間は『契約』という形で、静香の未来を預かってほしいと」
名前を出された祖父の顔が胸の中に浮かぶ。私に対してはいつも穏やかで、でも時折見え隠れする厳しい眼差し。
「お祖父様と礼司さんは、以前から面識が?」
(二人が直接の知り合いだったなんて……そんなこと、聞いたこともなかった)
「静香と別れてすぐ、宗儀氏が俺の元を訪れた。『何故孫を泣かせた』と。『どんな理由で別れたんだ』と聞かれたんだ。俺だって……その時は理由なんて分からなかったが」
ハッとする。そう言えば、私はあの頃とても落ち込んで、食事も喉を通らなくなって……祖父はとても心配して理由を尋ねてきた。
私は決して正直なことを答えなかったけれど、祖父は何らかの手段で礼司さんのことを調べたんだと思い至る。
「ごめんなさい……私、そんな事何も知らなくて……」
「宗儀氏は、可愛い孫が辛そうにしているのを我慢出来なかったんだろう。でも結局、俺には何も出来なかった。宗儀氏からも、『今はそっとしておいてやってくれ』と言われていたんだ」
何も知らなかった、礼司さんと祖父の繋がり。私だけが何も知らず、一人傷付いていたつもりになっていた。
祖父も、礼司さんも心を痛めていたのに。
「宗儀氏が自分の余命を知ってから後に、俺の元を再び訪れた。『静香と夫婦になってくれ』と。一年間の契約結婚の話が出たのはその時だ」
「それじゃあ、遺言を書くよりも前に、祖父は礼司さんと会っていたんですね」
「ああ、ほんの数回……だが」
(知らなかった。お祖父様がそんな風に……私に隠して礼司さんと話をしていたなんて)
「一旦夫婦として過ごす機会を与えるが、静香の人生を縛る形にはしたくない、と。俺のような人間に、お前の未来を委ねるのが正しい選択かどうか、本人の意思がしっかり固まるまでは『形だけ』にしておきたい、と言われた」
「……それで、籍を入れずに?」
私は思わず、問い返していた。礼司さんは、僅かにに首を縦に振った。
「最初はそれで納得したつもりだった。機会を与えられただけでも幸いだと。だけど、いざ静香を目の前にして、俺は今後も絶対にお前を手放せるわけがないと悟った」
「……じゃあ、どうして私にそのことを言ってくれなかったんですか……?」
「せめて一年、宗儀氏との約束は守りたかった。あの人の最期の願いだったからな。だけど本当は……それ以上に怖かったんだ」
その言葉は、思いがけないほど苦しそうだった。
「本当のことを話したら、静香が離れていくんじゃないかって。契約のことも、籍のことも……全部、お前の知らないところで勝手に進めた。静香の意思も、未来も、俺が強引に手に入れようとしたと知ったら……」
「礼司さん……」
「お前を失った六年、俺は前を向くフリしかできなかった。再び一度は手元を飛び去ったお前を手に入れる機会が訪れた時、また振り払われるのが……怖かった」
礼司さんの声が震える。
「軽蔑されるのが怖かった。あの時の俺にはもう、なりふり構わず静香と一緒に過ごす方法だったけど、お前の気持ちは分からなかったから。でも……たとえ拒絶されても、手放す勇気なんてなかった」
胸が、きゅうっと締めつけられる。
(そうだったんだ……)
私はそっと、彼の手に触れた。あたたかくて、でもどこか怯えるように揺れていた手を、包み込むように握り返す。
「私は……そんな風に思われてたなんて、知らなかった。お祖父様のことも、礼司さんの気持ちも……こんなにも深く、私を想ってくれていたなんて」
「ごめん」
礼司さんの低い声が、夜風にかき消されそうになる。
私は首を横に振った。
「でも……言ってくれて、よかった。あなたの口から聞きたかったから」
ふと、彼の瞳が揺れた。
「静香……」
「私は、礼司さんといたいって、心から思っています。契約じゃなくて、形だけでもなくて、ちゃんとあなたの『妻』でいたいって……ずっと、思ってました」
礼司さんの手が、ぐっと強く私の手を握る。
「きっかけは礼司さんとお祖父様が与えてくれた。ほれがなかったら、私は一歩が踏み出せなかった。きっと今もあなたのことを想っては、後悔する日々を過ごしていたと思います」
「静香……」
「軽蔑なんてするわけがないじゃないですか。私は……そうまでして、私のことを欲しいと思ってくれたあなたが……あなたのことが、本当に愛おしいと思っています」
礼司さんはガバリと私を抱き締めた。強く、強く。そして私の耳元で、かすれた声で『静香……』と、何度も名前を呼ぶ礼司さんがいた。
抱擁の力強さと、彼らしくない弱さが、何よりの答えだった。
(私は……ちゃんと愛されている。もう迷わない。この声が、私の居場所だと教えてくれるから)
礼司さんの腕の中で、私はそっと目を閉じた。あたたかい。――私を呼ぶ声も、その震える手も、全部が優しかった。
しばらくそうしていたあと、礼司さんが名残惜しそうに、けれど穏やかな声で言った。
「帰ろう……如月の奴、心配してる」
私は小さく頷いた。けれどその足が動き出す前に、少しだけ勇気を出した。
――そっと、彼の手を取る。
驚いたように礼司さんが私を見る。けれど、拒まない。むしろ、私の手を包むように優しく握り返してくれる。
あの時は、観光中に並んで歩くことさえ躊躇っていた。けれど今は違う。今は、ちゃんと隣に並べる。
(もう迷わない。私は、礼司さんの妻だから)
月明かりが照らす山道を、二人で並んで歩く。手を繋いだまま、少しも離れずに。
しばらくして如月さんの実家に戻ると、玄関の灯りが煌々と点いていた。中に入ると、リビングのソファーで座っていた如月さんが私達に気付き、一瞬泣きそうな顔をした後にすぐ立ち上がった。
そして、いきなり――床に膝をついた。
「静香さんっ! 本当に……申し訳ありませんでしたっ!」
驚いて目を見開く。ふわふわとセットされていた髪を乱し、頭を深々と下げている如月さんの姿は、普段の軽薄さの欠片もない。
「まさか診察室の会話を聞いてるとは思わなくて……ていうか、オレが不用意に話したのがいけないんだけど! ほんと、マジで……」
絨毯に額を擦り付けるようにして、如月さんは何度も謝り続ける。やや大袈裟に見えるその行動でさえ、如月さんらしいと言えばらしい。
彼なりの真剣な謝罪なのだろうと、素直に受け止められた。
私は礼司さんと一瞬目を合わせ、頷き合ってから跪いた。
「あの、顔を上げてください。そんなに謝らないでください」
派手なシャツの肩に手を当て、そう言うと、如月しんはそろりと顔を上げる。どこか情けないような、申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「怒ってない……の?」
「ふふっ、むしろ……感謝しています」
その言葉に、彼はぽかんと口を開けた。
(この人……憎めないな。礼司さんが大切に思うの、よく分かる)
彼の軽さも、真剣さも、どちらも嘘じゃない。だからこそ、きっと礼司さんは昔から、彼と友人でいられたのだろう。
「如月さんのおかげで……私は礼司さんとちゃんと向き合えました。だから……ありがとうございます」
言いながら、自然と微笑んでいた。
「……マジで天使かよ……」とぼそりと漏らした如月さんに、礼司さんが溜め息をついたのは言うまでもない。
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