政略結婚の相手は、御曹司の元カレでした〜冷たいはずの彼が甘過ぎて困ってます〜

蓮恭

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41. 新しい朝の始まり

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 旅行から戻って、数日が経った。
 
 あの夜、礼司さんと本当の想いを確かめ合ってから――私たちの日常は、少しずつ、けれど確実に変わっていった。

 朝は変わらず早い。
 礼司さんは静かに目を覚まし、洗面所のドアが開く音とともに一日が始まる。
 けれど今はもう、私は一人きりで目覚めることはない。

 ベッドの隣には彼がいて、目が合えば真っ直ぐな眼差しで見つめ返してくれる。

(……不思議。こんな些細なことで、こんなに心があたたかくなるなんて)

 朝食には、いつものように和食を並べた。焼き鮭、出汁を丁寧に取ったお味噌汁、季節の小鉢――どれも礼司さんの好みに合わせたもの。
 私達の朝の定番だった。

「……いただきます」

 その声が聞こえるだけで、胸がふわっとなる。彼は箸を進めながら、時折、ちらりと私を見た。そんな視線さえ、今は心地いい。

「……美味しい。お味噌、少し変えた?」
「はい。赤味噌と合わせてみました」
「うん。正解だったな」

 短くそう言って、彼は最後まで綺麗に平らげてくれた。たったそれだけのことなのに、私は朝から幸せでいっぱいになる。

 けれど――一つだけ、まだ果たせていないことがあった。

 旅行に行く前に選んだ、礼司さんへの誕生日プレゼント。あの時、渡すタイミングを逸してしまって、それきりになっている。

(少し時間に余裕がある……よし、今日こそ)

 食後、礼司さんはネクタイを締め、上着を羽織った。眼鏡を手にした瞬間を見計らって、私はそっと声をかける。

「……あの。ちょっとだけ、いいですか?」

 礼司さんは眼鏡をかける手を止めて、私の方を振り返った。

「ん?」

 収納棚から小さな紙袋を取り出す。深い藍色のリボンで結ばれた、それだけの、けれど私にとっては特別な包み。

「誕生日に渡すつもりだったんですけど……渡せなくて。今になってしまいました」

 視線が泳ぐのを止められなくて、少し俯いたまま彼に渡した。
 礼司さんは何も言わず袋を受け取り、その場でリボンを解く。

 現れたのは黒に近い深い紺色の、上質な革の眼鏡ケース。
 手触りのいい、品のある質感。装飾は抑えて、けれど細部まで丁寧に仕立てられている代物だ。
 礼司さんの持ち物にふさわしいものを、と何度も悩んで選んだ。

 一瞬、礼司さんの手が止まる。

 そのまま、眼鏡をそっとケースに収めながら、ふと私を見た。

「……不思議だな」
「え……?」
「いや、少し前にふと欲しいなと思っていたところだった」
「本当に?」
「ああ、助かる。ありがとう」

 低く、でもどこか優しい声。思わず微笑みが零れた。

「……良かったです。もし使いにくかったら、無理しなくていいですからね」
「使うよ」

 その一言には、少しだけ圧が混じっていた。それから礼司さんはケースを持ったまま、私の前にゆっくりと近付く。

「お前が選んだ物を、俺が使わない理由があるか?」

 その声音と至近距離からの眼差しに、思わず息を呑む。

「礼司さん……」

 そして彼の手が、私の髪にそっと触れる。撫でるように、優しく整えて――不意に、囁くように言った。

「……大事にする」

 心臓が跳ねる音が、耳の奥で響く。

(今のは眼鏡ケースに向けて? それとも……私?)

 声に出してはいない。でも、きっと顔に書いてたんだと思う。

「眼鏡ケースも、お前も。どっちも、もう手放すつもりはないから」

 その言葉が、まっすぐに胸に落ちてくる。静かな朝の空気の中、こんなにも甘く、こんなにも温かく。

 私は何も言えず、けれど、確かに頷いた。

(礼司さんはいつも、私の欲しい言葉をくれる)

 フッと笑った礼司さんは、私の頷きを見届けると、そっと眼鏡をかけた。
 新しいケースが彼のスーツにしっくりと馴染んでいるのが嬉しくて、私は胸の奥に何かがじんわりと染み渡るような心地がした。

 礼司さんは腕時計にちらりと目をやってから玄関へと向かう。私もその後を追い、コートを手に取った。

「……あの、今夜って、遅くなりそうですか?」

 靴を履く背中に声を掛けると、礼司さんは振り返って私を見た。

「なるべく早く終わらせるつもりではあるが……どうした?」

「いえ、特には……。ただ、今夜……もし帰ってこられるなら、少し特別なご飯を用意しようかなって思っていて」

 言いながら、自分でもほんのり顔が熱くなっていくのがわかる。

 礼司さんは、一瞬だけ表情を崩す。けれどそれは微笑みではなく、どこか真剣な、優しさを滲ませた表情だった。

「じゃあ……なるべく早く帰る」
「本当に? いいんですか? 何だか……我儘言ってごめんなさい」
「ああ。静香の我儘は可愛いものだ。それに、たった今帰りたくなる理由が出来たからな」

 そんな風にさらりと甘い言葉を乗せてくるのは、本当に狡いと思う。
 照れ臭くて堪らなくなった私は、何も言い返せずにただ俯くしか出来なかった。

「お前があんまり可愛いから、離れ難い」
「……ち、遅刻します」
「そうだな」

 私の髪を、礼司さんはそっと指先ですくい上げた。そして何の前触れもなく、額にやさしくキスを落とす。

「……行ってくる」

 低くて、落ち着いた声が耳に残る。そして扉が閉まる音が、朝の空気の中に静かに響いた。

 私はしばらくその場に立ち尽くしながら、頬に残ったぬくもりを、そっと掌で覆った。

(私、こんなにも幸せな朝を、これから毎日迎えられるんだ)

 眼鏡ケースの入っていた紙袋のリボンが、几帳面に折り畳まれて花台に置かれている。
 私はそれを拾い上げ、笑みを浮かべた。

「……行ってらっしゃい、礼司さん」

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