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45. 最終話
しおりを挟む柔らかな陽光がカーテンを通して降り注ぎ、支度部屋を今日だけの色に染めていた。
ドレッサーの前に腰かけた私は、鏡に映る自分の姿を、少し不思議な気持ちで見つめていた。袖を通したウェディングドレス。纏ったヴェール。
子どもの頃夢に描いた『花嫁』という言葉よりもずっと静かで、深くて、温かい。
(……もう、ここまで来たんだ)
この一年、何度も迷って、すれ違って、でもそれでも離れられなかった。ようやく、あの人と並んで歩く場所に辿り着けた。
「髪飾り、お付けしますね」
美容師さんの声に頷くと、そっと留められたのは――白い蝶のモチーフ。
(……やっぱり、蝶)
思えば、式の準備が始まった頃から、礼司さんはさりげなく蝶にこだわっていた。招待状の封緘シールも、会場装花の小物も、彼が選ぶものはどこかに蝶が潜んでいた。
「どうして蝶なんですか?」と尋ねても、礼司さんはいつも少しだけ笑って、「深い意味なんてない」と言うだけだった。
本当はそこに深い意味があるのだと、私は知っている。でももう、それを言葉で聞かなくてもいい気がしていた。
何も言わずに渡してくれた愛を、ようやく私はちゃんと受け取れるようになったから。
支度が整い、控室の扉に手をかけようとしたときだった。
ふと、すりガラス越しに人影が見えた。振り返るように、ゆっくりと立っていたのは――母だった。
遠く、ほんの少しだけ距離を取るようにして、こちらを見ている。華やかな場に馴染むよう、上品な装いに身を包んで。
でも、その目元にはどこか懐かしい光が宿っていた。
言葉はなかった。ただ、ずっと見守っているという、確かな眼差しだけが、そこにあった。
(これまでも、ずっと静かに……遠くから見守っていてくれていた)
私は一礼するように小さく会釈をして、扉に手を戻した。
(ありがとう。お母さん)
深く息を吸い込んで、私はそっと結婚式へと続く廊下へ足を踏み出した。
チャペルへの扉が開かれた瞬間、思わず小さく息を呑む。
まばゆい光と花々の香り、そして静かな音楽。この空間のすべてが、今日という日のために用意されていた。
私は一歩ずつ、ゆっくりとバージンロードを進む。エスコート役は誰もいない。礼司さんは私の隣に誰かが立つのを許さなかったから。
裾を引くドレスの重みすら、今は心地よく感じられた。
視界の端、椅子に並ぶゲストたちの姿が静かに揺れる。白いクロスと薄紫の花々に囲まれたその列の中で、いくつかの視線が私を迎えてくれる。
和装の朱鷺子さんは、静かに目を細めて頷いた。まるで「よくここまで来たわね」と言葉を贈るように、ゆったりとした所作で手を重ねる。
そして今日だけは派手なシャツを封印した如月さん。
相変わらず軽く茶化すような笑みを浮かべながらも、その拍手の音だけはまっすぐに私たちへと向けられていて――私は思わず、胸の奥が少しだけあたたかくなるのを感じた。
そして、最前列。芹沢典久さんと、麗子夫人。
麗子さん――お母様は微笑んではいなかった。けれど口元は固くなく、どこか戸惑いと安堵が混じったような眼差しで、じっとこちらを見つめていた。
その視線の隣で、典久さんはゆっくりと片眉を上げ、ほんの少し、頷いた。
(ちゃんと……祝福されてる)
言葉にならない感情が、胸の奥にそっと灯る。過去も、すれ違いも、たくさんの傷も――全ては今、この場所に繋がっていた。
視線をまっすぐ前に向けると、祭壇の前で静かに立つ礼司さんと目が合う。彼は何も言わず、ただ私が近付いてくるのを見守っている。
その目元がほんの僅かに、やわらかくなる。
(……届いてる)
そう思った瞬間、眦に涙が滲みそうになって……でも私は頑張って微笑んだ。
真っ直ぐに、あなたのもとへ――今日、私の全てを捧げる為に。
礼司さんのもとまで、あと数歩。そのまま視線を逸らすことなく、私は一歩ずつ彼の前に近付いていった。
その時――ふわり、と。
ガラス張りのチャペルの高窓から、春の風が流れ込んできた。
その風に運ばれるようにして、ひとひらの影が光の中を舞う。それは、小さな、小さな白い蝶だった。
静かに、まるで導かれるように。
その蝶はくるくると輪を描きながら、私の肩のあたりまで降りてきた。そして、髪に飾られた白い花の上――そこに、そっと舞い降りる。
まるで、最初からそこが自分の居場所だったかのように。
(……え?)
思わず、動けなくなる。
息を呑んだまま見上げると、礼司さんも一瞬だけ目を見開いて、そして――微かに笑った。
声はない。言葉もない。けれどその微笑みの奥に、全てが詰まっていた。
(やっぱり……理由なんて、聞かなくて良かった)
蝶のモチーフに、ずっとこだわっていたあの人。でも私は、もう何も聞かなくていい。このひとときが、全てを物語っていたから。
たとえ偶然だとしても、私は――今日という日に、蝶に祝福されたことを一生忘れない。
蝶は、髪飾りの花の上でしばらくじっとしていた。まるでこの場の全てを見届けるように。誰よりも先に、私の幸せを確かめに来てくれたように。
(……もしかして、お祖父様……?)
ふと、そんな考えがよぎった。根拠なんて、どこにもない。けれど――今日この日に、蝶が私の髪に降り立つなんて、偶然だと思えなかった。
あの人がいたから、私はここに立っている。愛されていたことを知ったから、もう一度、誰かを信じようと思えた。
(ありがとう、お祖父様)
心の中でそっと呟いた瞬間、蝶はひと揺れだけ羽を震わせて、また風に乗って、高く高く、光のほうへと舞い上がっていった。
その背を見送りながら、私は胸の奥でそっと囁く。
(もう、大丈夫だよ。ちゃんと、幸せになるから)
静かに視線を戻すと、礼司さんが一歩、私に近付いてくる。そして私の手を、何よりも大切なものに触れるように、そっと取った。
言葉はなかった。でも、目がすべてを語っていた。
あなたがいてくれる。あなたと一緒に生きていく。この先も、どんな季節も、どんな嵐も――共に歩いていくと。
静かに頷くと、礼司さんの指先が私の指に触れて、そっと指輪を差し出してくる。
私はその指輪を受け取り、彼の左手薬指に、ゆっくりと通した。それは、ただの儀式じゃない。
指輪は私達がこの一年身に付けていたもの。けれど今ここに誓うのは、『私はあなたの全てを愛します』という、新たな誓いの形だった。
チャペルの中に、拍手の音が広がる。
風がまた、ラベンダーの香りを運んできた。白い装花のあいだで、小さなガラスの蝶たちが、陽の光に震えるように煌めいている。
まるでこの空間全部が、今日という日を――私達の未来を、祝福してくれているようだった。
挙式を終え、スタッフの方に控室へ案内される。けれど廊下の途中、その方がふと立ち止まり、小さく微笑んで言った。
「お色直しまで、少しお時間ございます。どうぞごゆっくりなさってください」
そう言って軽く会釈をして、何気なく視線を前に向ける。そして去って行った。
彼女が向けた視線の先――談話スペースのような広間の奥に、三人の姿があった。
母。そして、典久さんと、お母様。
普段はそれぞれ別の場所に生きている人達が、今日という日を軸にして、同じ空間で言葉を交わしていた。
「……あの時のことは、申し訳ありませんでした」
母の声は小さく、でもはっきりと私の耳まで届いた。細い身体を深く折り曲げ、頭を下げている。
対する典久さんはその言葉に眉一つ動かさず、僅かに視線を伏せるだけ。
「……あれは、若さのせいだ。互いに、それぞれの覚悟で選んだ道だったのだろう」
言葉は淡々としていた。けれどその声には、どこか懐かしさのような、優しさにも似た静かな色があった。
お母様はそんな二人の様子を見て、ふいに視線を逸らす。
「なんだか、まるで『今さら戻ってくる初恋』みたいなお話ですこと」
その言葉に、母は目を伏せて笑った。そして少し遅れて、典久さんも苦笑を一つだけ洩らす。
「俺は妻を変えるつもりはない。いま隣にいるのが君で、本当に良かったと思っているよ、麗子」
一拍、静寂が降りた。
お母様はひどく驚いたように瞬きをして。それから、まるで聞き取れなかったふりをするように、つんと顔を逸らした。
「……そんな風に言われたら、拗ねる暇もないじゃないですか」
言葉の調子はいつもの皮肉交じりなのに、どこか頬が緩んでいるようにも見えた。
そのやりとりを、母は黙って見つめていた。そして静かに一歩だけ下がる。
まるで、もう自分の役目は終えたとでも言うように。
私はその場に近付くことなく、ただ遠くから静かに会釈をした。母も私に気付いていたはずなのに、ただ目だけを細めて、何も言わずに微笑んでいた。
控室の扉がノックされたのは、スタッフが仕上がりを確認していたちょうどその時だった。
「失礼します。新郎様が、お迎えにいらしています」
そう告げられた瞬間、胸の奥がきゅっとなる。結婚式は終わったはずなのに、まるで初めて会う日のような緊張が走った。
扉が開き、現れたのは礼司さんだった。フォーマルなタキシードに身を包んだその姿は、さっきの式のときよりもなぜか洗練されて見えて……一瞬、息を呑むのを忘れた。
彼の視線が、私をゆっくりとなぞる。ドレスの色も、髪飾りも、メイクも――さっきとは全て違う私を、まるで心に焼きつけるように見つめている。
「……さっきの姿が綺麗過ぎて、迎えに来るのを一瞬躊躇った。だが、来て良かったな」
ぽつりとこぼされたその言葉に、頬が熱くなる。
「会場を置いて、迎えに来てくれたんですか?」
そう問いかけると、彼は微笑んで、手を差し出してきた。
「当然だろう。俺の妻を、また俺の隣へ連れて帰るために来たんだ」
その言葉に、胸がふわりと満ちていく。
手を取ると、礼司さんの手は少しだけ熱を持っていた。そのぬくもりが、緊張も不安もすべて溶かしてくれるようだった。
「じゃあご一緒に、お願いします」
「ああ、こんなに美しい妻を迎えられて幸せだ」
そっと重ねた手のまま、二人で扉をくぐる。扉の外には祝福の光と、拍手の音と、これから始まる新しい未来が、ゆっくりと待っている。
披露宴会場は、湖を臨むガーデンの一角に設えられた特別空間。
白とラベンダーを基調にしたテントと装花が、自然の光と調和して、洗練された空気を纏っていた。
式とは違い、会場には多くの人の姿がある。礼司さんの会社関係――重役たちや重要な取引先の面々。
朱鷺子さんのご縁で集まった、品のある装いの奥様方。そして親族の方々。
彼らの視線が一斉に向けられた先――お色直しを終えた私と礼司さんが、並んで歩いてガーデンに現れると、会場は一瞬、静まり返った。
それは決して気まずい沈黙ではなかった。ただ視線の全てが、私達に向けられている。
ゆっくりと歩く私の手を、礼司さんがそっと包む。緊張していた心が、その瞬間、静かに解けていくのを感じた。
そして次の瞬間、拍手が湧き起こった。
誰かがシャンパングラスを鳴らし、音楽が再び優しく流れ出す。拍手に包まれながら、私達はゆっくりとガーデンを歩いた。
ラベンダーの香りが風に揺れ、陽射しは柔らかく、祝福のざわめきが穏やかに重なっていく。
パラソルの下、和装から着替え、シャンパンを手にした朱鷺子さんが目を細めていた。艶やかなグレイのショールに、きらりと光るブローチ。どこか遠巻きに見ていたような彼女が、静かに歩み寄る。
「礼司さんに初めて会った時には『怖い顔』と思ったけれど、こんな顔をするなんて、ね。少し、信じられないくらい」
それは静かな揶揄いのようでいて、優しさの滲んだ声音だった。
「あなた、本当にいい顔をしている。私も一つの役目を終えて安心したわ」
「……ありがとうございます。これまでの朱鷺子さんの言葉、ずっと俺の心に残っていました」
「そう? それなら、私も今日来た甲斐があったというものね」
そう言って朱鷺子さんは礼司さんの肩を軽く叩き、「大事にするのよ。静香さんを泣かせたら承知しないから」と冗談めかして微笑んだ。
白いパラソルの下、グラスを片手に談笑していた如月さんが、こちらに気づいてひょいと手を挙げた。相変わらずの茶目っ気と華やかさ。けれどその目元は、穏やかで落ち着いていた。
「やっと来たな。主役の登場で、空気が一気に締まったよ」
そう言って軽くグラスを掲げたあと、如月さんは静香に向き直り、わずかに頭を下げた。
「改めまして、静香さん。悪友としてご挨拶を。うちの礼司が、たいそうお世話になってます」
冗談めかした言い方だったけれど、そこには確かな敬意があった。私は笑顔で会釈し、「こちらこそ、いつも礼司さんを支えていただいてありがとうございます」と返す。
「いやいや。あいつが他人に支えられるなんてキャラだったの、初耳だけどな?」
如月さんはそう茶化しながらも、礼司さんの方へと視線を移した。
「でも、いい顔してるよ。お前。昔、無理して強がってた頃とは、まるで別人みたいだ」
「……お前にだけは言われたくないな」
「そりゃあね。でもさ、俺はずっと見てたから。あの頃のお前を。だから、今こうして隣に『全部を預けられる相手』がいるってのは、正直羨ましいし、ホッとしてる」
笑いながらも、どこか本気の声だった。礼司さんはふっと息をつき、渡されたグラスを手にしたまま一言だけ返す。
「ああ……静香だけは、何があっても絶対に手放さない」
「いやいや、わざわざ言わなくてももう嫌というほど知ってるよ。まあ俺にできるのは、せいぜい見守ることくらいだ」
そう言って、如月さんは静かに微笑んだ。その横顔には旧友としての誇りと、ささやかな安堵がにじんでいた。
そして中央の丸テーブル。そこには、私の母と礼司さんの両親の姿があった。
お母様は以前よりずっと柔らかい表情で、「静香さん、あのドレス、似合ってたわ」と、静かに言ってくれた。
典久さんは言葉少なに「……これからの礼司を、頼む」とだけ。その一言に込められた想いを、私はきちんと胸に刻んだ。
そして母は、何も言葉にしなかった。ただ、遠くから見守るようなまなざしで、私に頷いてくれただけ。
日が少し傾き、ガーデンの光が柔らかくなる頃――ふと人の波が落ち着いた一瞬を見計らったように、朱鷺子さんが私の元へ近付いてきた。
「静香さん、少しだけ、お時間いいかしら」
彼女の声はいつも通り穏やかで、それでもどこか決意を帯びていた。促されて、私たちは庭の片隅へと移動する。風が静かに、白い布を揺らしていた。
「……あなたに、今伝えなくてはいけないことあるの」
私は思わず身を正す。その空気が、ただの祝福の延長ではないと、すぐに察したからだ。
「宗ちゃんは……野々宮宗儀は、最期まであなたを守ることを考えていたわ。いえ、『守る』というより、『どんな時代の中でも立てるようにする』という言葉が正しいかもしれない」
朱鷺子さんは、ふと視線を遠くへやる。
「今や芹沢という名は確かに大きい。でも、世の中はいつも善意でできているわけじゃない。だから宗ちゃんは、礼司さんが今後さらに社会の中心に立っていく中で、あなたが他者から傷付けられるを心から恐れていたのよ」
「……っ」
「だから宗ちゃんは決めたの。もし一年の契約結婚の後、あなたと礼司さんが本当に結ばれたなら、『芹沢礼司に野々宮の名を与える』という選択肢を、見守り役である私に託す、と」
私は目を見開いた。それは想像もしていなかった形の、お祖父様の遺志。
「佳子さんは、いま『仮の当主』という位置づけよ。静香さん、本当に野々宮の名を継ぐのは……今日ここであなたと結ばれた礼司さん」
「そ、んな……」
(礼司さんが私の為に……芹沢の名を捨てようとしている……)
「礼司さんは、その話をすでに受け入れている。彼は言ったわ。『静香を守る為に名が必要なら、俺がその名を継ぐ』って」
私の喉が、ひりつくように詰まる。
「典久氏も麗子さんも、野々宮を継ぐ礼司さんの意思を受け入れてくれた。そのうえで、二人が築く新しい芹沢と野々宮の『かたち』を……今日、この披露宴の最後に発表する予定よ」
「そんな……」
涙が、視界を曇らせた。
知らなかった。こんなにも、私は――たくさんの想いに、守られていた。
「静香さん、宗ちゃんは……『血筋』よりも『心』を信じたの。あなたが礼司さんに選ばれたのは、『野々宮の娘』だからじゃない。あなた自身が、誰よりも誠実に彼を愛したから」
「……朱鷺子さん……」
「さあ。涙を拭いて。この後、礼司さんがあなたを迎えに来る。あなたはもう、ただ『守られる花嫁』じゃないわ。もう、分かっているでしょう?」
私はそっと目元を拭う。風が頬を撫でるように吹き、木々がざわめいた。
――「静香、お前の幸せを祈る」
まるで――遠くからお祖父様が囁きかけているかのように感じられた。
――これまで、たくさんのものを諦めてきた。
静かに生きることが、誰かを守る手段だと思っていた。けれど、そんな私の全てを引き受けて、未来に連れて行ってくれる――礼司さん。
「どれだけ……あなたのことを、好きになれば気が済むの……」
眦が熱い。胸の奥にある大きな愛が、更に熱量を持って存在するのを自覚した。
夕暮れが湖面を鮮やかに染めていた。披露宴も終盤。祝福に満ちた時間の余韻が、会場全体を穏やかに包んでいる。
静かにBGMが切り替わり、司会者が声を上げた。
「それではここで、新郎である芹沢礼司様より、皆様へご挨拶をいただきます」
その呼びかけに、ゲストたちが自然と視線を前に向ける。
礼司さんが、私の手をそっと離し、中央へと歩み出た。
淡い陽射しにタキシードの黒が引き締まり、彼の存在感を際立たせている。
マイクの前に立ち、礼司さんは一礼した。
「本日はご多忙の中、私たちの門出にお越しいただき、心より御礼申し上げます」
穏やかな、けれど芯のある声。その第一声に空気が引き締まる。
「私はこれまで、『芹沢礼司』として生きてきました。重責のある家に生まれ、数多くのものを背負い、守ってきました。けれど……静香と出会い、共に過ごす中で、『守る』ということの意味が変わっていったのです」
礼司さんの目が、私を探すように動き、やがてまっすぐに見つめてくる。
「彼女は、私にとってただの妻ではありません。唯一無二の伴侶であり、人生そのものです」
ざわめきのような感情が、ゲストの間を通り抜けた。その余韻を置いてから、礼司さんは静かに言葉を重ねる。
「私は本日をもって、『野々宮礼司』という名を受け継ぎます」
一瞬、会場が息を呑んだように静まり返る。
そして――拍手。最初の音は、朱鷺子さんの手から。その後、静かに、力強く、波紋のように広がっていった。
典久さんは一つ大きく頷いた。お母様は静かに目を伏せ、そしてすぐにまた上げる。
母も、何も言わずにただ手を重ね、その目に涙を光らせていた。
私は胸の奥が熱くて、視界が霞むのをどうしても止められなかった。
やがて礼司さんが私の隣に戻ってくる。そしてマイクを通さず、そっと耳元に囁いた。
「俺の名が何に変わっても――静香の隣にいたいという気持ちは、変わらない」
その言葉が、全てだった。私は礼司さんの手を取り、深く、強く、頷く。
「ありがとう……礼司さん」
その瞬間、風がふわりと吹き抜ける。花の香りとともに、ひらりと白い蝶が空を舞った。
夕暮れの空へと舞い上がるその蝶を、私は見上げながら、胸の奥でそっと囁いた。
(ありがとう、お祖父様。ありがとう、みんな――)
私、ちゃんと幸せになります。この人と共に、何があっても。
光の中、礼司さんと私が再び並び立つ。
「これからも、二人で歩いていきます」
――これが、私達夫婦の『本当の始まり』。
二人で歩く道の、その第一歩を、静かに、確かに踏み出した。
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