政略結婚の相手は、御曹司の元カレでした〜冷たいはずの彼が甘過ぎて困ってます〜

蓮恭

文字の大きさ
45 / 46

45. 最終話

しおりを挟む

 柔らかな陽光がカーテンを通して降り注ぎ、支度部屋を今日だけの色に染めていた。

 ドレッサーの前に腰かけた私は、鏡に映る自分の姿を、少し不思議な気持ちで見つめていた。袖を通したウェディングドレス。纏ったヴェール。
 子どもの頃夢に描いた『花嫁』という言葉よりもずっと静かで、深くて、温かい。

(……もう、ここまで来たんだ)

 この一年、何度も迷って、すれ違って、でもそれでも離れられなかった。ようやく、あの人と並んで歩く場所に辿り着けた。

「髪飾り、お付けしますね」

 美容師さんの声に頷くと、そっと留められたのは――白い蝶のモチーフ。

(……やっぱり、蝶)

 思えば、式の準備が始まった頃から、礼司さんはさりげなく蝶にこだわっていた。招待状の封緘シールも、会場装花の小物も、彼が選ぶものはどこかに蝶が潜んでいた。

「どうして蝶なんですか?」と尋ねても、礼司さんはいつも少しだけ笑って、「深い意味なんてない」と言うだけだった。

 本当はそこに深い意味があるのだと、私は知っている。でももう、それを言葉で聞かなくてもいい気がしていた。
 何も言わずに渡してくれた愛を、ようやく私はちゃんと受け取れるようになったから。

 支度が整い、控室の扉に手をかけようとしたときだった。

 ふと、すりガラス越しに人影が見えた。振り返るように、ゆっくりと立っていたのは――母だった。

 遠く、ほんの少しだけ距離を取るようにして、こちらを見ている。華やかな場に馴染むよう、上品な装いに身を包んで。
 でも、その目元にはどこか懐かしい光が宿っていた。

 言葉はなかった。ただ、ずっと見守っているという、確かな眼差しだけが、そこにあった。

(これまでも、ずっと静かに……遠くから見守っていてくれていた)

 私は一礼するように小さく会釈をして、扉に手を戻した。

(ありがとう。お母さん)

 深く息を吸い込んで、私はそっと結婚式へと続く廊下へ足を踏み出した。

 チャペルへの扉が開かれた瞬間、思わず小さく息を呑む。
 
 まばゆい光と花々の香り、そして静かな音楽。この空間のすべてが、今日という日のために用意されていた。

 私は一歩ずつ、ゆっくりとバージンロードを進む。エスコート役は誰もいない。礼司さんは私の隣に誰かが立つのを許さなかったから。
 裾を引くドレスの重みすら、今は心地よく感じられた。

 視界の端、椅子に並ぶゲストたちの姿が静かに揺れる。白いクロスと薄紫の花々に囲まれたその列の中で、いくつかの視線が私を迎えてくれる。

 和装の朱鷺子さんは、静かに目を細めて頷いた。まるで「よくここまで来たわね」と言葉を贈るように、ゆったりとした所作で手を重ねる。

 そして今日だけは派手なシャツを封印した如月さん。
 相変わらず軽く茶化すような笑みを浮かべながらも、その拍手の音だけはまっすぐに私たちへと向けられていて――私は思わず、胸の奥が少しだけあたたかくなるのを感じた。

 そして、最前列。芹沢典久さんと、麗子夫人。

 麗子さん――お母様は微笑んではいなかった。けれど口元は固くなく、どこか戸惑いと安堵が混じったような眼差しで、じっとこちらを見つめていた。
 その視線の隣で、典久さんはゆっくりと片眉を上げ、ほんの少し、頷いた。

(ちゃんと……祝福されてる)

 言葉にならない感情が、胸の奥にそっと灯る。過去も、すれ違いも、たくさんの傷も――全ては今、この場所に繋がっていた。

 視線をまっすぐ前に向けると、祭壇の前で静かに立つ礼司さんと目が合う。彼は何も言わず、ただ私が近付いてくるのを見守っている。

 その目元がほんの僅かに、やわらかくなる。

(……届いてる)

 そう思った瞬間、眦に涙が滲みそうになって……でも私は頑張って微笑んだ。

 真っ直ぐに、あなたのもとへ――今日、私の全てを捧げる為に。

 礼司さんのもとまで、あと数歩。そのまま視線を逸らすことなく、私は一歩ずつ彼の前に近付いていった。

 その時――ふわり、と。
 ガラス張りのチャペルの高窓から、春の風が流れ込んできた。

 その風に運ばれるようにして、ひとひらの影が光の中を舞う。それは、小さな、小さな白い蝶だった。

 静かに、まるで導かれるように。
 
 その蝶はくるくると輪を描きながら、私の肩のあたりまで降りてきた。そして、髪に飾られた白い花の上――そこに、そっと舞い降りる。

 まるで、最初からそこが自分の居場所だったかのように。

(……え?)

 思わず、動けなくなる。

 息を呑んだまま見上げると、礼司さんも一瞬だけ目を見開いて、そして――微かに笑った。

 声はない。言葉もない。けれどその微笑みの奥に、全てが詰まっていた。

(やっぱり……理由なんて、聞かなくて良かった)

 蝶のモチーフに、ずっとこだわっていたあの人。でも私は、もう何も聞かなくていい。このひとときが、全てを物語っていたから。

 たとえ偶然だとしても、私は――今日という日に、蝶に祝福されたことを一生忘れない。

 蝶は、髪飾りの花の上でしばらくじっとしていた。まるでこの場の全てを見届けるように。誰よりも先に、私の幸せを確かめに来てくれたように。

(……もしかして、お祖父様……?)

 ふと、そんな考えがよぎった。根拠なんて、どこにもない。けれど――今日この日に、蝶が私の髪に降り立つなんて、偶然だと思えなかった。

 あの人がいたから、私はここに立っている。愛されていたことを知ったから、もう一度、誰かを信じようと思えた。

(ありがとう、お祖父様)

 心の中でそっと呟いた瞬間、蝶はひと揺れだけ羽を震わせて、また風に乗って、高く高く、光のほうへと舞い上がっていった。
 その背を見送りながら、私は胸の奥でそっと囁く。

(もう、大丈夫だよ。ちゃんと、幸せになるから)

 静かに視線を戻すと、礼司さんが一歩、私に近付いてくる。そして私の手を、何よりも大切なものに触れるように、そっと取った。

 言葉はなかった。でも、目がすべてを語っていた。

 あなたがいてくれる。あなたと一緒に生きていく。この先も、どんな季節も、どんな嵐も――共に歩いていくと。

 静かに頷くと、礼司さんの指先が私の指に触れて、そっと指輪を差し出してくる。

 私はその指輪を受け取り、彼の左手薬指に、ゆっくりと通した。それは、ただの儀式じゃない。
 指輪は私達がこの一年身に付けていたもの。けれど今ここに誓うのは、『私はあなたの全てを愛します』という、新たな誓いの形だった。

 チャペルの中に、拍手の音が広がる。

 風がまた、ラベンダーの香りを運んできた。白い装花のあいだで、小さなガラスの蝶たちが、陽の光に震えるように煌めいている。

 まるでこの空間全部が、今日という日を――私達の未来を、祝福してくれているようだった。

 挙式を終え、スタッフの方に控室へ案内される。けれど廊下の途中、その方がふと立ち止まり、小さく微笑んで言った。

「お色直しまで、少しお時間ございます。どうぞごゆっくりなさってください」

 そう言って軽く会釈をして、何気なく視線を前に向ける。そして去って行った。
 彼女が向けた視線の先――談話スペースのような広間の奥に、三人の姿があった。

 母。そして、典久さんと、お母様。

 普段はそれぞれ別の場所に生きている人達が、今日という日を軸にして、同じ空間で言葉を交わしていた。

「……あの時のことは、申し訳ありませんでした」

 母の声は小さく、でもはっきりと私の耳まで届いた。細い身体を深く折り曲げ、頭を下げている。

 対する典久さんはその言葉に眉一つ動かさず、僅かに視線を伏せるだけ。

「……あれは、若さのせいだ。互いに、それぞれの覚悟で選んだ道だったのだろう」

 言葉は淡々としていた。けれどその声には、どこか懐かしさのような、優しさにも似た静かな色があった。
 お母様はそんな二人の様子を見て、ふいに視線を逸らす。

「なんだか、まるで『今さら戻ってくる初恋』みたいなお話ですこと」

 その言葉に、母は目を伏せて笑った。そして少し遅れて、典久さんも苦笑を一つだけ洩らす。

「俺は妻を変えるつもりはない。いま隣にいるのが君で、本当に良かったと思っているよ、麗子」

 一拍、静寂が降りた。

 お母様はひどく驚いたように瞬きをして。それから、まるで聞き取れなかったふりをするように、つんと顔を逸らした。

「……そんな風に言われたら、拗ねる暇もないじゃないですか」

 言葉の調子はいつもの皮肉交じりなのに、どこか頬が緩んでいるようにも見えた。

 そのやりとりを、母は黙って見つめていた。そして静かに一歩だけ下がる。
 まるで、もう自分の役目は終えたとでも言うように。

 私はその場に近付くことなく、ただ遠くから静かに会釈をした。母も私に気付いていたはずなのに、ただ目だけを細めて、何も言わずに微笑んでいた。



 控室の扉がノックされたのは、スタッフが仕上がりを確認していたちょうどその時だった。

「失礼します。新郎様が、お迎えにいらしています」

 そう告げられた瞬間、胸の奥がきゅっとなる。結婚式は終わったはずなのに、まるで初めて会う日のような緊張が走った。

 扉が開き、現れたのは礼司さんだった。フォーマルなタキシードに身を包んだその姿は、さっきの式のときよりもなぜか洗練されて見えて……一瞬、息を呑むのを忘れた。

 彼の視線が、私をゆっくりとなぞる。ドレスの色も、髪飾りも、メイクも――さっきとは全て違う私を、まるで心に焼きつけるように見つめている。

「……さっきの姿が綺麗過ぎて、迎えに来るのを一瞬躊躇った。だが、来て良かったな」

 ぽつりとこぼされたその言葉に、頬が熱くなる。

「会場を置いて、迎えに来てくれたんですか?」

 そう問いかけると、彼は微笑んで、手を差し出してきた。

「当然だろう。俺の妻を、また俺の隣へ連れて帰るために来たんだ」

 その言葉に、胸がふわりと満ちていく。

 手を取ると、礼司さんの手は少しだけ熱を持っていた。そのぬくもりが、緊張も不安もすべて溶かしてくれるようだった。

「じゃあご一緒に、お願いします」
「ああ、こんなに美しい妻を迎えられて幸せだ」

 そっと重ねた手のまま、二人で扉をくぐる。扉の外には祝福の光と、拍手の音と、これから始まる新しい未来が、ゆっくりと待っている。

 披露宴会場は、湖を臨むガーデンの一角に設えられた特別空間。
 白とラベンダーを基調にしたテントと装花が、自然の光と調和して、洗練された空気を纏っていた。

 式とは違い、会場には多くの人の姿がある。礼司さんの会社関係――重役たちや重要な取引先の面々。
 朱鷺子さんのご縁で集まった、品のある装いの奥様方。そして親族の方々。

 彼らの視線が一斉に向けられた先――お色直しを終えた私と礼司さんが、並んで歩いてガーデンに現れると、会場は一瞬、静まり返った。

 それは決して気まずい沈黙ではなかった。ただ視線の全てが、私達に向けられている。

 ゆっくりと歩く私の手を、礼司さんがそっと包む。緊張していた心が、その瞬間、静かに解けていくのを感じた。

 そして次の瞬間、拍手が湧き起こった。
 
 誰かがシャンパングラスを鳴らし、音楽が再び優しく流れ出す。拍手に包まれながら、私達はゆっくりとガーデンを歩いた。
 ラベンダーの香りが風に揺れ、陽射しは柔らかく、祝福のざわめきが穏やかに重なっていく。

 パラソルの下、和装から着替え、シャンパンを手にした朱鷺子さんが目を細めていた。艶やかなグレイのショールに、きらりと光るブローチ。どこか遠巻きに見ていたような彼女が、静かに歩み寄る。

「礼司さんに初めて会った時には『怖い顔』と思ったけれど、こんな顔をするなんて、ね。少し、信じられないくらい」

 それは静かな揶揄いのようでいて、優しさの滲んだ声音だった。

「あなた、本当にいい顔をしている。私も一つの役目を終えて安心したわ」
「……ありがとうございます。これまでの朱鷺子さんの言葉、ずっと俺の心に残っていました」
「そう? それなら、私も今日来た甲斐があったというものね」

 そう言って朱鷺子さんは礼司さんの肩を軽く叩き、「大事にするのよ。静香さんを泣かせたら承知しないから」と冗談めかして微笑んだ。

 白いパラソルの下、グラスを片手に談笑していた如月さんが、こちらに気づいてひょいと手を挙げた。相変わらずの茶目っ気と華やかさ。けれどその目元は、穏やかで落ち着いていた。

「やっと来たな。主役の登場で、空気が一気に締まったよ」

 そう言って軽くグラスを掲げたあと、如月さんは静香に向き直り、わずかに頭を下げた。

「改めまして、静香さん。悪友としてご挨拶を。うちの礼司が、たいそうお世話になってます」

 冗談めかした言い方だったけれど、そこには確かな敬意があった。私は笑顔で会釈し、「こちらこそ、いつも礼司さんを支えていただいてありがとうございます」と返す。

「いやいや。あいつが他人に支えられるなんてキャラだったの、初耳だけどな?」

 如月さんはそう茶化しながらも、礼司さんの方へと視線を移した。

「でも、いい顔してるよ。お前。昔、無理して強がってた頃とは、まるで別人みたいだ」
「……お前にだけは言われたくないな」
「そりゃあね。でもさ、俺はずっと見てたから。あの頃のお前を。だから、今こうして隣に『全部を預けられる相手』がいるってのは、正直羨ましいし、ホッとしてる」

 笑いながらも、どこか本気の声だった。礼司さんはふっと息をつき、渡されたグラスを手にしたまま一言だけ返す。

「ああ……静香だけは、何があっても絶対に手放さない」
「いやいや、わざわざ言わなくてももう嫌というほど知ってるよ。まあ俺にできるのは、せいぜい見守ることくらいだ」

 そう言って、如月さんは静かに微笑んだ。その横顔には旧友としての誇りと、ささやかな安堵がにじんでいた。

 そして中央の丸テーブル。そこには、私の母と礼司さんの両親の姿があった。

 お母様は以前よりずっと柔らかい表情で、「静香さん、あのドレス、似合ってたわ」と、静かに言ってくれた。

 典久さんは言葉少なに「……これからの礼司を、頼む」とだけ。その一言に込められた想いを、私はきちんと胸に刻んだ。

 そして母は、何も言葉にしなかった。ただ、遠くから見守るようなまなざしで、私に頷いてくれただけ。

 

 日が少し傾き、ガーデンの光が柔らかくなる頃――ふと人の波が落ち着いた一瞬を見計らったように、朱鷺子さんが私の元へ近付いてきた。

「静香さん、少しだけ、お時間いいかしら」

 彼女の声はいつも通り穏やかで、それでもどこか決意を帯びていた。促されて、私たちは庭の片隅へと移動する。風が静かに、白い布を揺らしていた。

「……あなたに、今伝えなくてはいけないことあるの」

 私は思わず身を正す。その空気が、ただの祝福の延長ではないと、すぐに察したからだ。

「宗ちゃんは……野々宮宗儀は、最期まであなたを守ることを考えていたわ。いえ、『守る』というより、『どんな時代の中でも立てるようにする』という言葉が正しいかもしれない」

 朱鷺子さんは、ふと視線を遠くへやる。

「今や芹沢という名は確かに大きい。でも、世の中はいつも善意でできているわけじゃない。だから宗ちゃんは、礼司さんが今後さらに社会の中心に立っていく中で、あなたが他者から傷付けられるを心から恐れていたのよ」
「……っ」
「だから宗ちゃんは決めたの。もし一年の契約結婚の後、あなたと礼司さんが本当に結ばれたなら、『芹沢礼司に野々宮の名を与える』という選択肢を、見守り役である私に託す、と」

 私は目を見開いた。それは想像もしていなかった形の、お祖父様の遺志。

「佳子さんは、いま『仮の当主』という位置づけよ。静香さん、本当に野々宮の名を継ぐのは……今日ここであなたと結ばれた礼司さん」
「そ、んな……」

(礼司さんが私の為に……芹沢の名を捨てようとしている……)
 
「礼司さんは、その話をすでに受け入れている。彼は言ったわ。『静香を守る為に名が必要なら、俺がその名を継ぐ』って」

 私の喉が、ひりつくように詰まる。

「典久氏も麗子さんも、野々宮を継ぐ礼司さんの意思を受け入れてくれた。そのうえで、二人が築く新しい芹沢と野々宮の『かたち』を……今日、この披露宴の最後に発表する予定よ」
「そんな……」

 涙が、視界を曇らせた。

 知らなかった。こんなにも、私は――たくさんの想いに、守られていた。

「静香さん、宗ちゃんは……『血筋』よりも『心』を信じたの。あなたが礼司さんに選ばれたのは、『野々宮の娘』だからじゃない。あなた自身が、誰よりも誠実に彼を愛したから」
「……朱鷺子さん……」
「さあ。涙を拭いて。この後、礼司さんがあなたを迎えに来る。あなたはもう、ただ『守られる花嫁』じゃないわ。もう、分かっているでしょう?」

 私はそっと目元を拭う。風が頬を撫でるように吹き、木々がざわめいた。

 ――「静香、お前の幸せを祈る」

 まるで――遠くからお祖父様が囁きかけているかのように感じられた。

 ――これまで、たくさんのものを諦めてきた。
 
 静かに生きることが、誰かを守る手段だと思っていた。けれど、そんな私の全てを引き受けて、未来に連れて行ってくれる――礼司さん。

「どれだけ……あなたのことを、好きになれば気が済むの……」

 眦が熱い。胸の奥にある大きな愛が、更に熱量を持って存在するのを自覚した。
 


 夕暮れが湖面を鮮やかに染めていた。披露宴も終盤。祝福に満ちた時間の余韻が、会場全体を穏やかに包んでいる。

 静かにBGMが切り替わり、司会者が声を上げた。

「それではここで、新郎である芹沢礼司様より、皆様へご挨拶をいただきます」

 その呼びかけに、ゲストたちが自然と視線を前に向ける。
 礼司さんが、私の手をそっと離し、中央へと歩み出た。

 淡い陽射しにタキシードの黒が引き締まり、彼の存在感を際立たせている。

 マイクの前に立ち、礼司さんは一礼した。

「本日はご多忙の中、私たちの門出にお越しいただき、心より御礼申し上げます」

 穏やかな、けれど芯のある声。その第一声に空気が引き締まる。

「私はこれまで、『芹沢礼司』として生きてきました。重責のある家に生まれ、数多くのものを背負い、守ってきました。けれど……静香と出会い、共に過ごす中で、『守る』ということの意味が変わっていったのです」

 礼司さんの目が、私を探すように動き、やがてまっすぐに見つめてくる。

「彼女は、私にとってただの妻ではありません。唯一無二の伴侶であり、人生そのものです」

 ざわめきのような感情が、ゲストの間を通り抜けた。その余韻を置いてから、礼司さんは静かに言葉を重ねる。

「私は本日をもって、『野々宮礼司』という名を受け継ぎます」

 一瞬、会場が息を呑んだように静まり返る。

 そして――拍手。最初の音は、朱鷺子さんの手から。その後、静かに、力強く、波紋のように広がっていった。

 典久さんは一つ大きく頷いた。お母様は静かに目を伏せ、そしてすぐにまた上げる。
 母も、何も言わずにただ手を重ね、その目に涙を光らせていた。

 私は胸の奥が熱くて、視界が霞むのをどうしても止められなかった。
 やがて礼司さんが私の隣に戻ってくる。そしてマイクを通さず、そっと耳元に囁いた。

「俺の名が何に変わっても――静香の隣にいたいという気持ちは、変わらない」

 その言葉が、全てだった。私は礼司さんの手を取り、深く、強く、頷く。

「ありがとう……礼司さん」

 その瞬間、風がふわりと吹き抜ける。花の香りとともに、ひらりと白い蝶が空を舞った。
 夕暮れの空へと舞い上がるその蝶を、私は見上げながら、胸の奥でそっと囁いた。

(ありがとう、お祖父様。ありがとう、みんな――)

 私、ちゃんと幸せになります。この人と共に、何があっても。

 光の中、礼司さんと私が再び並び立つ。

「これからも、二人で歩いていきます」

 ――これが、私達夫婦の『本当の始まり』。

 二人で歩く道の、その第一歩を、静かに、確かに踏み出した。
 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

行き遅れのお節介令嬢、氷の公爵様と結婚したら三人娘の母になりました

鳥柄ささみ
恋愛
お節介焼きで困っている人を放っておけないシアは、数多のご令嬢達から人気の令嬢だ。毎日ファンレターが届き、社交界に出れば令嬢に取り囲まれるほどである。 けれど、それに反比例するように男性からの人気はなく、二十七だというのに嫁の貰い手もないため、毎日母から小言をもらっていた。 そんなある日のこと、突然公爵家から縁談の話が。 シアは公爵家がなぜ自分に縁談など持ち掛けるのかと訝しく思いつつ話を受けると、なんと公爵の後妻として三人の娘の母代わりになれと言われる。 困惑するも、自分へ縁談を持ちかけた理由を聞いて、お節介なシアは嫁ぐこと決めたのだった。 夫になるレオナルドはイケメンなのに無表情で高圧的。三人の娘も二女のアンナを除いて長女のセレナも三女のフィオナもとても反抗的。 そんな中でもお節介パワーを発揮して、前向きに奮闘するシアの物語。 ※他投稿サイトにも掲載中

【本編完結】付き合ってもいないのに、幼なじみの佐藤がプロポーズしてきた

ぽぽよ
恋愛
「俺らさ、結婚しない?」 三十二歳、独身同士。 幼なじみの佐藤が、たこ焼きパーティの最中に突然言い出した。 付き合ってもないのに。 夢見てた甘いプロポーズじゃないけれど、佐藤となら居心地いいし、給料もあるし、嫁姑問題もないし、性格も知ってる。 断る理由が、ない。 こうして、交際0日で結婚することが決まった。 「とりあえず同棲すっか」 軽いノリで決まってゆく未来。 ゆるっとだらっと流れていく物語。 ※本編は全7話。 ※本編完結後、ゆるいSS投稿予定。 ※サイドストーリー(切なめ)投稿予定。

腹黒外科医に唆された件~恋人(仮)のはずが迫られています~

有木珠乃
恋愛
両親を亡くし、二人だけの姉妹になった一ノ瀬栞と琴美。 ある日、栞は轢き逃げ事故に遭い、姉の琴美が務める病院に入院することになる。 そこで初めて知る、琴美の婚約者の存在。 彼らの逢引きを確保するために利用される栞と外科医の岡。 「二人で自由にならないか?」を囁かれて……。

【完結】俺様御曹司の隠された溺愛野望 〜花嫁は蜜愛から逃れられない〜

椿かもめ
恋愛
「こはる、俺の妻になれ」その日、大女優を母に持つ2世女優の花宮こはるは自分の所属していた劇団の解散に絶望していた。そんなこはるに救いの手を差し伸べたのは年上の幼馴染で大企業の御曹司、月ノ島玲二だった。けれど代わりに妻になることを強要してきて──。花嫁となったこはるに対し、俺様な玲二は独占欲を露わにし始める。 【幼馴染の俺様御曹司×大物女優を母に持つ2世女優】 ☆☆☆ベリーズカフェで日間4位いただきました☆☆☆ ※ベリーズカフェでも掲載中 ※推敲、校正前のものです。ご注意下さい

愛情に気づかない鈍感な私

はなおくら
恋愛
幼少の頃、まだ5歳にも満たない私たちは政略結婚という形で夫婦になった。初めて顔を合わせた時、嬉し恥ずかしながら笑い合い、私たちは友達になった。大きくなるにつれて、夫婦が友人同士というのにも違和感を覚えた私は、成人を迎えるその日離婚をするつもりでいた。だけど、彼は私の考えを聞いた瞬間豹変した。

【完結】私にだけ当たりの強い騎士様と1メートル以上離れられなくなって絶望中

椿かもめ
恋愛
冒険者ギルドの受付嬢であるステレは幼い頃から妖精の姿を見ることができた。ある日、その妖精たちのイタズラにより、自分にだけ当たりの強い騎士コルネリウスと1メートル以上離れれば発情する呪いをかけられてしまう。明らかに嫌われてると分かっていても、日常生活を送るには互いの協力が必要不可欠。ステレの心労も祟る中、調べ上げた唯一の解呪方法は性的な接触で──。【ステレにだけ異様に冷たい(※事情あり)エリート騎士×社交的で夢見がちなギルドの受付嬢】 ※ムーンライトノベルスでも公開中です

【完結】あなた専属になります―借金OLは副社長の「専属」にされた―

七転び八起き
恋愛
『借金を返済する為に働いていたラウンジに現れたのは、勤務先の副社長だった。 彼から出された取引、それは『専属』になる事だった。』 実家の借金返済のため、昼は会社員、夜はラウンジ嬢として働く優美。 ある夜、一人でグラスを傾ける謎めいた男性客に指名される。 口数は少ないけれど、なぜか心に残る人だった。 「また来る」 そう言い残して去った彼。 しかし翌日、会社に現れたのは、なんと店に来た彼で、勤務先の副社長の河内だった。 「俺専属の嬢になって欲しい」 ラウンジで働いている事を秘密にする代わりに出された取引。 突然の取引提案に戸惑う優美。 しかし借金に追われる現状では、断る選択肢はなかった。 恋愛経験ゼロの優美と、完璧に見えて不器用な副社長。 立場も境遇も違う二人が紡ぐラブストーリー。

一夜限りのお相手は

栗原さとみ
恋愛
私は大学3年の倉持ひより。サークルにも属さず、いたって地味にキャンパスライフを送っている。大学の図書館で一人読書をしたり、好きな写真のスタジオでバイトをして過ごす毎日だ。ある日、アニメサークルに入っている友達の亜美に頼みごとを懇願されて、私はそれを引き受けてしまう。その事がきっかけで思いがけない人と思わぬ展開に……。『その人』は、私が尊敬する写真家で憧れの人だった。

処理中です...