傲慢な伯爵は追い出した妻に愛を乞う

ノルジャン

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 ◇

「トンプソン教授の授業ってわかりやすいよな」

「あーわかる。他の講義は眠くなるんだけど、教授の授業はなんか聞き入っちゃうんだよな」

「そうそう」

 大学校内の廊下を歩いていると、学生同士の会話が聞こえてきた。

 私は自分が褒められたみたいにニマニマと口角が上がりきってしまった。
 他の生徒には見られたら気味悪がられるかもしれない。パチン、と両頬を手のひらで叩いて力を入れたが、いつのまにかまた緩んでしまって仕方なかった。

「ジュリアさん、聞きましたか?」

「何をですか?」

 学務室に書類を提出にやってきた時、窓口でよく喋る学務課のフランクさんが話しかけてきた。

「トンプソン教授の論文ですよ! 知らないんですか?」

「ごめんなさい。私は彼の研究内容についてはさっぱりで……」

 大学の物理学というと私にはもうついていけない領域だった。

 今回学会で発表した論文だって、私は校正作業をしたが、文章的な誤りがないかを確認しただけだ。

 フランクさんは周りに人がいないかをちらちらと確認して、口元を隠しながら私に話しかけた。

「トンプソン教授の論文が学会で賞を取るそうですよ!」

「えっ!」

「しーっ!」

 私が急に声を上げたので、フランクさんは人差し指を口にあてて注意してきた。

 私は慌てて口を両手で隠した。
 フランクさんは「ここだけの話ですよ」と私に言った。

「物理学者の間で先生の論文についてもちきりだそうです」

「本当に?」

 私の疑いの声に、「ほんとですよー!」とフランクさんはちょっと怒ったような表情をした。

「私も他の教授が話してるのを聞いただけなんですが、その中に学部長もいらっしゃったので間違い無いかと」

 ただの噂なら、あまり騒ぎ立てるのは良くないし、ぬか喜びになってしまうかもと思ったが、その場に学部長もいたのなら話は変わってくる。

「しかも! ここの准教授への昇格の話もあるみたいで!」

「ケビンが准教授にですか?」

「ええ。今の専任講師から准教授に上がれば任期も給与も増えますし、なにより研究費も今よりもっと使えるようになりますよ」

「それが本当だったら助かるわ」

 研究費が増えるのはかなり助かる。少ない研究費の中でやりくりしていくは結構大変だったのだ。
 彼のポケットマネーから研究費に回したことも何度もある。
 学務室経由で何度も研究費の追加配分を申請したが、通ったためしはなかった。諦めずに研究費の申請書を提出したため、よく学務室に顔を出すようになってフランクさんと知り合いになった。

「特定の研究室に肩入れするのは本当はよくないんですけどね。ジュリアさんすごく頑張ってましたから、私も嬉しくなっちゃって」
 
 これも内緒ですからね、とフランクさんに言われて私は笑った。
 
 

 

 

 お祝いをしようと先生と一緒に住む小さな部屋のキッチンで精一杯の手料理を作った。
 だんだんと大きくなるお腹。キッチンテーブルにあたり、料理が作りづらいのも気にならなかった。

「さあ、食べましょう!」

「そうだね。いただくよ」

 こじんまりとしたテーブルにお皿をこれでもかと並べた。それぞれのお皿には山盛りの料理の数々。
 私の特盛ディナーを前に、先生の顔はとても緊張していて、祝いの席とは思えないくらいだった。ぎゅっと拳がかたく握られて、指の色が変わっていた。

 ――何か先生の嫌いなものでも出してしまったかしら……?

 だけど今日作ったものは先生の好物ばかりだ。ミートボールに、煮込みハンバーグ、ステーキに、豆サラダ、そしてカボチャのスープ。仕上げに私の最近のお気に入りのフライドポテト。大量に作って崩れ落ちそうなくらいだった。その量におののいているのかも。

 私は自分用によそおうとしていたフライドポテトの山を少しばかり崩して大皿に戻し、小山にしてみた。

 はぁ、と先生がため息をつく。

(やっぱり私の食べ過ぎが原因?!)

 妊婦中はお腹の子の分も食べないと、と私は自分自身に言い訳して食べたい物を大量消費している。
 先生の胃袋は大きいとは言えない。少食な先生とその隣で馬鹿みたいに食べまくる私。フードファイターのように食べている姿を見て気分が悪かったのを言えなかったのかもしれない。

「いつも美味しい料理をありがとう」

「こ、このくらいなんでもないわ」

 力のない笑顔に、私も弱々しく答えた。
 
 食べ始めようとしない先生は、そわそわと指を動かしたかと思うと、動きが止まってふぅ、と青い顔をしてため息を吐く。

「冷めないうちに食べてね!」

「うんそうだね。食べよう」

 私は先生に料理を勧めて、自分も食べ始めた。思い切り口の中にハンバーグを入れたい気持ちを抑えながら、とても小さく小さく切ってちょびっとした肉の塊をフォークで口にいれた。
 自分で言うのもなんだが、味は美味しい。だが小さすぎて食べた気がしない。

 先生はフォークとナイフを持つ手が反対でフォークでステーキを切ろうとしていた。
 肩に力が入っており、ぎこちない動きだった。

 狭いリビングで、カチャカチャと食器とお皿が当たる音だけが聞こえる。

 デザートはチェリーパイだ。母が大好きでよく作ってくれていた。焼き上がりも完璧で、喜んでもらえるかと思ったが、ケビンの今の様子では味わうどころではないだろう。

 バニラビーンズのたくさん入ったアイスを添えてケビンの前にお皿を置いた。

「ジュリア」
 
 お皿から手を離す時にぐいっと掴まれた。
 
「結婚してくれないか」

 私は息を呑んだ。真剣な目を見てしまったから。
 ぐっと掴まれた手に力が入って腕を引き寄せられた。

「僕と家族になろう」

「そんなこと……いきなり言われても」

 想像してしまった。ケビン先生と結婚。ランドルフ以外の人と。
 
 私の妄想は止まらなかった。私と私の子どもと先生が3人揃って手を繋いで、小さな牧場を歩く姿を想像しはじめた。
 そしてその先には年老いてきた麦わら帽子の男性が牛の世話をしているのだ。子どもが「おじいちゃん!」なんて言ってその年老いた男性に抱きつくシーンまで思い浮かんできた。

「子どもは僕の、僕たちの子どもとして育てていこう」

 ランドルフに言って欲しかった言葉を、先生が私に言ってくれた。私は泣き出してしまった。妊娠してからというもの、どうしても感情がうまくコントロールできない。
 料理中に突然泣き出したくなったり、読書中に大して重要なシーンでもないのにひどく感動してしまう。
 
 自分の心が揺らぐのがわかる。
 1人で子どもを育てていくのは大変だ。お金も時間もかかる。先生に頼ってしまっていいのか。でも先生だったら、この子を大切にしてくれることはわかっている。
 
「返事は生まれた後でもいい。君のことをいつまでも待つから」

 

 

 
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