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17-1 別れと帰還
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夏が始まる前に始まった戦争は半年ほどで終わりを告げた。
私たちの国は勝利をおさめたが、味方の多くの命が戦争によって奪われたと知った。
私はランドルフと離縁はまだできていない。訃報の知らせが来るのは家族だけ。私は戦場に行ってしまったランドルフと離縁することはどうしてもできなかった。
兵士たちはぞくぞくと帰還し始めていたが、ランドルフが戻ったという連絡はまだなかった。
私は、狭い部屋でケビンの帰りを待ちながらキッチンにいた。
「ジュリア、話があるんだけど」
大学から帰宅したケビンがマフラーを首から外してダイニングテーブルに置きながらキッチンの方へ話しかけてくる。
「ごめんなさい。シチューの火を見ていないと。後でもいいかしら?」
鍋底が焦げないようにずっとシチューを混ぜていた。この前うっかり焦がしてしまって、香ばしすぎるシチューが出来上がってしまったばかり。今回は失敗したくない。
「今、聞いて欲しいんだ」
少し上擦った声。真横に近づいてきたケビンに、私はやっと気がついて顔を上げた。
本当は背がうんと高いのに、猫背のせいで少し縮んで見える。それでも私よりも高いところにある顔。
真剣な眼差しが長い前髪からこちらを伺うように見つめてくる。
優しくて、そしてどこか遠慮がちに揺れている。
私はこの瞳を見ると、この人を抱きしめたくなる衝動にかられる。
私は木べらをキッチン台に置いて鍋の火を止めた。隣の彼にさらに一歩近づいた。
「なぁに?」
覗き込むように彼の顔を下から見上げる。彼の頬が少し赤くなっておどおどと視線が泳ぐのを見るのも好きだ。
「じ、実は、別の大学に教授として呼ばれているんだ。研究論文がとても高い評価を得てね」
「まぁすごい! おめでとうケビン」
「ただ、ここからはものすごく遠いんだ。海を越えた海外だ」
ケビンから国名を聞いたら、ここからはかなり遠い。馬車と船で何日も、下手したら何週間もかかってしまう。簡単には飛んでいけない距離だった。けれど私でも知っている有名な大学だ。
「でもすごいことじゃない。こんな有名な大学の教授になれるなんて、滅多なことではないわ。絶対に行くべきよ」
ケビンの研究に対する情熱は相当なものだ。間近でずっと見ていたから、彼の努力が報われて自分のことのように嬉しくなって声にも力が入る。
「うん。僕もそう思ってる。だからジュリア、僕と一緒に行ってくれないか。セーラも一緒に」
手を取られ、彼の大きな手の中に仕舞い込まれた。
一瞬、時が止まったような気がした。
「えと、それは……」
セーラが生まれる前からずっと一緒に過ごしてきた彼は、もはやただの同居人なんかではない。友達以上で、恋人というそんなうわついた関係以上のものだった。だけど……。
今すぐ返事ができるほどの簡単なことではない。
「あちらの大学でも僕の補佐をして欲しい。大学内では保育施設が併設されているんだ。だから、今よりももっと仕事がやりやすくなると思う。大学では教員資格もとれるし、生活が落ち着いてセーラがある程度大きく慣れば教員として働くことも夢じゃない」
「教員になれるの?でも私学生じゃないわ」
「大学職員なら教員資格のための科目の受講もできるんだ。教授の補佐も立派な職員だよ」
「私が、教員に……」
なれるかもしれない。
ランドルフとの生活を捨ててセーラを産んだ。もう先生になることなんてあきらめかけていた。
「なるべく早くきてくれと言われているんだけれど、君の返事はいつでもいいよ。僕はいつまでも待てるから」
優しい眼差しは変わらないのに、奥の瞳が泣きそうなほど歪んでいるのにきづいてしまった。
「いつまでもだなんて」
そんなこと言わないで。
無理やりにでも連れていってくれればいいのに。
ついてこい、そう一言言ってくれればいい。
そしたら、私、あなたと一緒にいく。
けど優しいあなたはそんなことは言わない。わかりきったことだ。
この人とあの人は違う。
何も言えなくてじっとケビンを見つめていると、彼はくすりと笑いかけた。
「僕は先に向こうに行かなければならないけれど、ジュリアはじっくり考えてくれて良い。まぁ、いい返事は早い方が嬉しいけどね」
私にウィンクしながら話すおちゃめな彼。それまではここを使ってくれてかまわない、なんて言いながら。
私もつられて笑ってしまった。でもそれ以上笑えなくて彼の胸に顔を押し付けた。
この人と、ずっと一緒にいられれば、幸せになれる。そう確信があった。私だけじゃない。娘のセーラのことだって、自分の子どものように愛してくれている。私の夢のことだって考えて、応援してくれる。自分だけのことじゃなくて、愛する人全てを包み込むような優しさを彼は持っている。
掴まれた手を握り返すこともできず、中途半端なまま私と彼の体の間に放置されていた。
何を迷うことがあるのよ、ジュリア。
この手を握り返して。握り返すべきなのに。剣なんて握ったこともない、ペンだこのある手を。
怒りに身を任せてふるったこともないきれいな拳。
今、彼を安心させてやれる言葉をかければいい。
そうしたら、この幸せはずっと続く。
今よりももっと温かい家庭を築ける。
あの逞しくも屈強な腕なんて忘れる方がいい。
煌びやかで重苦しい屋敷に冷たくたたずむ男の姿など、思い出さないで。
ひとりぼっちで寂しい男。
傲慢な酷い男。
愚かな男。
忘れるのよ。
私の中から出ていって。
私にはもう守るべき人が他にいる。
「ケビン」
「うん?」
「私……あなたと」
口を開いたその時、ドンドンと外からドアを叩く音がキッチンまで響いてきた。
じっと2人でキッチンに立っていると、またさらに大きくドンドンととを叩く音がした。
「なんだろう。僕が見てくる」
「いえ、私がいくわ」
「僕がいく。君は僕の後ろにいて、セーラを見ているんだ。いいね?」
「わかったわ」
セーラを抱えながら、硬い表情で家のドアの前に向かうケビンの後ろ姿を見守った。
「どなたですか」
ドアを閉めたまま、ケビンはドアの向こう側に立つ人物へと語りかけた。
「……」
ドア一枚隔てていることもあってか、声がこちらまで届いてこなかった。
「聞こえないな。もう一度お名前を」
「どうか、……です」
か細くて消え入りそうな声で訪問者は答えたがそれでも聞こえない。だが声は女性の声だった。
「開けてあげましょうよ。こんな夜に来るなんてよっぽどの用事があるのだわ」
今日はいつにも増して冷え込んでおり、窓の外の景色は全てを覆い隠すほど真っ白になっていた。
パチパチと暖炉の火が温かく燃えるこの部屋に、震える女性を招いてあげるのは当然のことだと思った。
「待ってくれ」
そのままドアを開けようとする私の手を、まだ警戒を解いていないケビンは阻んだ。
「僕がドアを開けるから、下がっていて。しっかりとセーラを抱えいるんだよ」
「でも……」
「ジュリアお願いだ」
「ええ、わかったわ」
私は彼の言うことにしたがってセーラを抱え上げて後ろに下がった。
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