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第4章魔王様、ご飯で和解しませんか?
第5話 台所は検証室、匂いは証言する
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夜が明ける前、私は台所の火を小さく点けた。鍋の底が温まると、頭の中の段取りもすっと並ぶ。今日の台所は、料理場であり、研究室であり、証言台だ。
「起きてるかい」
セイル王子が静かに入ってくる。
「はい。湯気、準備万端です」
「立会いは午前。東境の管理官と、向こうの薬師も来る」
「了解。匂いの通訳、やります」
副長グラドが扉を押し開けた。
「護衛は最小限。刃は抜かない。舌も、な」
「緊張すると噛むのが早くなるから、ゆっくりです」
「おう」
ルークが旗袋を抱えて駆けてくる。
「きょうは“低い旗”?」
「うん。湯気の高さに合わせてね」
「まかせて!」
マリナはエプロンの紐をぎゅっと結ぶ。
「わたし、記録係する。“おいしい”何回言ったか数える」
「頼もしい」
保温箱の石温を三段で整え、香袋は鎮静・安心・合図の三種を新しい札で結び直す。私は《鑑定眼》を開き、体調と集中度を確認した。――体力66、精神81。調理集中:高。嗅覚強化:上昇。
「王子、試験皿いきます」
「何の?」
「“真偽を分ける一匙”です」
私は二つの小皿に、同じ出汁を注いだ。一方には微量の柑根粉、もう一方には刻印油を拡散させた水滴を落とす。香りは限りなく薄い。けれど舌の奥、鼻腔の天井で違いが出る。
「……ふむ。わずかに金気が残る方が“刻印油”だな」
「正解。会議でも、この差を目印にします」
鐘が一つ鳴り、立会いの刻が来た。
***
調香庫は石壁の奥にあり、温度石で一定の冷気が保たれている。棚には粉袋と油瓶がびっしり。記録官カーディンが慌ただしく机を片づけ、管理官と薬師が入室した。
「立会い、感謝する」
管理官が短く礼をする。
「こちらこそ。匂いの線で、話を揃えましょう」
私は深く頭を下げた。
王子が封印した木箱を卓に置く。封蝋は新規格だが、角の旧印が隠れている。副長グラドが封を解き、私は《香路図》を展開した。
「右から三列目、下段の隙間の粉袋。旧印。……加えて、刻印油の層が二重です」
「二重?」
薬師が身を乗り出す。
「古い油に新しい油を重ねて、見た目を綺麗にしている。鼻は誤魔化せません」
私は粉袋の角を、紙の上でそっと撫でた。ごく薄い灰が落ちる。灰を湯に溶き、香りを立たせる。
「この灰、軍需局旧規格の乾燥棚の匂いです。木の代わりに鉄の格子を使うので、最後に鉄の息が残る」
「なるほど……」
管理官が腕を組む。
記録官カーディンが小さく咳払いした。
「記録と在庫は、規程どおりです」
「数字は綺麗です。だから、匂いで聴きます」
私は帳簿の札を鼻先でなぞった。筆圧、墨の乾き方、紙の匂い。十か月前から、札の綴じ糸の膠が変わっている。
「この糸、最近は安価な魚膠に変えましたね」
「予算の都合で……」
カーディンが目を伏せる。
「変えたのは悪くない。ただ、同じ頃から番号の書体が二種類混じっている。――“二つの手”です。ひとつはあなた。もうひとつは?」
カーディンは肩を震わせた。
「外注の補助を……一時的に」
「名前は」
グラドの声が落ちる。
「ラウモンド、……元調香長です」
空気が固くなる。王子が短く息を吸い、私は合図の香をひと呼吸だけ焚いた。
「焦らないで、順にいきましょう」
私は二つの粉袋を開き、小匙で“味見できない味見”をする。舌に乗せず、湯気だけを吸う。鼻腔の天井で、灰の奥に柑根、そのさらに奥に鉄。順番が時間を語る。
「旧棚→柑根→新油。つまり、旧規格で乾かしてから、新しい油で覆った」
「古い在庫を“新しい顔”にしたのか」
王子が呟く。
「危険は?」
管理官が問う。
「直ちに毒ではありません。ただ、香りが死ぬ。消香玉に混じれば、湯気が途切れる」
薬師が苦い顔をした。
「議場で“言葉が止まる”……最悪だ」
「やったのは、匂いの規格を知らない者ではない」
グラドが棚を睨む。
「ラウモンドは旧規格の親だ。数字を綺麗にする術も知っている」
管理官の声に、悔しさが混じる。
「動機は、名誉か、金か、過去への執着か」
王子の視線が私に向く。
「どれでも、胃袋は空きます」
私は肩をすくめた。
「だから、呼びましょう。――台所へ」
***
小さな台所に、古い男が入ってきた。白い髭。手は震えていない。匂いの歩き方を、まだ覚えている足だ。
「ラウモンド殿。立会いに感謝します」
王子が先に頭を下げる。
「話す必要はない。私は退いた身だ」
「話すのではなく、嗅ぎます」
私は微笑んだ。
「これは“香葉の蒸し団子”。外交仕様です。ひと口だけ、湯気をどうぞ」
「……子供だましを」
男は眉をひそめたが、湯気を一息吸った。睫毛が少しだけ緩む。
「うむ。香葉は軽く擦ってある。塩は……不足気味だが、会議向けだ」
「ありがとうございます。では、これは?」
私は“二層煮”を小椀で差し出す。
「上はやわらかく、下が支える。――昔の会食の作法だ」
「覚えているのですね」
私は静かに、封の切れた粉袋を卓上に置いた。
「旧規格の粉。新しい油で覆ってあります」
ラウモンドの指が、ほんの僅か、止まった。匂いが揺れる。
「退いた身だ。倉の数字は知らん」
「数字は綺麗でした。だから、匂いに話してもらいます」
私は湯気の試験を並べた。旧棚の灰、柑根、新油。順に吸えば、順に足跡が出る。
「あなたの“手”は、まだ綺麗です。配合の角が丸い。今の倉では見ない筆致です」
男は目を閉じた。長い息が、古い火の匂いを連れて出てくる。
「……規格は、変わった。速く、軽く、安く。若い者には、それが必要だ」
「必要でした。でも、境界では“湯気が続くこと”が必要です」
「わしは、昔の棚を守りたかった」
「では、名を捨てずに守りませんか。旧規格を“古き良き”で終わらせず、“長く持つ香り”として教本にする。共同の監修者になってください」
王子が頷く。管理官も腕をほどく。薬師が小さく手を挙げる。
「技術の継承に、敵味方は要らない。湯気の高さを合わせれば良い」
沈黙。やがて、ラウモンドが笑った。
「口のうまい娘だ。……いや、鼻の、か」
「台所語です」
「償いは?」
グラドが短く尋ねる。
「旧在庫の洗い出し。刻印油の再調整。会議までに“香り文”の補足案を一本」
私は指で三つ示した。
「やろう」
ラウモンドは団子をひと口齧った。
「塩は外交量だな」
「はい。足りない分は、会話で足します」
***
夕刻。私は報告書に“匂いの供述”を書き留め、最後に手帳へ三行追加した。――旧は敵ではない。新は万能ではない。香りは順序。
「カスミアーナ」
王子が窓辺で私を呼ぶ。
「ありがとう。争いの種を、料理で土に戻した」
「土がいい土なら、また香りが育ちます」
「明日は、魔王の使いが王都に入る」
「わかりました。次は“歓迎の鍋”です」
子どもたちが戸口で跳ねた。
「ぷりんは?」
「夜食のあと」
「やった!」
夜、片付けのあとで《ステータス》を開く。――料理Lv22→23、《香路図》精度:中→高、《魔食効果付与》持続:+5分。よし。
「歓迎の鍋、なににする?」
リサが湯呑みを差し出す。
「辛味は“深味”に。香りは低く長く。主は骨付き肉の柔煮、副に香葉団子、締めに甘露ぷりん」
「ぷりん、最後!」
子どもたちが元気よく復唱する。
「噂では、魔王の使いは“熱い香り”が好きらしい」
グラドが肩をすくめた。
「じゃあ、唐辛子は焦らず油で起こして、泣きたくなる前で止めます」
火は静かに揺れ、湯気は細い輪になってほどけていく。台所は、今日も証言を終えた。明日はまた、外交官になる。
準備万端ですよ。
「起きてるかい」
セイル王子が静かに入ってくる。
「はい。湯気、準備万端です」
「立会いは午前。東境の管理官と、向こうの薬師も来る」
「了解。匂いの通訳、やります」
副長グラドが扉を押し開けた。
「護衛は最小限。刃は抜かない。舌も、な」
「緊張すると噛むのが早くなるから、ゆっくりです」
「おう」
ルークが旗袋を抱えて駆けてくる。
「きょうは“低い旗”?」
「うん。湯気の高さに合わせてね」
「まかせて!」
マリナはエプロンの紐をぎゅっと結ぶ。
「わたし、記録係する。“おいしい”何回言ったか数える」
「頼もしい」
保温箱の石温を三段で整え、香袋は鎮静・安心・合図の三種を新しい札で結び直す。私は《鑑定眼》を開き、体調と集中度を確認した。――体力66、精神81。調理集中:高。嗅覚強化:上昇。
「王子、試験皿いきます」
「何の?」
「“真偽を分ける一匙”です」
私は二つの小皿に、同じ出汁を注いだ。一方には微量の柑根粉、もう一方には刻印油を拡散させた水滴を落とす。香りは限りなく薄い。けれど舌の奥、鼻腔の天井で違いが出る。
「……ふむ。わずかに金気が残る方が“刻印油”だな」
「正解。会議でも、この差を目印にします」
鐘が一つ鳴り、立会いの刻が来た。
***
調香庫は石壁の奥にあり、温度石で一定の冷気が保たれている。棚には粉袋と油瓶がびっしり。記録官カーディンが慌ただしく机を片づけ、管理官と薬師が入室した。
「立会い、感謝する」
管理官が短く礼をする。
「こちらこそ。匂いの線で、話を揃えましょう」
私は深く頭を下げた。
王子が封印した木箱を卓に置く。封蝋は新規格だが、角の旧印が隠れている。副長グラドが封を解き、私は《香路図》を展開した。
「右から三列目、下段の隙間の粉袋。旧印。……加えて、刻印油の層が二重です」
「二重?」
薬師が身を乗り出す。
「古い油に新しい油を重ねて、見た目を綺麗にしている。鼻は誤魔化せません」
私は粉袋の角を、紙の上でそっと撫でた。ごく薄い灰が落ちる。灰を湯に溶き、香りを立たせる。
「この灰、軍需局旧規格の乾燥棚の匂いです。木の代わりに鉄の格子を使うので、最後に鉄の息が残る」
「なるほど……」
管理官が腕を組む。
記録官カーディンが小さく咳払いした。
「記録と在庫は、規程どおりです」
「数字は綺麗です。だから、匂いで聴きます」
私は帳簿の札を鼻先でなぞった。筆圧、墨の乾き方、紙の匂い。十か月前から、札の綴じ糸の膠が変わっている。
「この糸、最近は安価な魚膠に変えましたね」
「予算の都合で……」
カーディンが目を伏せる。
「変えたのは悪くない。ただ、同じ頃から番号の書体が二種類混じっている。――“二つの手”です。ひとつはあなた。もうひとつは?」
カーディンは肩を震わせた。
「外注の補助を……一時的に」
「名前は」
グラドの声が落ちる。
「ラウモンド、……元調香長です」
空気が固くなる。王子が短く息を吸い、私は合図の香をひと呼吸だけ焚いた。
「焦らないで、順にいきましょう」
私は二つの粉袋を開き、小匙で“味見できない味見”をする。舌に乗せず、湯気だけを吸う。鼻腔の天井で、灰の奥に柑根、そのさらに奥に鉄。順番が時間を語る。
「旧棚→柑根→新油。つまり、旧規格で乾かしてから、新しい油で覆った」
「古い在庫を“新しい顔”にしたのか」
王子が呟く。
「危険は?」
管理官が問う。
「直ちに毒ではありません。ただ、香りが死ぬ。消香玉に混じれば、湯気が途切れる」
薬師が苦い顔をした。
「議場で“言葉が止まる”……最悪だ」
「やったのは、匂いの規格を知らない者ではない」
グラドが棚を睨む。
「ラウモンドは旧規格の親だ。数字を綺麗にする術も知っている」
管理官の声に、悔しさが混じる。
「動機は、名誉か、金か、過去への執着か」
王子の視線が私に向く。
「どれでも、胃袋は空きます」
私は肩をすくめた。
「だから、呼びましょう。――台所へ」
***
小さな台所に、古い男が入ってきた。白い髭。手は震えていない。匂いの歩き方を、まだ覚えている足だ。
「ラウモンド殿。立会いに感謝します」
王子が先に頭を下げる。
「話す必要はない。私は退いた身だ」
「話すのではなく、嗅ぎます」
私は微笑んだ。
「これは“香葉の蒸し団子”。外交仕様です。ひと口だけ、湯気をどうぞ」
「……子供だましを」
男は眉をひそめたが、湯気を一息吸った。睫毛が少しだけ緩む。
「うむ。香葉は軽く擦ってある。塩は……不足気味だが、会議向けだ」
「ありがとうございます。では、これは?」
私は“二層煮”を小椀で差し出す。
「上はやわらかく、下が支える。――昔の会食の作法だ」
「覚えているのですね」
私は静かに、封の切れた粉袋を卓上に置いた。
「旧規格の粉。新しい油で覆ってあります」
ラウモンドの指が、ほんの僅か、止まった。匂いが揺れる。
「退いた身だ。倉の数字は知らん」
「数字は綺麗でした。だから、匂いに話してもらいます」
私は湯気の試験を並べた。旧棚の灰、柑根、新油。順に吸えば、順に足跡が出る。
「あなたの“手”は、まだ綺麗です。配合の角が丸い。今の倉では見ない筆致です」
男は目を閉じた。長い息が、古い火の匂いを連れて出てくる。
「……規格は、変わった。速く、軽く、安く。若い者には、それが必要だ」
「必要でした。でも、境界では“湯気が続くこと”が必要です」
「わしは、昔の棚を守りたかった」
「では、名を捨てずに守りませんか。旧規格を“古き良き”で終わらせず、“長く持つ香り”として教本にする。共同の監修者になってください」
王子が頷く。管理官も腕をほどく。薬師が小さく手を挙げる。
「技術の継承に、敵味方は要らない。湯気の高さを合わせれば良い」
沈黙。やがて、ラウモンドが笑った。
「口のうまい娘だ。……いや、鼻の、か」
「台所語です」
「償いは?」
グラドが短く尋ねる。
「旧在庫の洗い出し。刻印油の再調整。会議までに“香り文”の補足案を一本」
私は指で三つ示した。
「やろう」
ラウモンドは団子をひと口齧った。
「塩は外交量だな」
「はい。足りない分は、会話で足します」
***
夕刻。私は報告書に“匂いの供述”を書き留め、最後に手帳へ三行追加した。――旧は敵ではない。新は万能ではない。香りは順序。
「カスミアーナ」
王子が窓辺で私を呼ぶ。
「ありがとう。争いの種を、料理で土に戻した」
「土がいい土なら、また香りが育ちます」
「明日は、魔王の使いが王都に入る」
「わかりました。次は“歓迎の鍋”です」
子どもたちが戸口で跳ねた。
「ぷりんは?」
「夜食のあと」
「やった!」
夜、片付けのあとで《ステータス》を開く。――料理Lv22→23、《香路図》精度:中→高、《魔食効果付与》持続:+5分。よし。
「歓迎の鍋、なににする?」
リサが湯呑みを差し出す。
「辛味は“深味”に。香りは低く長く。主は骨付き肉の柔煮、副に香葉団子、締めに甘露ぷりん」
「ぷりん、最後!」
子どもたちが元気よく復唱する。
「噂では、魔王の使いは“熱い香り”が好きらしい」
グラドが肩をすくめた。
「じゃあ、唐辛子は焦らず油で起こして、泣きたくなる前で止めます」
火は静かに揺れ、湯気は細い輪になってほどけていく。台所は、今日も証言を終えた。明日はまた、外交官になる。
準備万端ですよ。
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