『異世界ごはん、はじめました!』 ~料理研究家は転生先でも胃袋から世界を救う~

チャチャ

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第4章魔王様、ご飯で和解しませんか?

第6話 黒角の使い、歓迎の鍋で舌を結ぶ

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 王都正門の外、黒い馬車が止まった。布を払うと、黒角の青年が降り立つ。瞳は赤、外套は深い緑。後ろに、白髪の女魔族が静かに続いた。

「歓迎いたします。王太子セイルです」 「魔王陛下の勅命を携えた使い、バライル。副官のシュラ」 「本日は“湯気の握手”から始めましょう」 「……握手を湯気で?」 「はい。うちの流儀です」

 私は香袋を低く焚いた。甘さは控えめ、安心を多め。兵の肩がすっと落ちる。バライルの鼻先が、わずかに揺れた。

「香りは、嘘をつかない」 「私の合言葉です」

 案内は台所へ。謁見の間ではない。今日は鍋を中心に据える。中央に大鍋、周囲に深椀。壁際に小さな火を三つ。風は南東、窓は半分。

「席につく前に、一息」  私は湯呑みを差し出す。体ぽかぽか茶。

「……熱は控えめだが、舌が目覚める」 「会話の火力が上がる温度です」

 副長グラドが短く頷く。セイル王子は視線で合図。ルークは旗を低く、マリナは「いただきます」を練習中。

「本日の主は“骨付き肉の柔煮”。副に香葉の蒸し団子。締めに甘露ぷりん」 「ぷりん?」 「冷たい甘味。戦わずとも人を黙らせる一品です」 「……楽しみにしておこう」

 私は《鑑定眼》を開く。――バライル:体力82、精神71、辛味耐性:高、酸味感受:低、好み傾向:熱い香り。シュラ:体力54、精神88、苦味耐性:中、香り過敏:やや高。

「辛味は油で起こして、泣く前で止めます。酸は低め。香りは低く長く」 「厨房で交渉しているな」 「台所は作戦室です」

 私は深鍋の蓋を上げた。骨の周りが静かに揺れ、香りが床を這う。にんにく代わりの白根を油でじっくり起こし、唐辛子は低温で香りだけを引き出してある。

「まずは“始まりの椀”。和薬スープです」 「先に薬を飲ませるのか?」 「いいえ。声の角を落とす湯気です」

 一口で、眉間のしわがほどける。バライルも、シュラも、湯気を同じ高さで吸った。私は心の中で合図を打つ。――いい呼吸。

「主菜を」  骨付き肉を深椀に一人ひとつ。縁に香葉を擦り、上から熱い油を細く回す。

「……香りが歌う」  バライルの赤い瞳がわずかに和らぐ。骨から抜けるコラーゲンの糸が、舌に優しく絡む。

「熱は好きだが、焦げは好きではない」 「存じました。焦がさず、香りだけ焦らせます」

 私はパン代わりの薄焼きを配り、肉汁を拭わせた。テーブルに小さな笑いが生まれる。重くなりそうな場に、軽い音が跳ねる。

「さて」  王子が椀を置く。 「昨日の“立会い”の結論を共有したい。旧規格粉への新油重ね――意図は改ざんではなく、古き技術の延命だった。だが結果は“湯気殺し”に近い」

「……言葉が止まる。もっとも忌むべき失策だ」  シュラが低く言う。

「当人は協力に応じた。旧棚を“長く持つ香り”として教本化する。共同監修に名を連ねる」 「敵地に名を置くか」 「湯気は国境を選ばない」  私は微笑んだ。

「ならば、こちらからも提案を」  バライルが骨を置く。 「我が陣で“熱い香り”の起こし方が標準化されていない。焦げる者がいる」 「油と唐辛子の温度を分けましょう。二段で起こして、一段で合わせる。手順を“香り文”にします」 「香り文?」 「文字と図、そして湯気の高さの記号です」

 私は板を立て、油の温度石を二つ並べ、唐辛子を三本。一本は低温で香り、一本は中温で色、一本は火を止めてから油に浸す。三つを合わせ、鍋へ落とす。

「焦げない。だが弱くない」  シュラの顔に、初めて柔らかい光が差す。

「“湯気で握手”は理解した」  バライルが椀を置いた。 「だが、こちらにも伝統の“火の挨拶”がある。試してもらおう」

 シュラが小さな鉄壺を掲げる。香辛酒の蒸留。香りは強いが、喉に火をつけるものではない。彼女は壺を高く掲げ、湯気の輪を二重に描いて私に渡した。

「受け方は」 「輪を崩さず、一息で半分」 「承知」

 私は一息で半分吸い、残りを低く返した。輪は崩れない。周囲から小さな歓声が上がる。

「見事だ」 「ありがとうございます。では“火の挨拶”を鍋に翻訳します」

 私は香辛酒を小さく鍋肌にひらり。沸き上がる香りを逃さず、蓋をずらして低く回す。熱は高いが、誰も咳き込まない。

「これが“火を分け合う”です」

「……君は面白い」  バライルの口元に笑み。

「締め、いきます」  私はぷりんを配る。黒糖の甘み、香葉の香りを一輪。器は冷たいが、湯気は記憶の温度。

「……黙るな」 「そういう甘味です」  セイル王子が肩を震わせる。子どもたちは満面の笑み。

「本題の最後だ」  王子が真顔に戻る。 「境界警備の再編と、調香庫の共同監査。加えて“胃袋合意”の常設化――定期的な炊き合わせ会を提案する」

「定期的に、鍋を囲む?」 「はい。戦より安いです」 「計算としても、悪くない」  シュラが頷く。

「魔王陛下の裁可が要る」  バライルが立ち上がる。 「だが、持ち帰る価値はある。持ち帰る“香り”もな」

「手土産を」  私は包みを差し出す。唐辛子油の二段起こしセットと、香り文の簡易版。

「受け取った」  彼は胸に手を当て、ゆっくり頭を下げた。角が、灯にやわらかく光る。

「最後に、一口だけ、国の無事の味を」  私は小さな椀に、和薬スープをほんの少し。全員で同時に。

「ごちそうさま」  声がそろう。湯気の輪が天井でひとつになり、ほどけた。

 見送りの廊下で、シュラが小声で囁いた。

「……焦げは嫌い。けれど、熱は恐れない。明日も台所で会えるといい」 「必ず。次はあなたに“低い香り”をお願いしたい」 「考えておく」

 門がしずかに閉じる。私は大きく息を吐き、《ステータス》を確認する。――交渉:6→7(鍋外交)。嗅覚強化:維持。新称号《香りの通訳》。

「やったね!」 「ぷりん、もう一個!」 「ありません」 「えー!」

 笑い声が石壁に跳ね返る。私は手帳に三行書いた。――熱は分ける。焦げは残さない。甘味は喧嘩を止める。

「次は“常設鍋”の段取りだ」  王子が袖をまくる。

「はい。台所はまた外交官に。……それから、検証室にも」

 火は静かに揺れ、香りは低く長く続いた。次の約束の湯気が、もう見えている。

 片付けを終えた頃、記録官カーディンが駆け込んできた。

「報告書の“香り文”に、匂い記号の凡例を添えてほしいと要望が」 「了解。湯気の高さは三段、火力は四段、塩梅は点で表記。図には“沈黙の間”の印も入れておきます」 「沈黙の間?」 「大事な合意が近づいたとき、あえて一息だけ黙る。ぷりんの前みたいに」 「つまり、甘味で時間を買う」 「台所の常套手段です」

 ルークが手を挙げた。

「ぼく、“低い旗”の結び方、もう一回」 「いいね。旗の結びは香り文の一部。結び目の位置で“湯気の高さ”を伝えるの」 「わあ、旗って文字なんだ」 「うん。だから、ほどけやすく結ぶのが礼儀」

 私は結びを教えながら、《無限収納》から新しい布を出した。時間停止で温度を保ったまま、小鍋を一つ取り出す。

「夜食?」 「味見用。明日の“常設鍋”に向けて、塩の外交量を再確認する」 「また外交量!」 「覚えるまで言います」

 味見の輪ができる。皆で一口、同じ高さで湯気を吸う。私は合図の香を胸のあたりに一回だけ。呼吸が揃う。

「……うん、今日はここで止めよう」 「なぜ?」 「明日の“いい匂い”を取っておくため」

 窓の外で、夜更けの鐘が二つ鳴った。私は火加減を落とし、蓋を半分ずらす。湯気が細い帯になって、静かに消える。

「おやすみなさい。湯気、また明日」  台所は眠り、私の鼻は明日を待つ。静かに。また。

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