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第4章魔王様、ご飯で和解しませんか?
第29話 出立前夜、鍋は焦がさない
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朝一番、私は調香庫の鍵を受け取った。薄暗い石室の中に、香草と油の匂いが層になってたまっている。棚ごとに札を付けて、一本ずつ息を確かめる。
「旧在庫、ここからここまで“保留”。使わない。……カーディンさん、確認お願いします」
「了解した。匂いの履歴は俺が記す。十か月前の帳、一度白紙に戻す」
「数字はあなたに任せます。私は“腹に入れていい匂い”だけを残します」
カーディンは小さく息を吐き、柑根の壺に黒い紐を掛けた。封印の印が、ぱちりと音を立てる。
「……腹で話す、か。今日はその意味が骨身にしみたよ」
「また明日も、腹で話しましょう。明日は“倉の朝ごはん”から」
「任せてくれ。記録官の手も、鍋に入れる」
石室を出ると、王都の空は高く澄んでいた。風は南東。鍋の湯気がよく回る風だ。
---
昼前、作戦室。卓の上に地図、隣に「旅支度表」。セイル王子、グラド副長、白髪の副官シュラ、そして厨房の面々が輪になって立つ。
「目的地は魔都大市。経路は灰の峠、折香谷、香り橋を渡って西門から。護衛は三班で交代」
グラドが指で道筋をなぞる。
「途中の水は“祈りの井戸”一本のみ。補給はそこで。火力石は十塊、予備五塊」
「鍋は?」と、王子。
「主鍋一つ。蒸籠ひと組。片手鍋二つ。鉄板は一枚。——“耳の布”は八枚、予備三枚」
「甘露ぷりんの型は?」と、ルーク。
「持っていくけど、冷やす場所は相手の市場次第。今日は“沈黙の間”は小鉢仕様でいきます」
「橋の粥の穀は王都産で統一。塩は外交量。旗は低く、湯気は胸の高さ」
私は一つずつ声に出して確かめる。声に出すと、手順が身体に落ちる。
「現地の妨害があった場合は?」と、シュラ。
「“耳の布”を先に。次に“沈黙の間”。それでも駄目なら——鍋の位置を風下にずらす。焦げる前に動く」
セイル王子が頷いた。
「よし。護衛は私が連れて行く。だが主役は鍋だ。——カスミアーナ」
「はい」
「君の一皿が、魔都の朝を変えるかもしれない」
「焦がさず、熱だけを渡します」
視線が交わって、ひと呼吸だけ場が静まった。次の瞬間、紙がぱたぱたとめくれる音で、皆の手がまた忙しく動き出す。
---
夕方、厨房。旅鍋の試し炊き。炎の高さ、油の温度、湯気の輪郭。全部、王城の中庭で一度やっておく。
「エリク、火は指三本」
「了解!」
「リサ、粥は“立ち話の濃さ”。柄杓で落ちない程度で止めて」
「はい!」
「マリナ、旗の紐は胸の高さ。——そう、そこで固結び」
「わかった!」
ルークがこっそりと私の袖を引く。
「ねぇ、ぷりん……」
「帰ってきた日の“沈黙の間”にしよう」
「えぇ~」
「魔都の人にも“沈黙”の練習してほしいから、まずは小鉢。帰ってきたら、王都サイズ」
「約束だよ?」
「約束」
笑い声が立ったところで、窓から夕風。ほんの少し、匙の縁が温かくなる。女神の匙が、また息をした。
---
夜、倉庫裏の小部屋。私は荷を書き出して、無限収納に順番通りしまっていく。取り出す順に番号札もつける。
「一、橋の雑穀。二、和薬の素。三、耳の布。四、旗。五、火力石。六、予備の湯さまし。七、沈黙小鉢——」
戸口に影。グラドが腕を組んで立っていた。
「数は足りるか」
「十分です。でも、鼻はまだ少し欲しい」
「俺の鼻でいいなら、いくらでも貸す」
「鈍い鼻は、焦げの初手に強い」
「覚えておく」
無骨な人の、無骨な安心。私は小さく笑って、札を七から八に進めた。
---
中庭。星が濃い。セイル王子がベンチに腰掛けて空を見ていた。その隣に、私はそっと座る。
「王子。——怖いですか?」
「少しだけ。だが楽しみの方が勝っている」
「私も、です」
「いつか言ったな。君は料理しかできないと」
「言いました」
「それが、どれだけ難しいことか、今ならわかる」
「王子が食べるから、私は作れます」
「……なら、明日も食べる」
「明日も作ります」
王子が立ち上がり、軽く手を差し出す。私は立ち上がって、手袋越しにその手を握った。温度が、ちょうどいい。
「出立は明け六つ。南門集合だ」
「了解しました。寝坊禁止です」
「そっちこそ」
二人で笑って別れた。夜風が旗の結び目を揺らす。湯気の高さの印が、月明かりに白く光った。
---
部屋に戻って、机の上に地図を広げる。私は“香りの地図”に、一本だけ新しい線を描き足した。王都から魔都へ伸びる、細い線。
「焦がさず、熱だけ。——腹で話す」
女神の匙がふっと温かくなった。まるで返事みたいに。
灯りを落とす前、私は《ステータス》を開く。
《名:カスミアーナ/年齢15/職:料理研究家》
《料理 24/鑑定 8/嗅覚強化 8/段取り最適化 8/火加減制御 7》
《特技:香り文作成/称号:鍋の約束》
画面は静かだ。でも、胸の奥で何かが一段、火力を上げた気がした。
「行こう。鍋は準備万端」
窓の外で、遠い鐘がひとつ鳴る。私は布団にもぐり、柄杓の柄を胸に抱いた。
明け六つ。南門。旗は低く、湯気は胸の高さ。
「旧在庫、ここからここまで“保留”。使わない。……カーディンさん、確認お願いします」
「了解した。匂いの履歴は俺が記す。十か月前の帳、一度白紙に戻す」
「数字はあなたに任せます。私は“腹に入れていい匂い”だけを残します」
カーディンは小さく息を吐き、柑根の壺に黒い紐を掛けた。封印の印が、ぱちりと音を立てる。
「……腹で話す、か。今日はその意味が骨身にしみたよ」
「また明日も、腹で話しましょう。明日は“倉の朝ごはん”から」
「任せてくれ。記録官の手も、鍋に入れる」
石室を出ると、王都の空は高く澄んでいた。風は南東。鍋の湯気がよく回る風だ。
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昼前、作戦室。卓の上に地図、隣に「旅支度表」。セイル王子、グラド副長、白髪の副官シュラ、そして厨房の面々が輪になって立つ。
「目的地は魔都大市。経路は灰の峠、折香谷、香り橋を渡って西門から。護衛は三班で交代」
グラドが指で道筋をなぞる。
「途中の水は“祈りの井戸”一本のみ。補給はそこで。火力石は十塊、予備五塊」
「鍋は?」と、王子。
「主鍋一つ。蒸籠ひと組。片手鍋二つ。鉄板は一枚。——“耳の布”は八枚、予備三枚」
「甘露ぷりんの型は?」と、ルーク。
「持っていくけど、冷やす場所は相手の市場次第。今日は“沈黙の間”は小鉢仕様でいきます」
「橋の粥の穀は王都産で統一。塩は外交量。旗は低く、湯気は胸の高さ」
私は一つずつ声に出して確かめる。声に出すと、手順が身体に落ちる。
「現地の妨害があった場合は?」と、シュラ。
「“耳の布”を先に。次に“沈黙の間”。それでも駄目なら——鍋の位置を風下にずらす。焦げる前に動く」
セイル王子が頷いた。
「よし。護衛は私が連れて行く。だが主役は鍋だ。——カスミアーナ」
「はい」
「君の一皿が、魔都の朝を変えるかもしれない」
「焦がさず、熱だけを渡します」
視線が交わって、ひと呼吸だけ場が静まった。次の瞬間、紙がぱたぱたとめくれる音で、皆の手がまた忙しく動き出す。
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夕方、厨房。旅鍋の試し炊き。炎の高さ、油の温度、湯気の輪郭。全部、王城の中庭で一度やっておく。
「エリク、火は指三本」
「了解!」
「リサ、粥は“立ち話の濃さ”。柄杓で落ちない程度で止めて」
「はい!」
「マリナ、旗の紐は胸の高さ。——そう、そこで固結び」
「わかった!」
ルークがこっそりと私の袖を引く。
「ねぇ、ぷりん……」
「帰ってきた日の“沈黙の間”にしよう」
「えぇ~」
「魔都の人にも“沈黙”の練習してほしいから、まずは小鉢。帰ってきたら、王都サイズ」
「約束だよ?」
「約束」
笑い声が立ったところで、窓から夕風。ほんの少し、匙の縁が温かくなる。女神の匙が、また息をした。
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夜、倉庫裏の小部屋。私は荷を書き出して、無限収納に順番通りしまっていく。取り出す順に番号札もつける。
「一、橋の雑穀。二、和薬の素。三、耳の布。四、旗。五、火力石。六、予備の湯さまし。七、沈黙小鉢——」
戸口に影。グラドが腕を組んで立っていた。
「数は足りるか」
「十分です。でも、鼻はまだ少し欲しい」
「俺の鼻でいいなら、いくらでも貸す」
「鈍い鼻は、焦げの初手に強い」
「覚えておく」
無骨な人の、無骨な安心。私は小さく笑って、札を七から八に進めた。
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中庭。星が濃い。セイル王子がベンチに腰掛けて空を見ていた。その隣に、私はそっと座る。
「王子。——怖いですか?」
「少しだけ。だが楽しみの方が勝っている」
「私も、です」
「いつか言ったな。君は料理しかできないと」
「言いました」
「それが、どれだけ難しいことか、今ならわかる」
「王子が食べるから、私は作れます」
「……なら、明日も食べる」
「明日も作ります」
王子が立ち上がり、軽く手を差し出す。私は立ち上がって、手袋越しにその手を握った。温度が、ちょうどいい。
「出立は明け六つ。南門集合だ」
「了解しました。寝坊禁止です」
「そっちこそ」
二人で笑って別れた。夜風が旗の結び目を揺らす。湯気の高さの印が、月明かりに白く光った。
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部屋に戻って、机の上に地図を広げる。私は“香りの地図”に、一本だけ新しい線を描き足した。王都から魔都へ伸びる、細い線。
「焦がさず、熱だけ。——腹で話す」
女神の匙がふっと温かくなった。まるで返事みたいに。
灯りを落とす前、私は《ステータス》を開く。
《名:カスミアーナ/年齢15/職:料理研究家》
《料理 24/鑑定 8/嗅覚強化 8/段取り最適化 8/火加減制御 7》
《特技:香り文作成/称号:鍋の約束》
画面は静かだ。でも、胸の奥で何かが一段、火力を上げた気がした。
「行こう。鍋は準備万端」
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