『異世界ごはん、はじめました!』 ~料理研究家は転生先でも胃袋から世界を救う~

チャチャ

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第5章地球と異世界、二つの台所と再会の味

第1話 魔都大市、香りの渦へ

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 明け六つ。南門の石畳はうっすら冷たく、息が白い。荷車に鍋を積み、旗を低く結び、私は柄杓の柄を軽く叩いた。合図の音が、胸の奥で小さく跳ねる。

 

「道中の護衛は王都が担当。会場内の警備は魔都側が引き受ける——使者バライルの条件どおりだ」

 

 グラドが短く告げる。

 

「了解。焦げさせず、湯気だけ通します」

 

 セイル王子が頷き、手袋越しに親指を立てた。

 

「出発だ。“鍋の約束”を運ぶ」

 

「はい」

 

 門が開き、列が動く。朝の風は南東。湯気がよく回る風だ。

 


---

 

 灰の峠は名のとおり、踏むと粉が舞う。耳の布を半分顔にかけ、私は《火加減制御》で持ち込み火力石の温度を落とす。揺れると焦げやすい。

 

「ルーク、旗の紐、胸の高さを保って」

 

「うん、結び直した!」

 

「マリナ、耳の布、鼻に隙間を。息が苦しくなると味が鈍るよ」

 

「はーい!」

 

 折香谷に下りると、風向きが変わった。土の甘さの奥に、柑根と鉄の微かな名残。私は鼻先で線を引き直す。

 

「ここから“香り橋”まで、鍋は風下に寄せて」

 

「了解」と、グラド。

 

 香り橋の上で、女神の匙がふっと温かくなった。対岸の空気が、はっきり違う。甘味が深く、酸が短い。魔都の匂いだ。

 


---

 

 正午前、魔都大市が見えた。屋根という屋根に色布が垂れ、露店の煙が渦を巻く。香辛料の山、乾いた果実、見たことのない黒い豆。人と魔族が混じり合い、声が行き交う。

 

「到着だ。——視線が多いな」

 

 王子が笑う。注目は旗ではなく鍋に向いている。よし、狙いどおり。

 

 黒衣の使者バライルが、孔雀色の羽根飾りを揺らして近づいてきた。目じりの皺は笑っているが、鼻は仕事をしている顔だ。

 

「歓迎する、女神の匙の持ち主よ。入市にあたり三つの約束がある」

 

「伺います」

 

「ひとつ、鍋の位置を市の風の“流れ”に従わせること」

 

「承知しました。香りの地図を引きながら動かします」

 

「ふたつ、最初の一椀は“沈黙の間”にすること」

 

「小鉢を用意しています」

 

「みっつ、焦がさないこと」

 

「一番得意です」

 

 使者の肩がわずかに落ちた。笑っている。

 

「よろしい。会場内の警備は我らが負う。腹で話そう」

 

「腹で、話します」

 


---

 

 市中央の広場には既に円形の台座が設えられていた。風向きの印が布に描かれ、旗の結び目の高さが記されている。わかってる、ここは“香り”で秩序を取る街だ。

 

「主の鍋は“骨付き柔煮”。副は“香葉の蒸し団子”。そして——“橋の雑穀粥”」

 

 私は声に出し、火力石を二指ぶん上げる。湯気が胸の高さで丸く広がり、誰かがふっと息を吐く音が聞こえた。

 

「始まりの小鉢、どうぞ」

 

 合図の香を一度だけ焚く。ざわめきが一拍で静まり、最前列の老魔が小鉢を口に運ぶ。角が柔らかく傾く。

 

「……静かになる」

 

「喧嘩の前に必要な静けさです」

 

 隣で角飾りの若い親が、子どもの口元を拭きながら団子を半分に割った。

 

「塩が喧嘩を忘れさせる」

 

「外交量です」

 

 笑いがひと筋、湯気に混ざって立ち上がる。私は《鑑定眼》を開き、流れを視る。

 

《体力回復:小 精神安定:中 交渉意欲:上昇 敵意:減衰》

 

 よし、火は生きている。

 


---

 

 そのとき、鼻をかすめる違和感。——野晒しの油香、早すぎる焦げの気配、そして柑根の古い残り。

 

「王子、二歩風下へ。グラド、耳の布を客列の右へ回して」

 

「了解」

 

 私は鍋を台座のガイドに沿って半身だけ回す。湯気の輪郭が立て直り、違和感が流れの外側に押し出される。幕の影に、昨日と似た手の形が一瞬見えた。指の節に油、爪に灰。ここにも“旧棚の手”がいる。

 

「——焦げない」

 

 柄杓で粥を一杯、幕の向こうに差し入れる。

 

「忙しいので手短に。どうぞ」

 

 沈黙。ひと啜り。息がほどける音。

 

「……腹が、落ちる」

 

「話は腹で。名前はあとで」

 

 器を戻し、私は鍋の前に立つ。湯気は胸の高さ。旗は低い。合図の香は一度だけ。

 


---

 

 午後、使者バライルが小さな銀の鐘を鳴らした。広場の空気が自然にすっと整う。

 

「魔王陛下が“舌で見たい”献立、第一候補を聞こう」

 

「骨付き柔煮は“出会い”。香葉の蒸し団子は“合意”。橋の雑穀粥は“往来”。——そして、もう一つ」

 

「もう一つ?」

 

「“和薬茶漬け”。戦の後にも、喧嘩の前にも、腹をやさしく満たすもの」

 

 ざわめき。王子が横目で笑う。グラドは腕を組んだまま、うんと小さく頷いた。

 

「沈黙の間」の鐘がまた鳴り、私は一膳ぶんだけ試作を置く。香りは低く、湯気は短い。口に入れた老魔の目の端に、うっすら水が光った。

 

「……昔の夜だ」

 

「帰る場所の味です」

 

 使者が帳に何かを書きつけ、顔を上げる。

 

「本日の日没後、王城“香の間”にて予備審。明日、陛下の御前で本審。——腹で話す支度を」

 

「支度はできています。焦がさず、熱だけ渡します」

 


---

 

 片付けが終わるころ、夕焼けが市を金色に染めた。人々は列をほどきながら「また明日」と手を振る。子どもが団子の串を大事そうに握っている。

 

「今日の記録だ」

 

 バライルが小さな革冊子を差し出す。鼻先に、見覚えのある紙の香りがした。——地球の和紙に似ている。

 

「この紙……」

 

「古い交易の名残だ。こちらでは“軽い紙”と呼ぶ」

 

 胸の奥で、何かがかすかに軋む。地球の台所と、この世界の鍋。その線が、一瞬だけ重なった気がした。

 

「明日の“香の間”では、火を使う時間と香の順番が厳密に決まる。地図を引けるか」

 

「引けます。——風と湯気は、私の言葉です」

 

 使者が目じりをもう一度だけ細くし、去っていく。

 


---

 

 宿に戻り、私は“香りの地図”を描く。王城の間取り、通風孔の向き、床の石目。湯気の高さは丸、火力は線、塩梅は点。端に“沈黙の間——小鉢三〇、間合い一〇息”と書き込む。

 

「王子、明日の順番をもう一度」

 

「最初に“橋の粥”。次に“和薬茶漬け”。間を置いて“香葉の蒸し団子”。最後に“骨付き柔煮”。——合図の香は最初と最後だけ」

 

「了解」

 

 私は《ステータス》を開き、指で一項目ずつなぞった。

 

《料理 24/鑑定 8/嗅覚強化 8/段取り最適化 8/火加減制御 7》

 

 足りないのはきっと“呼吸”。私は深く息を吸い、ゆっくり吐く。

 

「カスミアーナ」

 

 戸口でグラドが咳払いを一つ。

 

「耳の鍋の蓋、今日はどれくらい開ける」

 

「三分の一だけ。——熱は逃がさず、音だけ通す」

 

「いい判断だ」

 

 短い会話。短い安心。私は微笑んで、地図に小さく“音の逃げ道”と書き足した。

 

 灯りを落とす前、女神の匙がもう一度だけ温かくなった。まるで、「焦がさないで」と囁いたみたいに。

 

「明日、腹で話します。——必ず」

 

 遠くで鐘が二度、静かに鳴った。私は布団に潜り、柄杓の柄を胸に当てて目を閉じた。湯気の高さは胸。旗は低い。香りは橋。

 

 魔都の夜は、意外なほど穏やかだった。

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