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第5章地球と異世界、二つの台所と再会の味
第2話 香の間予備審——沈黙と一椀の距離
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日が傾き、魔都王城の奥へと案内された。扉の上には“香”の紋。廊は風見窓が細かく刻まれ、通るたびに空気がやさしく回る。ここが——「香の間」。
「入室は四名まで。火は二口まで。合図の香は一度だけ」
使者バライルが銀の鐘を指先で転がし、規則をさらりと唱える。
「了解。旗は低く、湯気は胸の高さに」
私とセイル王子、グラド、副仕込みのリサの四人で台座に立った。床石の目に沿って小さな“風の矢印”が刻まれている。うん、香りの地図が描きやすい。
「始める」
鐘が一度、涼しく鳴る。私は《火加減制御》を開き、主火を一指ぶん、補助火を半指ぶん上げた。
「最初は“橋の雑穀粥”。間合いは十息」
「承知」
炊き上がりの粥を柄杓でひと口分、小鉢へ落とす。湯気は胸の高さで丸く広がり、広間のざわめきがすっと浅くなる。
「沈黙の間、入ります」
私は合図の香を一度だけ焚いた。やわらかな甘さが、石壁と高窓の間を一巡して戻ってくる。椅子の軋む音が消え、人の呼吸だけが聴こえる。
「——っ」
誰かのお腹が、ぽん、と鳴った。グラドがわずかに咳払いで被せ、王子が肩を震わせる。私は小鉢をもう一つ、さりげなくその方向へ。
「続いて“和薬茶漬け”。塩は外交量で」
「小鍋、温度安定」
リサの声が心地よい。刻んだ香葉と和薬の素をさっと湯にくぐらせ、ごはんの上からかける。鼻腔がすーっと広がる香り。
最前列の女官が一口すすると、目尻の皺がほどけた。
「胸の奥が、静かに温かい……」
「戦のあと、喧嘩の前、話し合いの最中にも、邪魔にならない一椀です」
私の声に、背後で紙をめくる音。審査の筆記官たちだろう。《鑑定眼》をそっと細める。
《精神安定:中/敵意:減衰/集中:持続》
よし、火は生きてる。
「三皿目、“香葉の蒸し団子”——間合いは五息短く」
「了解」
蒸籠の蓋を半分だけずらす。湯気が短く立ち、香葉の青い香りが軽やかに跳ねる。私は団子を割り、塩を一粒だけ触れた。
「……塩が、喧嘩を忘れさせる」
審査席の老魔がぽつりと呟く。うん、届いてる。
「最後に“骨付き柔煮”。火を一指下げて長い湯気に」
大鍋の蓋を開けると、骨からほろりと外れた肉が揺れた。湯気の輪郭が深く、やさしい。私は柄杓で骨際をすくい、小鉢へ。
そのとき——鼻先に、嫌な線が走った。
古い柑根。しかも刻みが荒く、油が酸化している。風の矢印の外側、柱影にひっそりと。
「王子、半歩、風下」
「了解」
「グラド、“耳の布”を右列へ」
「取った」
私は鍋の位置を台座のガイドに沿って滑らせ、湯気の輪郭を立て直す。同時に“沈黙小鉢”を二つ、柱の影へそっと差し出した。
「忙しいので手短に。どうぞ」
布越しに影がびくりと動き、両手が現れる。指の節に油、爪に灰——旧棚の手。ひと口すすった瞬間、肩の力が抜ける音がした。
「……腹が、落ちる」
「名前はあとで。器はその場に」
器が戻るのを見届け、私は合図の香をもう一度——ではない。規則は一度だけ。代わりに、湯気の高さをほんの指先ぶん上げた。胸の奥に、ふっと灯る火加減。
すぐに、広間の空気が再び穏やかに整った。
「——以上です」
私は柄杓を置き、深く一礼した。
沈黙。紙の音。銀の鐘が、二度。
「よろしい」
使者バライルが立ち上がる。目尻が細い笑いになる。
「本日の予備審、合格。明朝、陛下の御前で本審を行う。献立の順は今のまま。但し一点」
「一点?」
「陛下は“舌に封”を受けておられる。強い辛味と濃い甘味が届きにくい。香りと温度で道を作れ」
胸の奥で、女神の匙がふっと温かくなった。——香りと温度。道はある。
「承知しました。焦がさず、熱だけで“橋”を掛けます」
「腹で話せ」
「腹で、話します」
グラドがわずかに口角を上げ、王子が親指を立てた。リサは“沈黙小鉢”の数をそっと数え直している。落とした分、補充しようという顔だ。いい子。
---
退出後の回廊。窓から差す夕陽が、床石に長い筋を描いていた。
「辛味と甘味が届きにくい、か」
王子が低く呟く。
「じゃあ、“出汁”と“温度”と“噛む時間”。香りの梯子で運びます」
「梯子?」
「高いところへは一段ずつ。強い甘味は避ける代わりに、穀の甘さを“噛ませる”。辛味は香りで輪郭だけを描く。温度は——胸の高さで長く」
「言葉がもう料理だな」
「料理しかできませんから」
いつもの台詞に、王子は少しだけ笑った。
---
宿に戻り、私は“香りの地図・香の間版”を引き直す。通風孔の高さ、陛下の椅子の位置、扇の角度。余白に小さく、こう書いた。
――舌に封:香りと温度で“迂回路”。
《ステータス》を開く。
《料理 24/鑑定 8/嗅覚強化 8/段取り最適化 8/火加減制御 7→8(状況対応:小上昇)》
「上がった。……でも、まだ足りない」
「十分以上だ」
戸口にもたれたグラドが短く言う。
「明朝、蓋をどれだけずらす」
「三分の一。音だけ逃がして、熱は保つ」
「いい。俺の鼻は鈍いが、焦げの初手には強い」
「頼りにしてます」
グラドが去ったあと、私は無限収納から小瓶を一つ取り出した。地球の台所から連れてきた、鰹と昆布の香り袋。——直接は使わない。けれど、思い出すために嗅ぐ。
鼻の奥がきゅっとなり、胸の真ん中がじんわり温かくなる。家の味。帰る場所の匂い。
「明日、腹で話そう。——焦がさず、橋を掛ける」
女神の匙が、また優しく温かくなった。まるで、「大丈夫」と言ってくれているみたいに。
灯りを落とす。湯気の高さは胸。旗は低い。香りは——橋。
「入室は四名まで。火は二口まで。合図の香は一度だけ」
使者バライルが銀の鐘を指先で転がし、規則をさらりと唱える。
「了解。旗は低く、湯気は胸の高さに」
私とセイル王子、グラド、副仕込みのリサの四人で台座に立った。床石の目に沿って小さな“風の矢印”が刻まれている。うん、香りの地図が描きやすい。
「始める」
鐘が一度、涼しく鳴る。私は《火加減制御》を開き、主火を一指ぶん、補助火を半指ぶん上げた。
「最初は“橋の雑穀粥”。間合いは十息」
「承知」
炊き上がりの粥を柄杓でひと口分、小鉢へ落とす。湯気は胸の高さで丸く広がり、広間のざわめきがすっと浅くなる。
「沈黙の間、入ります」
私は合図の香を一度だけ焚いた。やわらかな甘さが、石壁と高窓の間を一巡して戻ってくる。椅子の軋む音が消え、人の呼吸だけが聴こえる。
「——っ」
誰かのお腹が、ぽん、と鳴った。グラドがわずかに咳払いで被せ、王子が肩を震わせる。私は小鉢をもう一つ、さりげなくその方向へ。
「続いて“和薬茶漬け”。塩は外交量で」
「小鍋、温度安定」
リサの声が心地よい。刻んだ香葉と和薬の素をさっと湯にくぐらせ、ごはんの上からかける。鼻腔がすーっと広がる香り。
最前列の女官が一口すすると、目尻の皺がほどけた。
「胸の奥が、静かに温かい……」
「戦のあと、喧嘩の前、話し合いの最中にも、邪魔にならない一椀です」
私の声に、背後で紙をめくる音。審査の筆記官たちだろう。《鑑定眼》をそっと細める。
《精神安定:中/敵意:減衰/集中:持続》
よし、火は生きてる。
「三皿目、“香葉の蒸し団子”——間合いは五息短く」
「了解」
蒸籠の蓋を半分だけずらす。湯気が短く立ち、香葉の青い香りが軽やかに跳ねる。私は団子を割り、塩を一粒だけ触れた。
「……塩が、喧嘩を忘れさせる」
審査席の老魔がぽつりと呟く。うん、届いてる。
「最後に“骨付き柔煮”。火を一指下げて長い湯気に」
大鍋の蓋を開けると、骨からほろりと外れた肉が揺れた。湯気の輪郭が深く、やさしい。私は柄杓で骨際をすくい、小鉢へ。
そのとき——鼻先に、嫌な線が走った。
古い柑根。しかも刻みが荒く、油が酸化している。風の矢印の外側、柱影にひっそりと。
「王子、半歩、風下」
「了解」
「グラド、“耳の布”を右列へ」
「取った」
私は鍋の位置を台座のガイドに沿って滑らせ、湯気の輪郭を立て直す。同時に“沈黙小鉢”を二つ、柱の影へそっと差し出した。
「忙しいので手短に。どうぞ」
布越しに影がびくりと動き、両手が現れる。指の節に油、爪に灰——旧棚の手。ひと口すすった瞬間、肩の力が抜ける音がした。
「……腹が、落ちる」
「名前はあとで。器はその場に」
器が戻るのを見届け、私は合図の香をもう一度——ではない。規則は一度だけ。代わりに、湯気の高さをほんの指先ぶん上げた。胸の奥に、ふっと灯る火加減。
すぐに、広間の空気が再び穏やかに整った。
「——以上です」
私は柄杓を置き、深く一礼した。
沈黙。紙の音。銀の鐘が、二度。
「よろしい」
使者バライルが立ち上がる。目尻が細い笑いになる。
「本日の予備審、合格。明朝、陛下の御前で本審を行う。献立の順は今のまま。但し一点」
「一点?」
「陛下は“舌に封”を受けておられる。強い辛味と濃い甘味が届きにくい。香りと温度で道を作れ」
胸の奥で、女神の匙がふっと温かくなった。——香りと温度。道はある。
「承知しました。焦がさず、熱だけで“橋”を掛けます」
「腹で話せ」
「腹で、話します」
グラドがわずかに口角を上げ、王子が親指を立てた。リサは“沈黙小鉢”の数をそっと数え直している。落とした分、補充しようという顔だ。いい子。
---
退出後の回廊。窓から差す夕陽が、床石に長い筋を描いていた。
「辛味と甘味が届きにくい、か」
王子が低く呟く。
「じゃあ、“出汁”と“温度”と“噛む時間”。香りの梯子で運びます」
「梯子?」
「高いところへは一段ずつ。強い甘味は避ける代わりに、穀の甘さを“噛ませる”。辛味は香りで輪郭だけを描く。温度は——胸の高さで長く」
「言葉がもう料理だな」
「料理しかできませんから」
いつもの台詞に、王子は少しだけ笑った。
---
宿に戻り、私は“香りの地図・香の間版”を引き直す。通風孔の高さ、陛下の椅子の位置、扇の角度。余白に小さく、こう書いた。
――舌に封:香りと温度で“迂回路”。
《ステータス》を開く。
《料理 24/鑑定 8/嗅覚強化 8/段取り最適化 8/火加減制御 7→8(状況対応:小上昇)》
「上がった。……でも、まだ足りない」
「十分以上だ」
戸口にもたれたグラドが短く言う。
「明朝、蓋をどれだけずらす」
「三分の一。音だけ逃がして、熱は保つ」
「いい。俺の鼻は鈍いが、焦げの初手には強い」
「頼りにしてます」
グラドが去ったあと、私は無限収納から小瓶を一つ取り出した。地球の台所から連れてきた、鰹と昆布の香り袋。——直接は使わない。けれど、思い出すために嗅ぐ。
鼻の奥がきゅっとなり、胸の真ん中がじんわり温かくなる。家の味。帰る場所の匂い。
「明日、腹で話そう。——焦がさず、橋を掛ける」
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