『異世界ごはん、はじめました!』 ~料理研究家は転生先でも胃袋から世界を救う~

チャチャ

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第5章地球と異世界、二つの台所と再会の味

第26話 内庭の家族鍋、火を分ける順番

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 翌朝。魔都城の内庭。小川が石を撫で、柳が風をほどく。私は夜のうちに描いた「香りの地図」を広げ、火床三つの位置を指で確かめた。
 ——旗は低く、湯気は胸の高さ。十拍は真ん中。

「結衣、川風は南西。香りは右回り。火加減、手前は“子ども鍋”で」

「了解。左が“祖母鍋”、奥が“主鍋”。——ぷりんは日陰に二十」

 グラドが大鍋を肩に担いで現れ、そっと置く。

「護衛線は薄く見せる。……耳の鍋、合図は任せろ」

「頼りにしてます」

 火を入れ、野菜の下処理。モゴイ芋は角を落とし、ナミロ玉は甘みが出るまでゆっくり。肉団子は“子ども鍋”用に塩を弱く、香はあとから。握りは二口サイズで、角のない丸。

 小川の橋の向こうに、控えの楽が小さく鳴る。黒衣の使いが進み出て、短く告げた。

「——御前。ご家族と共に」

 現れたのは、昨日の外套の“彼”。今日は裾を短くして動きやすい装いだ。その後ろに、角飾りを品よく結んだ女性、杖をつく大きな祖母、腕を組んだ年頃の娘、そして眠たげな幼子を抱いた侍女。護衛は距離を置き、空気は張りつめて、けれど——小川の音が緊張をほどく。

「本日は“家族の鍋”です。——家族の順番でお迎えします」

 私は耳の鍋を“トン”。十拍。湯気が胸の高さで丸くなる。

「まずは“子ども鍋”。——どうぞ」

 侍女が幼子の器を受け取り、一口。ほっと息が漏れる。

「……飲んだら、目がやさしくなった」

「甘みは根っこ、塩は耳たぶ。喧嘩をしない配合です」

 年頃の娘が半歩よってきて、鍋を覗き込む。

「玉ねぎ、きらい」

「大丈夫。これは“ナミロ玉”。香りは甘く、泣かない玉ねぎの親戚」

「……泣かない?」

「試しに、十拍だけ鼻で味わってみる?」

 私は小皿にほんの少しだけすくい、差し出す。娘は鼻先を近づけ、ゆっくり吸い込む。十拍。
 おそるおそる一口——目尻が、少しだけほどけた。

「泣かない……かも」

「泣きたい日は、ぷりんが手伝うから」

 祖母が杖で“トン”。鍋の音を値踏みするように、私を見る。

「塩、弱い」

「はい。祖母鍋は“手前で塩、奥で甘み”。——お好みなら、角のある塩を一粒だけ」

「角のある塩?」

「海の塩。角があるぶん、言い分が通りやすい」

「ほう……」
 祖母は角塩をつまみ、舌にのせる。頷き、鍋をひと混ぜして返す。

「よかろう。火は、わしが見る」

「お願いします。火見番がいる家は、焦げません」

 外套の“彼”が静かに笑った。袖の奥で親指がわずかに立つ。家族の輪が一歩、鍋へ近づいた。

 私は主鍋の蓋を少し開け、香葉油をひとかけ。湯気が丸さを増す。

「御前、どうぞ。——家の順番で」

「では、子から」

 彼は家族の器が満ちるのを見届け、最後に自分の椀を受け取る。ひと口。十拍。
 頬の影が、わずかにほどけた。

「……帰った気がする」

「ようこそ。今日は、あなたの家の台所です」

 そのとき。橋の向こうから、砂を蹴る足音。
 黒衣の使いが振り返り、眉をひそめる。
 走ってくる細身の青年が、両手を上げて叫んだ。

「記録官カーディンの代理です! 王都より通達——“旧在庫の手順、暫定版”。本日から市場でも適用!」

「早い」
 私は器を置き、紙束を受け取る。図の余白は大きく、書き足せるよう余白が生きている。

「御前、王都も“家庭”に寄ってきています。——穴は塞げます」

「よい。市場の掟に“十拍”を入れろ」

「承知」

 娘が結衣の袖をつつく。

「さっきの……“鼻で味わう”の、家でもやっていい?」

「もちろん。十拍がむずかしければ、五拍でも」

「五拍なら、できる」

「できたら、ぷりん一口」

「やる!」

 笑いが湧き、丸い湯気が一段やわらぐ。
 私は握りを配り、祖母に火を預け、御前の器をもう一度満たした——その瞬間だった。

 空気が、ひと筋だけ変わった。
 ——金属でも香木でもない。薄いビニールと保冷剤の匂い。

「師匠、いまの匂い……」

「うん。——地球の、台所」

 内庭の奥、観音扉の隙間がきらりと光り、細い影が一歩、二歩。
 手に持つのは銀色の保冷バッグ。肩から下げたのは、地球の街で見た布トート。

「す、すみません! 配送の方に“ここで合ってます”って言われて——」

 短い前髪、見覚えのある瞳。
 私は柄杓を胸に当て、喉の奥から名前が出るのを、十拍でやっと抑えた。

「……凛?」

「先生——カスミ先生、ですよね!」

 結衣が吸い込んだ息を落とし、目を丸くする。
 御前の家族が思わず一歩、私の背に身を寄せる。護衛の手がわずかに柄に触れる。
 私は耳の鍋を“トン”。十拍。湯気を胸の高さで保つ。

「落ち着いて。——いま、家の鍋の最中。順番で歓迎します」

「は、はいっ。これ、約束の“あれ”、持ってきました!」

 凛が保冷バッグを掲げる。角も翼もない手。けれど、その震えは、長い道のりを越えてきた手の震えだ。

「御前」
 私は振り返り、正面から告げる。

「“家族の鍋”は、家族が増えることがあります。——今日、私の“家族”が一人、着きました」

 外套の男はほんの少し、目を細めた。
 そして、短く頷く。

「ならば席を。——家は、増えるものだ」

「ありがとうございます」

 私は凛に小さな握りを渡し、笑う。

「十拍、鼻で味わって。——泣いたら、ぷりんを一口」

「先生、泣かせにきてる……!」

 笑いが弾け、内庭の風が丸くなる。
 旗は低く、湯気は胸の高さ。
 “家族の鍋”は、焦がさずに——ひとり、またひとりと、席を増やしていく。

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