『異世界ごはん、はじめました!』 ~料理研究家は転生先でも胃袋から世界を救う~

チャチャ

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第5章地球と異世界、二つの台所と再会の味

第25話 十拍の静寂、帰り道の一杯

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 午後。大市の鼓が二つ鳴り、香路の風が南から回りはじめた。
 私たちの屋台は火床を一つ増やし、浅鍋に“帰り道飯”の段取りを敷く。残り汁を伸ばし、握り飯を落とし、香葉を刻む。耳の鍋は卓の端——合図の位置。

「十拍の前の十拍、用意いい?」

「はい、合図は師匠。“トン”一回で静まります」
 結衣が冊子『鍋の約束・初級編』を胸に抱えうなずく。

「グラド、列の肩、揉みすぎないでね。揉むと喧嘩になるから」

「心得た。肩は見守る」

 黒衣の使いが人波を割って近づく。

「間もなく鐘。——“辛哭族”は南列だ。香を刺すな」

「刺しません。湯気は胸の高さ」

 私は耳の鍋をわずかに傾ける。

 “トン”。

 音が砂に吸われるように、小さく広がり、通りのざわめきが一層だけ薄くなる。
 深呼吸一つ。浅鍋の縁に“香ばし一滴”。湯気が丸くなった。

 高台の鐘が一度だけ鳴り、鼓が三つ、止む。
 静寂——十拍。

 一、二、三——。
 子どもの足音が止まり、行商の掛け声が喉でほどける。
 七、八、九——。
 私は杓子を胸に当て、最後の一拍で口を開いた。

「“帰り道飯”、はじめます」

 匙が走る。
 崩した握りに汁が染み、香葉が湯気の中でひらりと揺れる。

「帰りを急ぐ人、先にどうぞ。——並びはそのまま、旗は低く」

 最初に歩み出たのは、額に布を巻いた荷運びの青年。
 両手で器を受け、ふうと吹き、すする。

「……うまい。噛まなくても、腹が“帰る”」

「家の方向に湯気を向けて食べると、もっと帰れます」

 青年は器を少し傾け、笑った。

 南列、“辛哭族”の老婦が小さく手を上げた。
 角は短く、目尻に光。私は塩の指を一度だけ見せ、香袋をたたむ——“香は後から”の合図。

「お待たせしました。塩で先に、香りは半歩あとから」

 老婦は一口すすって、ほう、と目を細める。
 頬を伝う涙は辛さの涙ではなく、ゆるむ涙だった。

「泣くのは、帰っているからだよ」

「はい。——おかえりなさい」

 通りの空気が、ゆっくりと重さを変える。
 人が前へ押さない。肩が当たっても、十拍を思い出すように一度止まる。
 耳の鍋が、時折“トン”。湯気は胸の高さを保ったまま。

 そこへ——昼前に啖呵を切った香辛料屋の親方が、赤い粉袋を小脇に抱え、わざとらしく咳払いをした。

「“別添え”は、今日はどこに置く?」

「あなたの右手の高さ、胸の前。——主役の高さです」

「へっ。わかってるじゃねぇか」

 親方は別添え皿に粉をほんのひとつまみ落とし、横の兵士に渡した。

「お前、今日は“主役”を自分で足しな。帰り道でもな」

 兵士は照れ笑いしながら頷く。親方は私に目だけで合図をよこし、粉袋を少し掲げた。
 ありがとう、と私は指先で丸を作る。敵だった辛味が、橋の上で案内役になっている。

「師匠、左列に小さな火種」
 結衣がそっと耳打ちした。
 見ると、瓶を隠し持った若い男二人、香路と逆の風向きに立っている。瓶は……“刺激油”。香を刺すやつだ。

「耳の鍋、二指。十拍、小さく」

 “トン……トン”。

 私は“橋の雑穀粥”を二椀、男たちの前に置いた。

「味見、お願いします。瓶は地面。手は空に」

「オ、オレたちは……」

「急ぎの帰り道なら、なおさら。——腹で判断して」

 躊躇い、そして一口。
 肩の力が抜け、瓶が地面にとんと置かれる。

「……これ、邪魔になるな」

「はい。あなたの帰り道には要りません」

 黒衣の使いがいつの間にか背後に立っていた。
 何も言わず、瓶を拾い上げ、目だけで礼をする。

 配り終わり、鍋の底が見えはじめた頃——
 高台の幕がふいに揺れ、外套の“彼”の影が一瞬だけ現れて、親指を小さく立てた。
 誰も気づかないほどの仕草。けれど火床の熱が、一段やさしくなる。

「結衣、最後の十椀、門番と荷受け場へ。——残りは“家族の分”」

「了解。ぷりんは?」

「“沈黙の間”に二口だけ。騒いだら一口減るからね」

「みんな、静かになるやつ!」

 笑いが起き、子どもたちが指を口に当てる。
 十拍。ぷりん。笑顔。

 片付けに入ると、香路の端から白い外套の男が走ってきた。
 ——カーディン。王都の記録官だ。肩で息をし、封筒を差し出す。

「間に合った……! “旧在庫”の洗い出し、第一次報告。
 不正の香りは、半分以上“手癖”じゃなかった。——“手順の穴”だったんだ」

「穴は塞げます。——手順、明朝に送って。図にします」

「頼む。……それと、あの粥、また食いたい」

「帰り道は、王都にもあります」

 カーディンが笑い、また走る。
 私の胸の中に、二つの湯気が重なる。王都と魔都。
 どちらも、家に帰るための道。

 夕刻。
 使いが最後の確認に来る。

「明後日、“家族の鍋”。内庭の小川のほとりだ。火床は三つ。——焦がすな」

「焦がしません。旗は低く、湯気は胸の高さ。十拍は守ります」

「それでいい」

 使いは珍しく口元で笑い、去っていった。

 火を落とし、耳の鍋を布で包む。
 結衣が小さく手を振る。

「師匠、今日の“ステータス”、絶対上がってますよ」

「見ない。——見ると、焦げるから」

「ふふ、明日の朝にしましょ」

「うん。明日は“地図”だ。小川の風、木立の渦。——家族の鍋は、焦がせない」

 香路の風が夜に変わる。
 旗は低く、湯気は胸の高さ。
 帰り道の匂いが、街の角で丸くなっていた。

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