78 / 99
第5章地球と異世界、二つの台所と再会の味
第25話 十拍の静寂、帰り道の一杯
しおりを挟む
午後。大市の鼓が二つ鳴り、香路の風が南から回りはじめた。
私たちの屋台は火床を一つ増やし、浅鍋に“帰り道飯”の段取りを敷く。残り汁を伸ばし、握り飯を落とし、香葉を刻む。耳の鍋は卓の端——合図の位置。
「十拍の前の十拍、用意いい?」
「はい、合図は師匠。“トン”一回で静まります」
結衣が冊子『鍋の約束・初級編』を胸に抱えうなずく。
「グラド、列の肩、揉みすぎないでね。揉むと喧嘩になるから」
「心得た。肩は見守る」
黒衣の使いが人波を割って近づく。
「間もなく鐘。——“辛哭族”は南列だ。香を刺すな」
「刺しません。湯気は胸の高さ」
私は耳の鍋をわずかに傾ける。
“トン”。
音が砂に吸われるように、小さく広がり、通りのざわめきが一層だけ薄くなる。
深呼吸一つ。浅鍋の縁に“香ばし一滴”。湯気が丸くなった。
高台の鐘が一度だけ鳴り、鼓が三つ、止む。
静寂——十拍。
一、二、三——。
子どもの足音が止まり、行商の掛け声が喉でほどける。
七、八、九——。
私は杓子を胸に当て、最後の一拍で口を開いた。
「“帰り道飯”、はじめます」
匙が走る。
崩した握りに汁が染み、香葉が湯気の中でひらりと揺れる。
「帰りを急ぐ人、先にどうぞ。——並びはそのまま、旗は低く」
最初に歩み出たのは、額に布を巻いた荷運びの青年。
両手で器を受け、ふうと吹き、すする。
「……うまい。噛まなくても、腹が“帰る”」
「家の方向に湯気を向けて食べると、もっと帰れます」
青年は器を少し傾け、笑った。
南列、“辛哭族”の老婦が小さく手を上げた。
角は短く、目尻に光。私は塩の指を一度だけ見せ、香袋をたたむ——“香は後から”の合図。
「お待たせしました。塩で先に、香りは半歩あとから」
老婦は一口すすって、ほう、と目を細める。
頬を伝う涙は辛さの涙ではなく、ゆるむ涙だった。
「泣くのは、帰っているからだよ」
「はい。——おかえりなさい」
通りの空気が、ゆっくりと重さを変える。
人が前へ押さない。肩が当たっても、十拍を思い出すように一度止まる。
耳の鍋が、時折“トン”。湯気は胸の高さを保ったまま。
そこへ——昼前に啖呵を切った香辛料屋の親方が、赤い粉袋を小脇に抱え、わざとらしく咳払いをした。
「“別添え”は、今日はどこに置く?」
「あなたの右手の高さ、胸の前。——主役の高さです」
「へっ。わかってるじゃねぇか」
親方は別添え皿に粉をほんのひとつまみ落とし、横の兵士に渡した。
「お前、今日は“主役”を自分で足しな。帰り道でもな」
兵士は照れ笑いしながら頷く。親方は私に目だけで合図をよこし、粉袋を少し掲げた。
ありがとう、と私は指先で丸を作る。敵だった辛味が、橋の上で案内役になっている。
「師匠、左列に小さな火種」
結衣がそっと耳打ちした。
見ると、瓶を隠し持った若い男二人、香路と逆の風向きに立っている。瓶は……“刺激油”。香を刺すやつだ。
「耳の鍋、二指。十拍、小さく」
“トン……トン”。
私は“橋の雑穀粥”を二椀、男たちの前に置いた。
「味見、お願いします。瓶は地面。手は空に」
「オ、オレたちは……」
「急ぎの帰り道なら、なおさら。——腹で判断して」
躊躇い、そして一口。
肩の力が抜け、瓶が地面にとんと置かれる。
「……これ、邪魔になるな」
「はい。あなたの帰り道には要りません」
黒衣の使いがいつの間にか背後に立っていた。
何も言わず、瓶を拾い上げ、目だけで礼をする。
配り終わり、鍋の底が見えはじめた頃——
高台の幕がふいに揺れ、外套の“彼”の影が一瞬だけ現れて、親指を小さく立てた。
誰も気づかないほどの仕草。けれど火床の熱が、一段やさしくなる。
「結衣、最後の十椀、門番と荷受け場へ。——残りは“家族の分”」
「了解。ぷりんは?」
「“沈黙の間”に二口だけ。騒いだら一口減るからね」
「みんな、静かになるやつ!」
笑いが起き、子どもたちが指を口に当てる。
十拍。ぷりん。笑顔。
片付けに入ると、香路の端から白い外套の男が走ってきた。
——カーディン。王都の記録官だ。肩で息をし、封筒を差し出す。
「間に合った……! “旧在庫”の洗い出し、第一次報告。
不正の香りは、半分以上“手癖”じゃなかった。——“手順の穴”だったんだ」
「穴は塞げます。——手順、明朝に送って。図にします」
「頼む。……それと、あの粥、また食いたい」
「帰り道は、王都にもあります」
カーディンが笑い、また走る。
私の胸の中に、二つの湯気が重なる。王都と魔都。
どちらも、家に帰るための道。
夕刻。
使いが最後の確認に来る。
「明後日、“家族の鍋”。内庭の小川のほとりだ。火床は三つ。——焦がすな」
「焦がしません。旗は低く、湯気は胸の高さ。十拍は守ります」
「それでいい」
使いは珍しく口元で笑い、去っていった。
火を落とし、耳の鍋を布で包む。
結衣が小さく手を振る。
「師匠、今日の“ステータス”、絶対上がってますよ」
「見ない。——見ると、焦げるから」
「ふふ、明日の朝にしましょ」
「うん。明日は“地図”だ。小川の風、木立の渦。——家族の鍋は、焦がせない」
香路の風が夜に変わる。
旗は低く、湯気は胸の高さ。
帰り道の匂いが、街の角で丸くなっていた。
私たちの屋台は火床を一つ増やし、浅鍋に“帰り道飯”の段取りを敷く。残り汁を伸ばし、握り飯を落とし、香葉を刻む。耳の鍋は卓の端——合図の位置。
「十拍の前の十拍、用意いい?」
「はい、合図は師匠。“トン”一回で静まります」
結衣が冊子『鍋の約束・初級編』を胸に抱えうなずく。
「グラド、列の肩、揉みすぎないでね。揉むと喧嘩になるから」
「心得た。肩は見守る」
黒衣の使いが人波を割って近づく。
「間もなく鐘。——“辛哭族”は南列だ。香を刺すな」
「刺しません。湯気は胸の高さ」
私は耳の鍋をわずかに傾ける。
“トン”。
音が砂に吸われるように、小さく広がり、通りのざわめきが一層だけ薄くなる。
深呼吸一つ。浅鍋の縁に“香ばし一滴”。湯気が丸くなった。
高台の鐘が一度だけ鳴り、鼓が三つ、止む。
静寂——十拍。
一、二、三——。
子どもの足音が止まり、行商の掛け声が喉でほどける。
七、八、九——。
私は杓子を胸に当て、最後の一拍で口を開いた。
「“帰り道飯”、はじめます」
匙が走る。
崩した握りに汁が染み、香葉が湯気の中でひらりと揺れる。
「帰りを急ぐ人、先にどうぞ。——並びはそのまま、旗は低く」
最初に歩み出たのは、額に布を巻いた荷運びの青年。
両手で器を受け、ふうと吹き、すする。
「……うまい。噛まなくても、腹が“帰る”」
「家の方向に湯気を向けて食べると、もっと帰れます」
青年は器を少し傾け、笑った。
南列、“辛哭族”の老婦が小さく手を上げた。
角は短く、目尻に光。私は塩の指を一度だけ見せ、香袋をたたむ——“香は後から”の合図。
「お待たせしました。塩で先に、香りは半歩あとから」
老婦は一口すすって、ほう、と目を細める。
頬を伝う涙は辛さの涙ではなく、ゆるむ涙だった。
「泣くのは、帰っているからだよ」
「はい。——おかえりなさい」
通りの空気が、ゆっくりと重さを変える。
人が前へ押さない。肩が当たっても、十拍を思い出すように一度止まる。
耳の鍋が、時折“トン”。湯気は胸の高さを保ったまま。
そこへ——昼前に啖呵を切った香辛料屋の親方が、赤い粉袋を小脇に抱え、わざとらしく咳払いをした。
「“別添え”は、今日はどこに置く?」
「あなたの右手の高さ、胸の前。——主役の高さです」
「へっ。わかってるじゃねぇか」
親方は別添え皿に粉をほんのひとつまみ落とし、横の兵士に渡した。
「お前、今日は“主役”を自分で足しな。帰り道でもな」
兵士は照れ笑いしながら頷く。親方は私に目だけで合図をよこし、粉袋を少し掲げた。
ありがとう、と私は指先で丸を作る。敵だった辛味が、橋の上で案内役になっている。
「師匠、左列に小さな火種」
結衣がそっと耳打ちした。
見ると、瓶を隠し持った若い男二人、香路と逆の風向きに立っている。瓶は……“刺激油”。香を刺すやつだ。
「耳の鍋、二指。十拍、小さく」
“トン……トン”。
私は“橋の雑穀粥”を二椀、男たちの前に置いた。
「味見、お願いします。瓶は地面。手は空に」
「オ、オレたちは……」
「急ぎの帰り道なら、なおさら。——腹で判断して」
躊躇い、そして一口。
肩の力が抜け、瓶が地面にとんと置かれる。
「……これ、邪魔になるな」
「はい。あなたの帰り道には要りません」
黒衣の使いがいつの間にか背後に立っていた。
何も言わず、瓶を拾い上げ、目だけで礼をする。
配り終わり、鍋の底が見えはじめた頃——
高台の幕がふいに揺れ、外套の“彼”の影が一瞬だけ現れて、親指を小さく立てた。
誰も気づかないほどの仕草。けれど火床の熱が、一段やさしくなる。
「結衣、最後の十椀、門番と荷受け場へ。——残りは“家族の分”」
「了解。ぷりんは?」
「“沈黙の間”に二口だけ。騒いだら一口減るからね」
「みんな、静かになるやつ!」
笑いが起き、子どもたちが指を口に当てる。
十拍。ぷりん。笑顔。
片付けに入ると、香路の端から白い外套の男が走ってきた。
——カーディン。王都の記録官だ。肩で息をし、封筒を差し出す。
「間に合った……! “旧在庫”の洗い出し、第一次報告。
不正の香りは、半分以上“手癖”じゃなかった。——“手順の穴”だったんだ」
「穴は塞げます。——手順、明朝に送って。図にします」
「頼む。……それと、あの粥、また食いたい」
「帰り道は、王都にもあります」
カーディンが笑い、また走る。
私の胸の中に、二つの湯気が重なる。王都と魔都。
どちらも、家に帰るための道。
夕刻。
使いが最後の確認に来る。
「明後日、“家族の鍋”。内庭の小川のほとりだ。火床は三つ。——焦がすな」
「焦がしません。旗は低く、湯気は胸の高さ。十拍は守ります」
「それでいい」
使いは珍しく口元で笑い、去っていった。
火を落とし、耳の鍋を布で包む。
結衣が小さく手を振る。
「師匠、今日の“ステータス”、絶対上がってますよ」
「見ない。——見ると、焦げるから」
「ふふ、明日の朝にしましょ」
「うん。明日は“地図”だ。小川の風、木立の渦。——家族の鍋は、焦がせない」
香路の風が夜に変わる。
旗は低く、湯気は胸の高さ。
帰り道の匂いが、街の角で丸くなっていた。
20
あなたにおすすめの小説
辺境貴族ののんびり三男は魔道具作って自由に暮らします
雪月夜狐
ファンタジー
書籍化決定しました!
(書籍化にあわせて、タイトルが変更になりました。旧題は『辺境伯家ののんびり発明家 ~異世界でマイペースに魔道具開発を楽しむ日々~』です)
壮年まで生きた前世の記憶を持ちながら、気がつくと辺境伯家の三男坊として5歳の姿で異世界に転生していたエルヴィン。彼はもともと物作りが大好きな性格で、前世の知識とこの世界の魔道具技術を組み合わせて、次々とユニークな発明を生み出していく。
辺境の地で、家族や使用人たちに役立つ便利な道具や、妹のための可愛いおもちゃ、さらには人々の生活を豊かにする新しい魔道具を作り上げていくエルヴィン。やがてその才能は周囲の人々にも認められ、彼は王都や商会での取引を通じて新しい人々と出会い、仲間とともに成長していく。
しかし、彼の心にはただの「発明家」以上の夢があった。この世界で、誰も見たことがないような道具を作り、貴族としての責任を果たしながら、人々に笑顔と便利さを届けたい——そんな野望が、彼を新たな冒険へと誘う。
異世界へ誤召喚されちゃいました 女神の加護でほのぼのスローライフ送ります
モーリー
ファンタジー
⭐︎第4回次世代ファンタジーカップ16位⭐︎
飛行機事故で両親が他界してしまい、社会人の長男、高校生の長女、幼稚園児の次女で生きることになった御剣家。
保険金目当てで寄ってくる奴らに嫌気がさしながらも、3人で支え合いながら生活を送る日々。
そんな矢先に、3人揃って異世界に召喚されてしまった。
召喚特典として女神たちが加護やチート能力を与え、異世界でも生き抜けるようにしてくれた。
強制的に放り込まれた異世界。
知らない土地、知らない人、知らない世界。
不安をはねのけながら、時に怖い目に遭いながら、3人で異世界を生き抜き、平穏なスローライフを送る。
そんなほのぼのとした物語。
異世界転生したので森の中で静かに暮らしたい
ボナペティ鈴木
ファンタジー
異世界に転生することになったが勇者や賢者、チート能力なんて必要ない。
強靭な肉体さえあれば生きていくことができるはず。
ただただ森の中で静かに暮らしていきたい。
【完結】前世の不幸は神様のミスでした?異世界転生、条件通りなうえチート能力で幸せです
yun.
ファンタジー
~タイトル変更しました~
旧タイトルに、もどしました。
日本に生まれ、直後に捨てられた。養護施設に暮らし、中学卒業後働く。
まともな職もなく、日雇いでしのぐ毎日。
劣悪な環境。上司にののしられ、仲のいい友人はいない。
日々の衣食住にも困る。
幸せ?生まれてこのかた一度もない。
ついに、死んだ。現場で鉄パイプの下敷きに・・・
目覚めると、真っ白な世界。
目の前には神々しい人。
地球の神がサボった?だから幸せが1度もなかったと・・・
短編→長編に変更しました。
R4.6.20 完結しました。
長らくお読みいただき、ありがとうございました。
現代知識と木魔法で辺境貴族が成り上がる! ~もふもふ相棒と最強開拓スローライフ~
はぶさん
ファンタジー
木造建築の設計士だった主人公は、不慮の事故で異世界のド貧乏男爵家の次男アークに転生する。「自然と共生する持続可能な生活圏を自らの手で築きたい」という前世の夢を胸に、彼は規格外の「木魔法」と現代知識を駆使して、貧しい村の開拓を始める。
病に倒れた最愛の母を救うため、彼は建築・農業の知識で生活環境を改善し、やがて森で出会ったもふもふの相棒ウルと共に、村を、そして辺境を豊かにしていく。
これは、温かい家族と仲間に支えられ、無自覚なチート能力で無理解な世界を見返していく、一人の青年の最強開拓物語である。
別作品も掲載してます!よかったら応援してください。
おっさん転生、相棒はもふもふ白熊。100均キャンプでスローライフはじめました。
土属性を極めて辺境を開拓します~愛する嫁と超速スローライフ~
にゃーにゃ
ファンタジー
「土属性だから追放だ!」理不尽な理由で追放されるも「はいはい。おっけー」主人公は特にパーティーに恨みも、未練もなく、世界が危機的な状況、というわけでもなかったので、ササッと王都を去り、辺境の地にたどり着く。
「助けなきゃ!」そんな感じで、世界樹の少女を襲っていた四天王の一人を瞬殺。 少女にほれられて、即座に結婚する。「ここを開拓してスローライフでもしてみようか」 主人公は土属性パワーで一瞬で辺境を開拓。ついでに魔王を超える存在を土属性で作ったゴーレムの物量で圧殺。
主人公は、世界樹の少女が生成したタネを、育てたり、のんびりしながら辺境で平和にすごす。そんな主人公のもとに、ドワーフ、魚人、雪女、魔王四天王、魔王、といった亜人のなかでも一際キワモノの種族が次から次へと集まり、彼らがもたらす特産品によってドンドン村は発展し豊かに、にぎやかになっていく。
追放されたけど実は世界最強でした ~元下僕の俺、気ままに旅していたら神々に愛されてた件~
fuwamofu
ファンタジー
「お前なんか要らない」と勇者パーティから追放された青年リオ。
しかし彼は知らなかった。自分が古代最強の血筋であり、封印級スキル「創世の権能」を無意識に使いこなしていたことを。
気ままな旅の途中で救ったのは、王女、竜族、聖女、そして神。彼女たちは次々とリオに惹かれていく。
裏切った勇者たちは没落し、リオの存在はやがて全大陸を巻き込む伝説となる――。
無自覚にチートでハーレムな最強冒険譚、ここに開幕!
家ごと異世界転移〜異世界来ちゃったけど快適に暮らします〜
奥野細道
ファンタジー
都内の2LDKマンションで暮らす30代独身の会社員、田中健太はある夜突然家ごと広大な森と異世界の空が広がるファンタジー世界へと転移してしまう。
パニックに陥りながらも、彼は自身の平凡なマンションが異世界においてとんでもないチート能力を発揮することを発見する。冷蔵庫は地球上のあらゆる食材を無限に生成し、最高の鮮度を保つ「無限の食料庫」となり、リビングのテレビは異世界の情報をリアルタイムで受信・翻訳する「異世界情報端末」として機能。さらに、お風呂の湯はどんな傷も癒す「万能治癒の湯」となり、ベランダは瞬時に植物を成長させる「魔力活性化菜園」に。
健太はこれらの能力を駆使して、食料や情報を確保し、異世界の人たちを助けながら安全な拠点を築いていく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる