『異世界ごはん、はじめました!』 ~料理研究家は転生先でも胃袋から世界を救う~

チャチャ

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第5章地球と異世界、二つの台所と再会の味

第35話 大市開幕、魔王の前で旗を低く

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 魔都の大市は、朝の鐘が三つ鳴る前から息づいていた。
 屋台の帆が並木のように連なり、香りが層になって空へ昇る。花、鉄、果実、革、インク、そして遠くで揚がる油の音。私は女神の匙で風を切り、方向を確かめた。

「南西から二分。——旗は低く、湯気は胸」

 帆の結び目を胸の高さに落とし、卓に目盛り線を引く。
 ルークは看板を掲げ、家族印の下に小さく書き足した。

『十拍で並ぶ/二口で静まる/帰り道は増える』

「火、半拍下げ。——初手は“帰り道スープ”」

 麺屋が火力石を軽く叩き、鍋の音が丸く変わる。
 カーディンは三行札を束ね、《耳の鍋》を膝の上に置いた。

「黒印は?」

「対面の列、幕を畳んで来た。——旗、今日も低い」

 視線の先、昨日の男がこちらに顎を上げた。
 幕の隅に付いた印は灰に変わり、黒印ではない。
 私は小さく応え、湯気の高さをもう一度見た。胸、丸、跳ねなし。よし。

 

 鐘が三つ。
 広場の中央に、黒角の長椅子が据えられる。
 その上に、深紅の外套。金の面紐。魔王の座。

 ——場の温度が半拍、下がる。
 私は《段取り最適化》を開き、順番を胸で繰り返す。

 一、旗は低く。
 二、甘→塩→出汁の順で挨拶。
 三、十拍を忘れない。

「始めます」

 私は耳の鍋を一打。広場のざわめきが、半歩だけ揃う。

 

 最初の香は甘。
 “沈黙の間”の香だけを、匙の腹で風に撫でる。
 魔王の面紐がわずかに揺れ、椅子の背が軋む音がした。

「次、塩」

 角塩の蓋を半分だけずらし、十拍で戻す。
 喉が一斉に鳴る気配。
 私は最後に出汁を一滴、胸の高さで弾いた。

「——帰り道、一滴」

 風が変わる。
 人の足音が同じ歩幅を選び、屋台の行列が二本にそろった。

 

 司が声を張る。
「本日の“鍋比べ”。家族印一、対するは辛香隊一。
 掟は三つ——旗は低く、湯気は胸、混ぜ物は三行で示せ。違えたところでの勝敗もまた、三行で決する」

 黒角の面がこちらを向いた。
 魔王の声は低く、土の深さを持っていた。

「——腹で話せ」

 広場が一拍で静まり、息が合う。
 私は会釈し、最初の椀を取る。

「家族印、“帰り道スープ”。一椀、十拍」

 十拍で冷まし、供す。
 司の補佐が運び、魔王が一口。
 面の奥で、呼吸が半拍だけ長くなった。

「次、辛香隊」

 向かいの男が鍋を返し、湯気を胸の高さに止める。
 昨日より低い。混ぜ物の札には、三行。

『辛香:花椒/火種:唐紅/油:梔子』

 よし。痺れは、正面から来る。混ぜはない。
 魔王が辛香を一口。面紐がまた微かに揺れた。

 

 鍋は交互に出る。
 “骨付き柔煮の薄仕立て”“香葉の蒸し団子の汁”“雑穀の橋粥”。
 相手は“唐紅の浅煮”“香穂の油和え”“焦香の湯”。
 客席の声が三行ずつ札に刻まれ、帰り道の票が積まれていく。

『帰り道:家族印 5/辛香 4』
『揉め声:家族印 0/辛香 0』
『咳:家族印 0/辛香 1(改善)』

 均衡。
 私は耳の鍋を一打し、最後の一手を見やる。
 甘味は二口まで。出すなら今だ。

「“沈黙の間”を二口。——喧嘩の前に一口、後にもう一口」

 司が眉を上げる。「大市で甘味は……」

「二口まで。掟の外ではありません」

 許可が頷きで返る。
 ぷりんをわずかに冷やし、二口の匙を添えて差し出す。
 魔王の面が私へまっすぐ向き、面紐の影で、笑いの線がほんの僅かに走った気がした。

「——静まる」

 魔王の一声。
 広場の音が一息にすぼまり、すぐに戻る。
 二口は過ぎず、足りる。

 

 その時だった。
 風の裾がざわりとめくれ、焦げの匂いが斜めから刺さる。
 振り向くまでもなく、私は指で合図した。

「十拍、近づかない」

 麺屋が火を半拍落とし、ルークがぷりん札を伏せる。
 カーディンは三行を構えた。

「耳の鍋、二打」

 金の音が重なり、広場の耳がこちらへ寄る。
 焦げの出どころは、周縁の私設屋台。
 旗は高く、湯気は肩。札はなし。

「規約、三つ。——旗を低く、湯気は胸、混ぜは三行で示せ」

 司の声が鋭く走り、衛士が静かに囲む。
 屋台の主は顔色を変え、鍋を下ろした。
 噂の火は広がる前に、蓋の下で消えた。

「戻ろう」

 私は耳の鍋を一打し、湯気を丸へ戻す。
 焦げの匂いは、風に溶けていく。

 

 最終の一椀。
 私は女神の匙で一滴、出汁を弾き、魔王の面の高さに湯気を合わせた。

「“帰り道”、一滴。——焦がさず、熱だけ」

 魔王はゆっくりと頷き、椀を受けた。
 飲む音は小さく、しかしはっきりと広場に届く。
 面紐が、今度ははっきりと笑いの形に動いた。

「——腹が、帰る」

 その言葉に、広場の空気が解けた。
 拍手は起きない。代わりに、息が揃う。
 私は胸の内で十拍を数え、三行札を掲げた。

『帰り道:家族印 12/辛香 10』
『揉め声:0/0』
『焦げ噂:0/0(鎮火)』

 辛香隊の男が、肩をすくめて笑った。

「今日も負けだ。だが、同じ高さなら悔いはねぇ」

「次は一緒に鍋をしませんか。——家族印+辛香」

「はは、合印か。悪くない」

 

 司が結びを告げ、魔王が立つ。
 面紐の陰から、澄んだ声がまっすぐ落ちた。

「家族印の匙。——明朝、謁見の間に来い」

 胸が熱くなる。
 私は深く礼をし、ゆっくりと顔を上げた。

「鍋は約束。——焦がさず、参ります」

 

 片付けの最中、ルークが袖を引いた。

「カスミ、ステータス」

「今?」

「今!」

 私はそっと《ステータス》を開く。

《場制御 10(維持)/交渉 9→10(大市調停)/嗅覚強化 8→9》
《補助:甘味配分(二口最適)/新称号:大市の橋匙》

「上がった……!」

「やった!」

 麺屋が柄を鳴らし、カーディンが三行を書き付ける。

『謁見:明朝/準備:献立三手/掟:旗低・湯気胸・三行』

 私は《段取り最適化》を開き、湯気の線を三本重ねた。

 一、挨拶は“甘→塩→出汁”。
 二、献立は“橋粥→骨柔→沈黙”。
 三、十拍の間に、願いを一つ——常設鍋の条を。

「行こう」
 私は女神の匙を握り、小さく呟く。

「明日、魔王の台所へ。
 ——旗は低く、湯気は胸、焦がさず、熱だけ」

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