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あなたの正しい時間になりたい
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副島からの誘いだった永川町のホテルに行く前に、澪緒と副島は銀葉町にあるギャラリーに立ち寄る。このギャラリーは毎月様々な展示を企画していて、美術大学の学生だった頃足しげくこのギャラリーに通いトップクリエイターの作品に触れていた。
ーーいつか絶対、このギャラリーに自分の作品が展示されるレベルのデザイナーになりたい。
それは大学時代の澪緒の夢。
それが今日、ついに叶えられる。
ガラス扉を開けて階段を昇る時つい足が震える。
ギャラリーで行われているのは澪緒が担当したポップアイドル『Lustre』の展示。
歴代の衣装展の開催に合わせて、この3人組のデビューから現在までのポスターやCD、ツアーグッズの展覧会が行われていた。
過去、数々の著名な若手クリエイターが手掛けた様々な印刷物。
一番最後に、苦労して作り上げた澪緒のポスターがスポットライトで照らされていた。
たった一枚。
たった一枚だけだったけど澪緒はこの末席に自分のポスターが展示されたことを、心から嬉しく思った。
「紙と特色を使って大正解だったな」
「はい」
苦心して出した青の模様は、余白の多いデザインの中でひときわ目立っていて澪緒のポスターの前で足を止めるファンも多かった。
ーーこれ、好きかも!
目をキラキラさせてポスターを見つめながら小声で感想を言い合うファンの子たち。
普段、自分の制作物が世に出ても生の感想を聞けることはあまり無い。
初めて聞いた自分の作品への評価に澪緒の心もキラキラする。
「良かったな、澪緒」
「はい。夏目さんが特色提案してくれて命拾いしました」
「ベテランの力だな」
社の用事でこのギャラリーに来ている体裁なので、副島も気軽に澪緒に話しかけてくる。
普段なら嬉しいことだけれど澪緒は少し、柏木と来たかったなと思う。
彼に自分の作品を見てほしい。
スゴイとか、すごくないとかの感想はいらない。
ただ自分がデザイナーとして確実に足跡を残していることを柏木に知ってほしいと澪緒は思った。
隣で澪緒のポスターを満足そうに見上げる副島。
自分はまだ副島の正しい時間になりたい?
澪緒はそう自問すると、意外にも答えはYESとNOの中間だった。以前は迷うことなくYESだったのに。
どうしてだろうと理由を考える。
やっぱりこうして夢を一つ一つ叶えて自信がついてきたからだろうか。
副島のことは大好きだ。本当に、大好きだ。でもそれは尊敬するデザイナーの仲間として、気の合う年上の友人としての意味合いが濃くなってきた。
氷室部長が澪緒に対して、ようbrother!と言ってくるあの感じ。
あの感じで、副島とも一緒にいたいと思うことが多くなった。
そのくらいが振り回されなくてちょうどいいと思う。
それにーー不貞行為は、やっぱり間違ってる。
新人じゃないんだ。そろそろ仕事中に色恋沙汰で心を乱したくないし真っ当な人間でありたい。
友達以上恋人未満の男が職場にいる。たまにランチしたり。
そのくらいの関係がいい。
「澪緒、そろそろ行こうか」
「はい」
でも実際そうなったら自分が満足できるのかは、まだちょっと分からない。
ホテルに到着したのは11時。
1回ヤって、ホテル内のレストランで食事をして帰社する流れだろう。澪緒はそんなことを冷静に思う。
休日も柏木に抱かれたから今できるだろうかと思いながらジャケットを脱ぐ。
「外、暑かったな」
「はい、もう夏ですね。冷蔵庫の新作発表会のワイン、赤か白かで迷ってたけどこの感じだとキンと冷えた白の方が合うかな。副島さんどう思います?」
「白がいいんじゃないか。万が一こぼしてもシミにならないし」
「そうか。確かに記者さん立ったり座ったりして動きますもんね」
「なんか余裕だな」
「え?」
「以前は部屋に入るなり副島さん、と駆け寄ってきてキスをねだってたのに」
ベルトを外す手が止まる。
「…嫉妬ですよ。副島さん、土日家族でキャンプだったでしょ。SNSのおすすめに出てきましたよ。見たくないのに。あの機能、ホント良し悪しですよね。少し萎える」
上手に言えただろうか。
別にチェックしていたわけではない。朝の習慣でたまたま開いた写真投稿のSNSにその写真が表示されたのだ。
見た瞬間、確かにウッとなった。
でも柏木との休日を思い出すとその心臓の痛みはすぐおさまった。ベランダに麦がいなかったのは寂しかったけれど、ターコイズの首輪をつけたからどこかの家にもらわれてしまうことはないだろう。
澪緒は副島の前なのにそんなことをつらつら考えてしまう。
「澪緒は土日何してた?」
「普通です。あ、牡蠣のパスタ作りました。あとはアスパラにチーズぶっかけて焼くだけの料理したかな」
「男メシだな」
「ですね。副島さんの奥さんのようにはいかないです」
次々と服を脱いで放る。
「妻がSNSにアップする料理の中にはたまに惣菜が混じってる」
「奥さんご自身のブランディングの一環でしょう?たとえ俺相手でもネタバレしちゃダメですよ」
「澪緒」
「はい」
後ろを振り返るとすぐ抱きしめられてキスされた。
いつもの流れ。しばらくキスして、見つめ合って、ベッドに連れて行かれる。
しかし澪緒はすぐに違和感を感じる。
いつもなら無我夢中でひとつになった気がするのに。
澪緒の口の中に副島の舌が入ってきたところで違和感がピークになり身を剥がす。
こんなことは初めてで咄嗟に言い訳を考える。
どうしたんだろう。
「澪緒、どうした?」
「ふ………ろ。お風呂、入ってきていいですか」
「風呂?」
「シャワーです。あの、一回、洗いたい。汗が」
「ああ」
澪緒がデリケートな部分のことを言っている。そう副島が勝手に勘違いしてくれたおかげでなんとか間が持つ。
「待っててください」
「ゆっくりでいい」
慌ててバスルームに駆け込む。
どうした自分?と澪緒は鏡に映る自分に問いかける。
あれだけ欲していたはずの男の舌なのに、自分の口内に異物を突っ込まれたように感じた。
急いでシャワーを浴びる。
そして少しでも長くお湯を浴びようとする自分がいる。
嫌、なのか?
副島を受け入れるのが。
自分はもしかして女を好きになったのではと澪緒は考える。
いや、それはない。すぐ否定できる。
バスルームを出るとベッドの横のソファで副島が煙草を吸って待っていた。
ジャケットを脱いだだけの姿。
なぜか今、わずかに恐怖を感じる。
「澪緒」
「はい」
ベッドにお姫様のようにゆっくり寝かせられ上から副島がのしかかってくる。
いつもの流れ。
目を閉じる。男の少し硬い唇で首筋にキスされる。
バスローブに副島の手が入ってくる。
そのまま胸まで撫で上げられる。そしてーー
「待ってください」
どうしても我慢できず先に進もうとする副島を澪緒の手が制した。
この先に進めない自分に狼狽えていたが、何かを察するのは副島の方が早かった。
苦悶の表情を浮かべ、一度は澪緒のバスローブに突っ込んだ手の力を緩める。
しかしまた決心したかのように先へ進む。
「待って、副島さん、待っ」
付き合ってる以上、頑なに拒否するのは失礼だ。しかも、上司。俺だって好きな人からセックスを拒否されたら傷つく。
澪緒はそう考えるようにして、もう確信してしまった嫌悪感を握りつぶし副島を受け入れる。
窓の外に広がる都心の街並み。それを見て別のことを考えようと試みる。
別のこと。
民法770条1項1号。
休日に柏木に抱かれたこと。
一層嫌悪感が募りきつく目を閉じる。
大声で悲鳴をあげそうなのを必死にこらえた。
「澪緒」
「は…い」
「愛してる」
こんな時に。
どんなに渇望しても与えられなかった一言がこんな時にようやく放たれた。
でもそれで確信してしまった。
今の自分はもうその言葉を欲していない。
もう無理。
自分は柏木理緋都に大切にされて変わってしまった。
いや、愛されて見ないようにしていた深淵をのぞく勇気を得てしまった。
誰かを欺く。
誰かの大切な人を盗む。
孤独を恐れるあまり自分のことしか眼中にない自分。
これは自分を大切にすることとは違う。
他人の気持ちなんか考えもしない歪んだ自己愛だ。
もしかして奥さんへの精神的暴力。
ドメスティック・バイオレンスですらあるかもしれないーー。
「澪緒」
「…もう遅いです」
顔を手で覆ってベッドの上で丸くなる。
副島の体重が自分から離れ、ベッドから一人分の体温が消える。
そして今の自分が愛してるのは紛れもなく、柏木理緋都。
「柏木か」
「……」
「抱かれたな?」
「……」
「俺に飽きたか」
「飽きるわけない。副島さんのことは好きです。あなたを忘れられる日なんて一生こないでしょう」
「ならどうして」
「不貞行為はやっぱり間違ってる」
「そんなことは最初から分かっていた。俺にも理解できるように説明してくれ」
「もう誰かを欺くのが嫌なんです。最初から分かっていましたが頭で理解してたことをようやく自分のこととして考えられたんです。そして、自分が何をしているかを。だからもうダメみたいです」
「澪緒」
「別れましょう」
自然とその言葉が出た。
出た後に別れる苦しさがこみ上げて涙がにじんだ。心臓が素手で引きちぎられるような苦しみが襲った。本当に別れていいのか一瞬心が揺れたがそれでも後悔はなかった。
苦しいのは自分だけかと澪緒は思ったが、副島も同じ気持ちらしく心臓のあたりのシャツをぎゅっと握っていた。
「柏木にのりかえるからか?」
「柏木さんは俺たちの別れに微塵も関係ないです」
「ボーイフレンドなんだろ?」
「そうですね。でも柏木さんからもらったものは性愛じゃなく、民法です」
「…民法…?」
「まぁ…あと、もしかして300万」
「300万?」
「慰謝料です」
「ハッ…俺を見くびるな。可愛いお前にそんなことはさせない」
「……」
「終わりか」
「それにもう色恋沙汰で仕事中に喧嘩するのも嫌なんです。正しい大人でありたい。副島さんとは完全な良き友人でいたいんですけどそれは俺のワガママなんでしょうか」
「まだ判断できない」
副島は1ヵ月分の疲れがどっと襲ってきたような疲れた表情を浮かべ、ベッドの端に座った。
「澪緒」
副島が口を開いたと同時に、澪緒の社用のスマホがけたたましく鳴った。
着信音を変えているからさすがに副島も分かったようで澪緒に電話に出るよう目で合図する。
スマホをリュックから取り出す。
相手の名を見る。
『営業 柏木さん』
迷うことなく通話ボタンをスライドさせる。
「澁澤です」
『澪緒、緊急だ。すぐ社に戻れるか?『MINAXIS』の新作発表会の案件、他社が参入してきた。至急打ち合わせ希望だ。可能な限り早く社に戻ってくれ』
ーーいつか絶対、このギャラリーに自分の作品が展示されるレベルのデザイナーになりたい。
それは大学時代の澪緒の夢。
それが今日、ついに叶えられる。
ガラス扉を開けて階段を昇る時つい足が震える。
ギャラリーで行われているのは澪緒が担当したポップアイドル『Lustre』の展示。
歴代の衣装展の開催に合わせて、この3人組のデビューから現在までのポスターやCD、ツアーグッズの展覧会が行われていた。
過去、数々の著名な若手クリエイターが手掛けた様々な印刷物。
一番最後に、苦労して作り上げた澪緒のポスターがスポットライトで照らされていた。
たった一枚。
たった一枚だけだったけど澪緒はこの末席に自分のポスターが展示されたことを、心から嬉しく思った。
「紙と特色を使って大正解だったな」
「はい」
苦心して出した青の模様は、余白の多いデザインの中でひときわ目立っていて澪緒のポスターの前で足を止めるファンも多かった。
ーーこれ、好きかも!
目をキラキラさせてポスターを見つめながら小声で感想を言い合うファンの子たち。
普段、自分の制作物が世に出ても生の感想を聞けることはあまり無い。
初めて聞いた自分の作品への評価に澪緒の心もキラキラする。
「良かったな、澪緒」
「はい。夏目さんが特色提案してくれて命拾いしました」
「ベテランの力だな」
社の用事でこのギャラリーに来ている体裁なので、副島も気軽に澪緒に話しかけてくる。
普段なら嬉しいことだけれど澪緒は少し、柏木と来たかったなと思う。
彼に自分の作品を見てほしい。
スゴイとか、すごくないとかの感想はいらない。
ただ自分がデザイナーとして確実に足跡を残していることを柏木に知ってほしいと澪緒は思った。
隣で澪緒のポスターを満足そうに見上げる副島。
自分はまだ副島の正しい時間になりたい?
澪緒はそう自問すると、意外にも答えはYESとNOの中間だった。以前は迷うことなくYESだったのに。
どうしてだろうと理由を考える。
やっぱりこうして夢を一つ一つ叶えて自信がついてきたからだろうか。
副島のことは大好きだ。本当に、大好きだ。でもそれは尊敬するデザイナーの仲間として、気の合う年上の友人としての意味合いが濃くなってきた。
氷室部長が澪緒に対して、ようbrother!と言ってくるあの感じ。
あの感じで、副島とも一緒にいたいと思うことが多くなった。
そのくらいが振り回されなくてちょうどいいと思う。
それにーー不貞行為は、やっぱり間違ってる。
新人じゃないんだ。そろそろ仕事中に色恋沙汰で心を乱したくないし真っ当な人間でありたい。
友達以上恋人未満の男が職場にいる。たまにランチしたり。
そのくらいの関係がいい。
「澪緒、そろそろ行こうか」
「はい」
でも実際そうなったら自分が満足できるのかは、まだちょっと分からない。
ホテルに到着したのは11時。
1回ヤって、ホテル内のレストランで食事をして帰社する流れだろう。澪緒はそんなことを冷静に思う。
休日も柏木に抱かれたから今できるだろうかと思いながらジャケットを脱ぐ。
「外、暑かったな」
「はい、もう夏ですね。冷蔵庫の新作発表会のワイン、赤か白かで迷ってたけどこの感じだとキンと冷えた白の方が合うかな。副島さんどう思います?」
「白がいいんじゃないか。万が一こぼしてもシミにならないし」
「そうか。確かに記者さん立ったり座ったりして動きますもんね」
「なんか余裕だな」
「え?」
「以前は部屋に入るなり副島さん、と駆け寄ってきてキスをねだってたのに」
ベルトを外す手が止まる。
「…嫉妬ですよ。副島さん、土日家族でキャンプだったでしょ。SNSのおすすめに出てきましたよ。見たくないのに。あの機能、ホント良し悪しですよね。少し萎える」
上手に言えただろうか。
別にチェックしていたわけではない。朝の習慣でたまたま開いた写真投稿のSNSにその写真が表示されたのだ。
見た瞬間、確かにウッとなった。
でも柏木との休日を思い出すとその心臓の痛みはすぐおさまった。ベランダに麦がいなかったのは寂しかったけれど、ターコイズの首輪をつけたからどこかの家にもらわれてしまうことはないだろう。
澪緒は副島の前なのにそんなことをつらつら考えてしまう。
「澪緒は土日何してた?」
「普通です。あ、牡蠣のパスタ作りました。あとはアスパラにチーズぶっかけて焼くだけの料理したかな」
「男メシだな」
「ですね。副島さんの奥さんのようにはいかないです」
次々と服を脱いで放る。
「妻がSNSにアップする料理の中にはたまに惣菜が混じってる」
「奥さんご自身のブランディングの一環でしょう?たとえ俺相手でもネタバレしちゃダメですよ」
「澪緒」
「はい」
後ろを振り返るとすぐ抱きしめられてキスされた。
いつもの流れ。しばらくキスして、見つめ合って、ベッドに連れて行かれる。
しかし澪緒はすぐに違和感を感じる。
いつもなら無我夢中でひとつになった気がするのに。
澪緒の口の中に副島の舌が入ってきたところで違和感がピークになり身を剥がす。
こんなことは初めてで咄嗟に言い訳を考える。
どうしたんだろう。
「澪緒、どうした?」
「ふ………ろ。お風呂、入ってきていいですか」
「風呂?」
「シャワーです。あの、一回、洗いたい。汗が」
「ああ」
澪緒がデリケートな部分のことを言っている。そう副島が勝手に勘違いしてくれたおかげでなんとか間が持つ。
「待っててください」
「ゆっくりでいい」
慌ててバスルームに駆け込む。
どうした自分?と澪緒は鏡に映る自分に問いかける。
あれだけ欲していたはずの男の舌なのに、自分の口内に異物を突っ込まれたように感じた。
急いでシャワーを浴びる。
そして少しでも長くお湯を浴びようとする自分がいる。
嫌、なのか?
副島を受け入れるのが。
自分はもしかして女を好きになったのではと澪緒は考える。
いや、それはない。すぐ否定できる。
バスルームを出るとベッドの横のソファで副島が煙草を吸って待っていた。
ジャケットを脱いだだけの姿。
なぜか今、わずかに恐怖を感じる。
「澪緒」
「はい」
ベッドにお姫様のようにゆっくり寝かせられ上から副島がのしかかってくる。
いつもの流れ。
目を閉じる。男の少し硬い唇で首筋にキスされる。
バスローブに副島の手が入ってくる。
そのまま胸まで撫で上げられる。そしてーー
「待ってください」
どうしても我慢できず先に進もうとする副島を澪緒の手が制した。
この先に進めない自分に狼狽えていたが、何かを察するのは副島の方が早かった。
苦悶の表情を浮かべ、一度は澪緒のバスローブに突っ込んだ手の力を緩める。
しかしまた決心したかのように先へ進む。
「待って、副島さん、待っ」
付き合ってる以上、頑なに拒否するのは失礼だ。しかも、上司。俺だって好きな人からセックスを拒否されたら傷つく。
澪緒はそう考えるようにして、もう確信してしまった嫌悪感を握りつぶし副島を受け入れる。
窓の外に広がる都心の街並み。それを見て別のことを考えようと試みる。
別のこと。
民法770条1項1号。
休日に柏木に抱かれたこと。
一層嫌悪感が募りきつく目を閉じる。
大声で悲鳴をあげそうなのを必死にこらえた。
「澪緒」
「は…い」
「愛してる」
こんな時に。
どんなに渇望しても与えられなかった一言がこんな時にようやく放たれた。
でもそれで確信してしまった。
今の自分はもうその言葉を欲していない。
もう無理。
自分は柏木理緋都に大切にされて変わってしまった。
いや、愛されて見ないようにしていた深淵をのぞく勇気を得てしまった。
誰かを欺く。
誰かの大切な人を盗む。
孤独を恐れるあまり自分のことしか眼中にない自分。
これは自分を大切にすることとは違う。
他人の気持ちなんか考えもしない歪んだ自己愛だ。
もしかして奥さんへの精神的暴力。
ドメスティック・バイオレンスですらあるかもしれないーー。
「澪緒」
「…もう遅いです」
顔を手で覆ってベッドの上で丸くなる。
副島の体重が自分から離れ、ベッドから一人分の体温が消える。
そして今の自分が愛してるのは紛れもなく、柏木理緋都。
「柏木か」
「……」
「抱かれたな?」
「……」
「俺に飽きたか」
「飽きるわけない。副島さんのことは好きです。あなたを忘れられる日なんて一生こないでしょう」
「ならどうして」
「不貞行為はやっぱり間違ってる」
「そんなことは最初から分かっていた。俺にも理解できるように説明してくれ」
「もう誰かを欺くのが嫌なんです。最初から分かっていましたが頭で理解してたことをようやく自分のこととして考えられたんです。そして、自分が何をしているかを。だからもうダメみたいです」
「澪緒」
「別れましょう」
自然とその言葉が出た。
出た後に別れる苦しさがこみ上げて涙がにじんだ。心臓が素手で引きちぎられるような苦しみが襲った。本当に別れていいのか一瞬心が揺れたがそれでも後悔はなかった。
苦しいのは自分だけかと澪緒は思ったが、副島も同じ気持ちらしく心臓のあたりのシャツをぎゅっと握っていた。
「柏木にのりかえるからか?」
「柏木さんは俺たちの別れに微塵も関係ないです」
「ボーイフレンドなんだろ?」
「そうですね。でも柏木さんからもらったものは性愛じゃなく、民法です」
「…民法…?」
「まぁ…あと、もしかして300万」
「300万?」
「慰謝料です」
「ハッ…俺を見くびるな。可愛いお前にそんなことはさせない」
「……」
「終わりか」
「それにもう色恋沙汰で仕事中に喧嘩するのも嫌なんです。正しい大人でありたい。副島さんとは完全な良き友人でいたいんですけどそれは俺のワガママなんでしょうか」
「まだ判断できない」
副島は1ヵ月分の疲れがどっと襲ってきたような疲れた表情を浮かべ、ベッドの端に座った。
「澪緒」
副島が口を開いたと同時に、澪緒の社用のスマホがけたたましく鳴った。
着信音を変えているからさすがに副島も分かったようで澪緒に電話に出るよう目で合図する。
スマホをリュックから取り出す。
相手の名を見る。
『営業 柏木さん』
迷うことなく通話ボタンをスライドさせる。
「澁澤です」
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