美しすぎる王太子の妻になったけれど、愛される予定はないそうです

榛乃

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嵐の来訪

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 それから二日が過ぎた、よく晴れた日の午後。
 その訪問は、あまりに突然の出来事だった。

「……お父様が?」

 思わぬ報せに、リリアは本を開きかけていた手をぴたりと止め、訝しげに眉を顰めた。
 王族への謁見は、たとえ生家の者であっても、事前に申請を行うのが規則である。しかし、父であるフレデリクからその申し入れがあったという話は、これまで一度も聞かされていない。

「リリア様とお話しがしたい、とのことで……」

 そう言いながら、申し訳無さそうに目を伏せる侍女に、リリアはやさしく微笑みかける。彼女は何も悪くない。急な事態に対応しながら、クラリスからの言付けを丁寧に届けてくれただけなのだから。

 侍女の話によれば、フレデリクは王城の入口で「娘に会わせろ」と声を荒げ、取り次ぎを拒む守衛に喰いかかっていたという。
 その報せを受け、“王太子妃付の女官”として応対に出ていったクラリスは、表情こそ毅然としていたものの、その後姿には明らかな憤りが滲んでいるように見えた。規則を無視して我を通そうとするその振る舞いは、とても誇り高き侯爵家の当主がとるものではない。その上、今はルイスが不在であることもまた、彼女の怒りに火を付ける要因となったことだろう。宮廷の動静に通じているフレデリクが、ルイスの不在を知らぬはずがない。故に、彼がこの日を意図的に狙ったのは、明々白々だった。

「応接の間に通すよう、伝えてもらえるかしら」
「かしこまりました」

 侍女は恭しく頭を下げ、足早に部屋を出て行った。
 そんな彼女の背中を見送り、ぱたりと扉が閉じた瞬間、リリアは喉に溜め込んでいた息を深く吐き出す。空気というよりも、それは重たい鉛のような感情の蟠りだった。胸が、ひどくざわざわする。荒れ狂う風に草木が軋むような、激しいざわめき。

 ルイスの不在を狙って訪ねてきたということは、彼の耳に入れたくない事情でもあったのだろう。とはいえ、規則を破り、それにもかかわらず守衛に突っかかるという蛮行をしていれば、誰かしらの口からルイスのもとに報が届くのは避けられまい。それを、フレデリクが理解していないとは思えないのだけれど。

 それでも、と思うほどの、切羽詰まった事情でもあるのだろうか――。傍に控えていた侍女に身支度を手伝ってもらいながら、リリアは唇を噛み締め、顰めた眉を更に深める。
 どちらにせよ、快い話でないことだけは、疑いようもなかった。


 応接の間に足を踏み入れると、そこには既にフレデリクの姿があった。
 リリアが入室しても、彼はソファから立ち上がろうとはしなかった。まるで睨めつけるような目で、じっと娘の顔を見据えている。そこに滲む侮蔑や憤怒を、彼は隠しもしない。相手が王太子妃であろうとも、彼にとっては今も、“出来損ないの娘”に変わりないのだろう。

 クラリスは傍にいることを望んだが、リリアは彼女にも、侍女たちにも下がるよう命じた。そうして静かに、敢えて父の顔から目を背けたまま、テーブルを挟んだ向かい側のソファへゆっくりと腰を落とす。
 父と二人きりになったのは、いったいいつぶりだろう。フレデリクの傍にはいつも、イザベルとカトリーヌのどちらかがいた。

「……何のご用でしょうか」

 できるだけ背筋をすっと伸ばし、差し向かいに座るフレデリクの双眸を、リリアは努めて穏やかに見返す。微かに指先がこわばっているのを自覚しつつも、声も表情も崩さぬように注意を払いながら。平静を繕おうとするその仕草が、却って彼女の内心のざわめきを際立たせる。

「ほう。王太子妃ともなると、父親に向かって随分冷たい口をきくのだな」

 皮肉めいた口調に、リリアは膝の上で組んだ手を、ぎゅっと握り締めた。
 それでも、視線は逸らさずに、言葉の続きを静かに待つ。無用な言葉は、ただ相手を苛立たせるだけだと、知っている。フローレット家での生活で、それは否応にも学ばされたことだ。

「……まあ、よい。そんな話をしにきたのではないからな」

 忌々しげに溜息を吐き捨て、フレデリクは冷ややかに、鼻で嗤うように言葉を継ぐ。

「最近、議会や貴族どもの間で、どんな噂が囁かれているか……お前は知っているか」
「……いえ」

 なるべく感情を表に出さぬよう努めながら、リリアは静かに目を伏せる。
 どんな噂が囁かれているのかなど、考えるまでもない。どんなに気を配っていても、何百人ともいる宮廷人ひとりひとりの口を塞ぐことなど、出来るはずがないのだから。

「王太子妃は、ただのお飾りに過ぎぬ――それが奴らの、最近の嗤い種だ」

 同情の色などまるでないフレデリクの声は、しかし微かに震えていた。身の内に溢れ、堪えきれずに漏れ出しているのだろう抑えがたい怒気と苛立ちが、声の端々に色濃く滲んでいる。

「お前のせいでっ……今や私たちまで、奴らの格好の嗤い者だ!」

 荒々しい怒声を吐き捨て、フレデリクは肌が白くなるまできつく握り締めた拳を、膝に激しく叩きつけた。

「式は一年後。その上、寝室も別々だと? 殿下の寵愛などまるでないではないか! そんな“王太子妃”に、いったい何の意味がある!」

 唾が飛んできそうな勢いで、フレデリクは喚き立てる。この調子では、扉の外にまで声が漏れてしまっていることだろう。
 けれど、一度開いた口は止まる気配すらなく、軽蔑をはらんだ目でリリアを射抜いたまま、フレデリクはさらに捲し立てていく。

 そんな父の様子をじっと見つめながら、リリアは胸の内でそっと溜息をこぼす。ここがどこで、扉の向こうに誰が控えているのか――そんなことはもう、血の上った彼の頭からは、疾うに抜け落ちてしまっているのだろう、と思った。

「折角ここまで漕ぎ着けたというのにっ……! 家の名を頼みに進めていた融資の話は、ことごとく白紙になったんだぞ! 顔を繋いだはずの貴族たちも、今や挨拶ひとつ返さぬ始末だっ」

 娘を王太子妃にすることで、融資を引き出す算段だったことは、知っている。“王太子妃を輩出した家門”、或いは“王太子妃の父”という肩書きは、ただそれだけで十分な信用の裏付けになり得るのだから。王家と繋がりを持つということは、すなわち権威と安定の象徴であり、商談や融資の場では実に優位に働くのだ。

 だから――。フレデリクから目を逸らし、テーブルの上に置かれたままのティーカップを、リリアは静かに見下ろす。父の狙いは、分かっていた。十分なほどに。だから、どうにか“王太子妃”の座にしがみつかなければ、と思っていた。たとえお飾りの妃であったのだとしても。心の通じ合った夫婦にはなれないのだとしても。それでも、家の為に、父の為に、“王太子妃”として在り続けなけれならないのだ、と。

 そうすることで、もしかしたら父は認めてくれるかもしれない、と思ったのだ。娘であることを。侯爵家の一員であることを。そして、リリアというひとりの人間を。

 けれど――。ゆっくりと瞼を下ろし、リリアは握り締めた手に、少しだけ力を込める。フレデリクはまだ何かを言っていた。延々と、言葉を吐き出し続けている。しかし目を閉じてしまえばもう、何も聞こえなかった。聞こえない代わりに、

 ――助かった。……礼を言う。

 あの時、あの瞬間の、真っ直ぐな赤い瞳が瞼の裏に蘇る。くっきりと、鮮明に。それは忽ち、あの不器用で誠実な声も、鼓膜の内側にふわりと呼び覚ます。やわらかくもあたたかくもなかったけれど。寧ろ、少しばかり素っ気なくもあったけれど。それでもあの声には確かに、彼なりの優しさが滲んでいた。

 思い返せば思い返すほど、心がふわふわとして、なんだかこそばゆい。けれど、それはやがて目に見えない大きな手となって、きゅっと胸を締め付ける。切ないような、悲しいような。でも、本当はそのどちらでもない、それは甘い疼きだった。つんとした痺れがあるのに、何故かうっとりとしてしまう、不思議な感覚。

 家の為に。父の為に。――或いは、自分自身の為に。
 ただそれだけでしかなかった。王太子妃で在り続けることを望んだのは。それ以外に理由なんてないはずだったのに――。

「お前がきちんと役目を果たしていれば、こんなことにはならなかったのだっ。……今からでも遅くはない。殿下に頭でも下げて、我が家への融資を頼んでこい。馬鹿なお前でも、それくらいはできるだろう?」

 そっと瞼を持ち上げ、リリアはひどく落ち着いた眼差しでフレデリクを真っ直ぐ見据える。胸の中は、不思議なほど静かだった。しんとしたその奥には、感情の波の気配すらない。まるで、風の止んだ水面のように。

「……殿下に、ご迷惑をおかけすることは出来ません」

 自分でも驚くほど、それは凛とした声だった。明確な拒絶を滲ませた、揺るぎのない声音。
 その瞬間、胸元に熱い何かが飛び散った。一拍の間をおいて、フレデリクの手に握られた空のティーカップが目に留まる。ああ、お茶を――。どこか他人事のようにぼんやりとそれを見つめながら、リリアは思う。ルイスの指示で仕立ててもらったドレスを着てこなくて良かった、と。心の底から。

「お前っ……何の為にここまで育ててやったと思っているんだ!」

 フレデリクが叫んだのとほぼ同時に、扉がノックされた。恐らくはクラリスだろう。そう分かっていたが、敢えて返事をすることはしなかった。ただじっと、憤怒で歪んだ父の顔を見上げたまま、リリアは静かに自嘲する。フレデリクの頼みを拒んだことが、とても信じられなかった。まるで他人の口を借りて告げたような。自分自身ではない何かだったような気がする。

「調子に乗るなよ、リリアッ」

 もう一度ノックが鳴り、今度は返事を待たずにゆっくりと扉が開かれた。すぐに侍女とクラリスが顔を出し、ドレスの沁みに気付いたらしい侍女が、小さな悲鳴を上げて駆け寄ってくる。

 そんな彼女と入れ替わりに、フレデリクは荒々しい足取りで、扉の方へずかずかと向かってゆく。クラリスの顔は、今までに見たこともないほど張り詰めていた。赤く色付いた艷やかな唇が、小刻みに戦慄いている。フレデリクを睨め付ける彼女の薄黄色の瞳には、ひどい侮蔑が色濃く滲んでいた。いつもの愛らしい彼女からは想像もつかないほどの、刺々しい冷たい視線。

 震えた唇を開き、フレデリクへ何かを言い放とうとするクラリスを、リリアは彼女の名前を呼ぶことで制した。目が合い、リリアはやさしく微笑みながら、ゆるゆるとかぶりを振る。刹那、クラリスの美しいかんばせが、くしゃりと歪んだ。今にも泣き出してしまいそうな、幼い子どものように。

「私は大丈夫よ。大丈夫だから、そんな顔をしないで」

 クラリスへ向けたその言葉は、しかしどこか、自分自身に言い聞かせるものであるような気がした。
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