美しすぎる王太子の妻になったけれど、愛される予定はないそうです

榛乃

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喜びと笑顔

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「レシュ語なら……少しだけ、読めます」

 そう告げた途端、不自然な間があいた。驚いているような、訝しんでいるような。
 ルイスは柳眉を僅かにあげただけで、何も言わずにリリアを凝視していた。沈黙が、息苦しくてたまらない。こんなことならば言わなければ良かった、と、忽ち後悔が込み上げてくる。

 助けを求めてセドリックへ目を向けると、彼は切れ長の目をまん丸く見開かせてぽかんとしていた。
 薄黄色の瞳と、無防備に視線が交わる。リリアは思わず身を竦め、たまらずそっと目を逸らした。胸の奥がきゅっと縮こまり、ひやりとした感覚が全身に迸る。

 やはり余計なことを言うべきではなかった――そう悔いたところで、もうどうしようもないのだけれど。今すぐにもここを逃げ出したい、と思った。逃げられないのなら、どこかの物陰にでも身を隠してしまいたい、と。

 どうしてよいのか分からず、リリアは無言で顔を俯ける。そうすることしか、出来なかった。何か口にしようにも、最適な言葉がひとつも見つからない。

 静寂が落ちる。誰も何も言わないまま、規則正しい機械的な音とともに、時間だけが過ぎていく。
 その沈黙が、ますますリリアを追い詰めていった。胸の内で、焦りと後悔ばかりが膨れ上がっていく。視線も、気配も、皮膚を伝って刺さるようだった。顔を上げる勇気など、彼女の中には殆どない。

 だから、不意に耳に飛び込んできた朗らかな笑い声は、まるで救いのような響きだった。

「まさかレシュ語をお読みになるとは。驚きました」

 気遣うようなやさしい声音に誘われ、リリアはおずおずと顔を上げる。問い詰めるでもなく、勘ぐるでもなく。ふわりと相好を崩したセドリックの瞳は、ただただ純粋な感嘆に満ちていた。それを受け止めながら、どこまでも真っ直ぐな人だ、とリリアは思う。穢れを感じさせない、とても清らかでやさしい人。
 強張っていた身体から、ふっと力が抜けてゆくのを感じながら、リリアは小さく微笑みを漏らす。彼がいてくれて本当に良かった、と思わずにはいられない。

「それにしても、どのようにしてレシュ語を学ばれたのですか?」

 ティーカップをゆったりと持ち上げながら、セドリックは興味深そうに目を輝かす。

「実家の図書室に、レシュ語で書かれた物語があったのです。それをどうしても読んでみたく……」

 ひとつひとつの言葉を慎重に選びながら、リリアは僅かに目を伏せる。

「ちょうど翻訳の為の語学書もありましたので、それを使って……少しずつ、独学で勉強いたしました」

 そう言って、リリアははにかみとも苦笑ともつかない笑みをそっとこぼす。
 カトリーヌのように玩具やお人形を与えてもらえず、ピクニックや劇場にも連れていってもらえなかった幼いリリアにとって、屋敷の片隅にひっそりと存在する図書室は、庭と同じくらい大切な遊び場だった。

 当主であるフレデリクでさえ見向きもしなかったその部屋には、薄く埃を被ったたくさんの書物が保管されており、その殆どが数代前の当主が収集した蔵書だという。偉人の伝記、精霊や神の出てくる空想物語、政治学や地理学といった専門書、何が書いてあるのかさっぱり分からない分厚い本――。

 あの部屋でひっそりと眠っていたたくさんの書物は、リリアが一歩足を踏み入れた瞬間、朝日を浴びた動物たちのように、ぱあっと、一様に目覚めていたように思う。息を吹き返していた、と言った方が正しいのだろうか。
 ともかくあの部屋で触れ合ったたくさんの書物たちは、当時のリリアにとって唯一無二の友達だった。

 もちろんそんなことを、ルイスやセドリックに語るつもりはないけれど。少しだけぬるくなったお茶を一口含み、まろやかな液体を喉の奥に滑らせながら、リリアは胸の内でひっそりと苦笑する。

 ふと、静かにティーカップを置く音が、ぽつりと響いた。
 音のした方へ顔を向ければ、そこにはこちらを見つめるルイスの姿があった。美しいかんばせに浮かんだ表情は、まるで読めない。彼はただ真っ直ぐに、ルビーのような赤い瞳でリリアを見つめている。
 その眼差しに、心臓がどくんと跳ねた。何かを試されているような、そんな感覚がする。挑むような、でも、心做しか愉しんでもいるような――。

「……読んでみろ」

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。
 愕然としながら、リリアは差し出された便箋とルイスの赤い瞳を、交互に見遣る。彼の言葉にも、視線にも、嘘はない。それだけは、不思議と信じられた。

「よろしい、のですか……?」

 自分で言っておきながら、リリアはたじろぐ。
 レシュ語で書かれた分厚く濃厚な物語を、最終的には語学書なしで読めるようにはなった。よほど古い言葉や言い回しがなければ、手紙に綴られている内容を翻訳出来ないことはないだろう。

 けれど――。一抹の不安を抱えながら、リリアはゆっくりと腰を上げ、デスクの傍まで歩み寄る。ああ言ったくせに、一文字も読めなかったら、今以上に失望されてしまうだろうか。やはりお前は役立たずだ、と。そう思われてしまうだろうか。

 侮蔑に歪んだフレデリクの顔が脳裏を過ぎり、手紙へ伸ばそうをした手を躊躇わす。ルイスは相も変わらずリリアを見据えたまま、何も言わない。まるで試すような、鋭い視線。

 ルイスの白い指に握られた、二つ折りの便箋を見下ろしながら、リリアは唇を微かに噛み締める。けれど、それでも――。伸ばした指先が、やわらかなスノーホワイトの紙端に触れる。そうしながら、リリアはここへ来る途中の自分を思い返した。
 セドリックの背中を見つめながら、何もしなかった自分を悔いたのではなかったか。自ら“役立たずでいる”ことを選んだに他ならないのでは、と。それはただ現実から目を逸らす為の言い訳に過ぎないのでは、とも。

 心臓が、どくどくと激しく鳴っている。鼓膜のすぐ裏側にあるのではないかと思うほど。

(大丈夫よ……読めるわ、絶対に)

 静かに息を整え、リリアは決然と便箋を受け取る。その瞬間、ルイスの柳眉が僅かに反応したように見えた。

「拙い読みになるかもしれませんが……」

 そう断りを入れてから、リリアは二つ折りの便箋を丁寧に開く。そうしてゆっくりと深呼吸をし、紙面にそっと視線を落とす。

 スノーホワイトの便箋に、濃紺色のインクで流れるように綴られたレシュ語の文章。文字は、とても美しかった。癖がなく、はっきりとしていて、まるで手本のように整った形をしている。その上、殊更難しい言い回しもなければ、難解な単語もない。それは明らかに、レシュ語を常用しない者への気遣いのが感じられる文章だった。

 すらすらと、自分でも驚くほど流暢に、リリアは文章を読み上げてゆく。王太子の結婚をめでたく思っていること、近くに来ることがあればぜひ夫婦で遊びにきてほしいこと、これからも王国の末永い繁栄を願っていること。

 最後の一文字までしっかりと紡いだところで、リリアは漸くゆっくりと息を吐いた。いつの間にか、呼吸が浅くなっていたらしい。空気を吸い込めば吸い込むほど、インクと花の混じった匂いが身体中に滲み広がってゆく感覚がする。

 ちゃんと、遣り遂げられた。詰まることもなければ、読み損じることもなかった――と、思う。けれど、どうしても顔を上げる勇気が出ず、リリアは視線を伏せたまま、ルイスの反応をじっと待った。
 沈黙が、ひとつ、ふたつ、静かに落ちる。それは、一瞬にも永遠にも思える静寂だった。

 けれど、やがて、

「思ったより、読み慣れているな」

 低く落ち着いた声が、その静けさをやんわりと破った。
 ルイスはそのまま、まるで言葉を探すように一拍の間を置いて、ふいと目を逸らす。リリアが差し出した便箋を、白い指先で受け取りながら。

「助かった。……礼を言う」

 息を、呑んだ。ゆっくりと、リリアの目が見開かれてゆく。聞き間違いかと思った。きっと幻聴だろう、とも。けれど鼓膜を撫でた彼の声は、みるみる頭の中を満たしてゆき、明瞭な輪郭をもって言葉を繰り返す。助かった。礼を言う――。

 その声は、セドリックのそれほどやわらかくもあたたかくもないけれど。それでも確かに相手を労るような、誠実で、真っ直ぐな、それでいて不器用な優しさが滲んだ声だった。

 理解すれば理解するほど、心の中が忽ち、じんわりと明るくなってゆく。ぽっと火が灯るような。大輪の花が綻びはじめるような。或いは、雲の切れ間から顔を出した太陽が、燦々と降り注ぐ眩い陽光で照らしてくれているような。
 真綿のような春風が、すうっと心の奥まで入り込み、全身をやわらかく包みこんでいく。その感覚はあまりにも優しくて、ふいに胸の奥がきゅっとなった。悲しいからでも、辛いからでもなく――きっと、どうしようもないほど嬉しくて。

「ありがとうございます」

 ふわり、と、笑みが浮かんだ。ただただ純粋な、混じり気のない無垢な笑みが。
 それは殆ど、無意識だった。心からそのままこぼれた、と、そう言ってもいいような。言葉よりも先に、気持ちが溢れてしまったのだと、リリアは思う。胸の奥に灯った小さな光が、身体中に満ち満ちているのがはっきりと分かる。それは間違いなく、途方もない幸福だった。

 いつぶりだろう。こんなふうに誰かの前で、自然に笑えたのは――。
 僅かに瞠られた切れ長の双眸を見つめながら、リリアはひそりと思う。気を緩めると、泣いてしまいそうだった。あまりにも心が満ち足りていて。それが身体から溢れ出し、涙と一緒にこぼれてしまいそうだった。
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