美しすぎる王太子の妻になったけれど、愛される予定はないそうです

榛乃

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夜のひととき

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「お茶を……です、か?」

 きょとんとした顔で小首を傾げるリリアに、セドリックは花の綻ぶような満面の笑みを湛えて、こくりと深く頷いた。そんな彼の、無垢そのもののような笑顔に、リリアは思わず戸惑い、目を瞬かす。

 ひとり復習に励んでいたリリアのもとに、何の前触れもなくセドリックが訪ねてきたのは、宵の口を疾うに過ぎた、薄闇の立ち込める夜更けのことだった。

 控えめなノックの音に気付いて扉を開けると、そこには軍服姿の彼がひとりで静かに立っていた。妹によく似た穏やかな薄黄色の瞳と、精悍でありながらもどこかやさしいかんばせ。
 彼はリリアを視界に留めるや否や、心做しかほっとしたように目元を緩め、そうして楽しげな口調でこう言ったのだった。――もし宜しければ、殿下と一緒にお茶をいたしませんか、と。戻られてからまだ一度もお会いされていませんし、とも。

 ルイスが西部の視察から戻ったのは、三日前のことだった。
 彼が帰城したという報せを受けた時、あいにくダンスのレッスン中で、出迎えに行くことが出来なかった。故に、無事の帰還を喜ぶ言葉をクラリスに託すしかなかったのだけれど――それ以来ルイスとは、何の遣り取りもしていない。会話どころか、顔を合わすことさえ、全く。

 一度は顔を出すべきかと、迷わなかったわけではない。
 けれど彼は、留守中に溜まった書類の処理や、復興支援に関する会議などで忙殺されている。そんな彼にとって、“時間”は何より貴重なものだ。そう考えると、ほんの僅かでも邪魔になるような気がして、結局、何もできぬまま三日が過ぎてしまっていた。

「政務は終わられたのですか?」
「いえ、まだです。ただ、昼から殆ど休憩をとられていないので……」

 困ったように苦笑を滲ませながら、セドリックは首を竦める。

「私が言っても、殿下はお聞きにならないでしょうから。リリア様に、ぜひ手伝っていただきたいのです」

 そう言われても――。肩に羽織ったショールの合わせ目を、ぎゅっと握り締めながらリリアは思う。手伝ってほしいと言われても、自信なんてまるでなかった。彼が望むような結果を出せるとは、とても思えい。そもそも、幼馴染であるセドリックが言っても聞かないのであれば、彼よりも付き合いの浅い、親しいとも言い難いリリアが何かを口にしたところで変わるとはとても思えなかった。

「私では、お役に立てないかと……」
「そんなことはありませんよ」

 きっぱりと言い切られ、リリアは思わずたじろぐ。真っ直ぐに向けられる薄黄色の瞳を、素直に見つめ返すことが出来ない。
 けれど、いつまでもそうしているわけにもゆかず、意を決したリリアは、静かに頷いてセドリックの申し出を受け入れるしかなかった。

「少し、お待ちいただけますか」

 そう断ってから急いで机の書物を片づけ、ランプの灯を落とし、厚手のショールを羽織り直す。
 足早に扉へと歩み寄ってきた彼女を、セドリックはやさしい眼差しで、じっと見つめていた。ただ静かに。何故だかとても幸福そうに。

「……西部の状況は、いかがでしたか」

 歩き出したセドリックの少し後ろをついてゆきながら、リリアは躊躇いがちに問いかける。夜の帳に包まれた静謐な廊下に、人の気配はまるでない。等間隔に配された燭台のあたたかな灯りだけが、そこここにぼんやりと広がっている。

「惨憺たるものでした。もとの生活に戻るまでには、相当の時間がかかるでしょう」

 床に映るふたつの影が、寄木張り冷たい木目の上でゆらゆらと揺れる。セドリックの足取りは軽やかだが、リリアの歩みは少しばかり重たい。ひんやりとした夜気がショールの隙間から流れ込み、肌をやさしく撫でてゆく。

(本当に、これで良かったのかしら……)

 ただお茶をするだけだと分かっていても、胸の内がそわそわとして、どうしても落ち着かない。足音さえも控えめに聞こえる静寂の中で、心音だけがやけに大きく響いているように感じる。

「殿下は、今も執務室にいらっしゃるのですか?」

 ふと口をついて出た問いに、セドリックは振り返らぬまま、声だけを返す。

「ええ。明日は一日中会議が続くようでして、それまでに予算の見直しを済ませておきたいとのことでした」

 セドリックの声には、苦笑とともに、わずかな憂いが混じっていた。それでも、言葉の端々に感じるのは、主への深い信頼と、それを案じる家族にも似たあたたかさだった。

 そんな彼の逞しい背中からそっと視線を逸らし、リリアは静かに目を伏せる。
 帰城の報せを受けてからの三日間、ルイスのことが頭から離れなかったわけではない。また無理をしているのではないだろうかと、心配してもいた。
 けれど、そう案ずれはすれど、結局は何一つ出来なかった自分を思い返して、リリアは深く恥じ入る。“お飾りの王太子妃”でいれば良いと、確かに彼はそう言ったけれど。それでも、セドリックのように、彼の為に何か出来たのではないだろうか。

 思いはしても、行動に移しはしなかった。所詮、お飾りの妃なのだから、と。何の役にも立てない人間なのだから、と。
 けれどもそれは、自ら“役立たずでいる”ことを選んだに他ならない。“役立たず”も“お飾り”も――それを正当化して、現実から目を逸らす為の、言い訳に過ぎないのではないだろうか。
 どうせ言っても聞かないだろう。そう分かっていても、それでもルイスの為にと行動を起こしているセドリックとは、まるで違う。

 けれど――。寄り合わせたショールを握り締め、リリアは密かに息をつく。先をゆくセドリックの耳には届かないように、そっと。

 角をひとつ曲がり、長い回廊を進む。やがて視界の先に、目的の扉が漸く見えてきた。
 王家の紋章が彫り込まれた、重厚な木の扉。夜の静けさの中でもひときわ威圧的な存在感を放つその扉の前で足をとめた瞬間、胸のざわつきが一気に色濃くなった。風に激しく揺さぶられた枝葉が、ざあっと、騒々しい音を立てるみたいに。

(私なんかが来て、本当に良かったのかしら……)

 不安に顔を引き攣らせるリリアの心中を察したのか、セドリックがやさしい微笑を湛えて振り返る。

「ご安心下さい。殿下はきっとお喜びになりますよ」

 時々思うのだが――。控えめにノックをし、返事を聞くより先に扉を開けるセドリックの後ろ姿を呆然と見つめながらリリアは思う。
 彼もクラリスも、どうして当然のようにそう言えるのだろう、と。まるでそれが、疑う余地もない事実であるかのように。心の通わない、名ばかりの夫婦でしかないと知っていながら。
 それなのに、どうして――。

「殿下、リリア様をお連れいたしました」

 インクと花の匂いが薄く漂う室内に、セドリックの声だけが静かに響く。返事は、ない。その代わりルイスはデスク越しにリリアを一瞥し、無言で頷いた。ほんの一瞬だけ、眉間に皺が寄ったように見えたけれども。

 執務室の中央に置かれた横長のテーブルには、既に淹れたてのお茶が二人分、きちんと並べられていた。どうやら入れ違いで、侍女は退室したらしい。テーブルに置かれたティーカップは、二つだけ。ルイスのカップは、書類に埋もれたデスクの、わずかな隙間にぽつんと置かれているのが見えた。どうやらソファに腰掛けて、ゆっくり寛ぐつもりはないらしい。

「リリア様とお茶を飲むのは、初めてですね」

 にこやかにそう言って、セドリックは向かい合わせに置かれたソファの一方に腰を下ろした。必然的にリリアはその向かいに腰掛け、落ち着かぬ心を隠すように、そっとティーカップの中へ視線を落とす。

「ええ、そうですね。前回は、お茶をお淹れしただけでしたから……」

 ゆっくりと目をあげ、リリアは馴染のない室内を、ひっそりと見回す。片側の壁一面を覆う巨大な書棚、その中にびっしりと詰め込まれたたくさんの書物。向かい側には暖炉が切られ、大理石製の白いマントルピースの上には、植物の細工が施された時計や小さな胸像のような置物が飾られている。

「殿下も、そろそろ休憩なさってはいかがですか。リリア様もいらしていることですし」

 セドリックの言葉に、リリアの胸がどくりと跳ねた。心許なく彷徨っていた視線が、思わずセドリックの方へ向かう。僅かでも沈黙が落ちるのが、どうしようもなく不安でならない。
 けれどセドリックは、そんなリリアの動揺など露ほども気にした様子はなく、洗練された所作でお茶を口に運んでいた。心做しかその顔には、楽しげな雰囲気すら滲んでいるように見える。
 さすがは兄妹というべきか。そういうところは本当に、クラリスとよく似ていると思う。

「……これが片付いたらな」

 まさか返事があるとは思ってもいなくて、リリアはぎょっとしながらルイスを見遣る。相変わらず彼は手元の紙に視線を落としたまま、ひどく険しい顔をしていた。右手に握ったペンは、先程からぴくりとも動いていない。

「モーリスはもう帰ったのか?」
「ええ。今夜は屋敷へ戻ると言っていました」

 セドリックの返答に、ルイスは深々と溜息を吐き出しながら、ペンを無造作にデスクに置く。そのまま彼は眉間に深い皺を寄せ、ひどく疲れた面持ちで頬杖をついた。

「どうかされたのですか?」
「グラティア公国から書状が届いたんだが……」
「ああ、レシュ語ですね」

 苦笑を浮かべながら、セドリックは手にしていたカップをソーサーの上へ静かに戻す。
 グラティア公国といえば、大陸の南方に位置する、山岳と湖に囲まれた小国である。独自の文化と言語を今なお色濃く残し、外交文書には古来のレシュ語が用いられることも多い。レシュ語は現在では殆ど使用者のいない少数言語であり、グラティア公国の人間以外でそれを読解できる者はごく僅かだ。その多くは学者や書記官、翻訳官など、特別な勉学を積んだ者に限られる。

 きっとモーリスも、その内のひとりなのだろう。そう思いながら、リリアは手元の赤褐色の水面を見下ろし、僅かに目を伏せる。

 所々に埃を被った静かな部屋。三方の壁を埋め尽くす書棚と、所狭しと並べられた幾つもの本。何度も何度も手繰った、古びて色褪せた頁。年月を吸って滑らかになった紙の質感。びっしりと書き込まれた独特な造形をした文字。
 記憶が、忽ち脳裏に溢れ出す。あの屋敷で一番親しくしてくれたのは、きっとあの部屋に眠るたくさんの本たちだっただろう。埃と紙の匂いが混じったあの空気を、今でも鮮明に思い出すことが出来る。

 レシュ語――。随分懐かしい響きだ、と思った。屋敷を出る前夜にも目にしたはずなのに。まだひと月ほどしか経っていないその昔が、遠い日々のように感じてしまう。

 言うべきか否か。口を開きかけては躊躇い、リリアは唇を噛み締める。不安がないわけでは、ない。余計なことをするな、と言われてしまったらどうしよう。
 けれど――。モーリスは明後日まで不在だというセドリックの話を聞きながら、リリアは胸の奥でゆっくりと呼吸を整える。大丈夫。まるで呪文のように、何度もそう繰り返しながら。

「……あの。差し出がましいかもしれませんが――」

 自分の声が、ひどく小さく聞こえた。
 それでも、リリアは膝の上でそっと手を握り締め、意を決して先を続ける。震えを悟られないように気を付けながら。ルイスの赤い瞳を、真っ直ぐに見つめて。

「レシュ語なら……少しだけ、読めます」
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