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今はそれだけで
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ユリウスに与えられている執務室は、ルイスのそれよりも随分と質素で、そしてとても散らかっていた。
飾り気のない白亜色の壁、四角く切られた白枠の上げ下げ窓、仮漆を塗った後のように艷やかな飴色の床。家具といえば、部屋の中央に置かれた応接セットと、どっしりと重厚な大きな書棚、それから深いカラメル色の立派なデスクだけで、他には何も無い。
けれど、そうだというのに室内は、ものの見事に乱雑としていた。床板の上にそのまま積み置かれたたくさんの本や、筒状に丸めて放り出されたままの紙の束、そしてデスクの上を雑然と埋め尽くす書類の数々。ルイスのデスクにも書類の山は幾つもあったけれど、ユリウスのそれは山ではなく、もはや雪崩の後のような様相だった。
そんな散らかり放題の室内を眺めながら、リリアは侍女の淹れてくれたあたたかなお茶をひとくち飲む。軍の中で、専用の小部屋が与えられるのは、上位階級の者だけだ。セドリックやテオは、ユリウスは変人だ、と頻りに言っていたけれど。天才と変人は違うようでいて、その実同じなのかもしれない、と思った。彼は軍の入隊試験を、歴代最高得点を叩き出して通過している。“目にしたものを一瞬で記憶する”という異能を持つ、あのモーリスさえ遥か上回って。
「それで、僕に何の用?」
淡々とした口調でそう尋ねながら、ユリウスは小皿に盛られたクッキーへ手を伸ばす。差し入れにと持参した、チョコレートコーティングの施された丸型のクッキー。初めて彼に会った日に、彼が「美味い」といって綺麗に平らげていたのを思い出し、厨房に頼んで焼いてもらったものだ。
指先に摘んだクッキーを一口で頬張り、ユリウスはゆうゆうと足を組み替える。彼の目の前には、お茶ではなく葡萄酒の入ったグラスが置かれていた。開け放たれた窓から流れ込むあたたかな風が、レースのカーテンをふわりと膨らます。その風に頰をやさしく撫でられながら、リリアは手元のカップに視線を落とした。薄い赤茶色の水面に、小さな光の粒がきらきらと浮かんでいる。
「私の、異能のことなんですけれど……」
舞踏会の夜、ベッドの上で枕に顔を埋めて泣きじゃくりながら考えたのは、やはり異能のことだった。
ユリウスやモーリス、セドリックにまで協力してもらい色々と試してはいるものの、結局未だに“白昼夢のようなもの”を見ることは一度も出来ていない。ユリウス曰く、異能を発動する時にみられる“魂の震え”さえ、いっかな現れないという。“身体的接触”と、探究心などの“心、或いは感情の動き”がきっかけだろう、と、今のところ考えられているけれど、手を握ろうが相手を知りたいと思おうが、うんともすんとも反応しないので、それが当たっているのかも定かでない。
そんな分からないことだらけの状況では、ルイスが拒絶を示すのもしかたがないだろう。モーリスもセドリックも、焦る必要はない、と言ってくれるけれど。しかし、その言葉に甘えていては、何も変えることは出来ない。異能云々はもちろん、ルイスとの関係も。
積み上げるのは難しいのに、壊れるのは本当に一瞬だ。繊細な硝子細工が、ふと指先で触れただけで割れてしまうような。とても脆く、そしてひどく儚い、瞬きほどの僅かな時間。
「早くどうにかしなければいけないと、分かっているのです。今のままではいけない、と……。けれど、ただ焦りが募るばかりで、なにひとつ掴めない。それが、どうしても歯痒くてたまらないのです」
そっと目を伏せ、リリアは口を噤む。
絞り出すように語った言葉が、胸の奥に深く突き刺さって、つんとした痛みがじわりじわりと広がってゆく。あまりにも拙く、子どもじみているな、と思った。ひとりでは何も出来ず、ただ感情の渦の中で藻掻いているだけの、ひどく情けない自分。焦っていることも、不安でたまらないことも、ひとりではどうすることも出来ない。そのことが、ひどく恥ずかしい、とも思った。
けれど――。俯けていた顔を上げ、リリアは眼前に腰掛けるユリウスの、左右で色の異なる瞳を真っ直ぐに見つめながら、奥歯を噛み締める。子どもじみていても。情けなくても。それでも、必死に前へ進むしかないのだ。今出来るのは、ただそれだけなのだから。ひとりでは難しいのなら、例えみっともなくとも、格好悪くても、誰かに縋り付いて助けを乞うしかない。何かを変える為ならば。
「既にたくさんのお時間をいただいていることは、重々承知しております」
切れ長の目が、すうっと、ほんの僅かだけ細まったような気がした。琥珀色の瞳と、まるで揺れる水面の奥を透かすような、静かで深い眼差し。そこにはきっと、焦燥で震える心が鮮明に映し出されていることだろう。覆うものの何も無い、真っ裸の状態で、ありありと。
そんな彼の瞳を、しかし不思議と、怖いとは思わなかった。
「けれど、どうかもう少しだけ、私にお力を貸していただけないでしょうか」
穏やかでありながら、けれど決然としたその口調に、リリアは自分で自分に驚く。ここに来るまでの間に、何度も何度も繰り返し考えては、躊躇いすらしていたはずなのに。唇を開くと、言葉は思いの外するすると、確かな意思を持って滑り出てきた。言ってしまったからには、もう後戻りは出来ない。
ユリウスは、すぐには答えなかった。微動だにせず、ただリリアをじっと見据えている。瞳越しに、まるで何かを探るように。ひやりとした冷たい空気が背筋を撫でたような気がしたけれど、それでも、リリアは彼から目を逸らすことはしなかった。カップを包むように握った手に、ほんの僅かばかり力を込めながら。ここで逃げてはならない、と、怯みそうになるのを叱咤して。
「……それは、ルイスの為?」
漸く落ちたその言葉が、張り詰めた沈黙を震わせる。静かな水面に投じられた石粒が、小さなさざなみを作るみたいに。
リリアはこくりと頷き、そうしてゆっくりと、カップの華奢な縁に唇をつけた。呆れを含んだような吐息が、ふっと漏れる。
「前にも言ったと思うけどさあ。……君、正気なの?」
小皿の上に並べられたクッキーに指を伸ばしながら、ユリウスは「馬鹿だねえ」と小さく呟いた。まるで独り言のように。けれどそれは、嘲っているわけでも責めているわけでもなく、ただ、手に負えないものを前にした時の、静かな諦観のようにも聞こえた。
「舞踏会であんなことされて、それでもルイスの為にって思う君のその頭が、僕は理解出来ないね」
そう言って、指先に摘んでいたクッキーを頬張るユリウスから目を逸らし、リリアはデスクの後ろの壁に切られた上げ下げ窓を眺め遣る。白い窓枠、風に膨らむレース地のカーテン。色の濃い鮮やかな青空を背景に、新緑の葉をたっぷりと茂らせた欅が、心地よさそうに枝を揺らしている。
そんな長閑な真昼の光景を眺めながら、ユリウスの言っていることは尤もなのかもしれない、とリリアは静かに思う。彼の目には――或いは、クラリスやセドリックたちを含む彼らの目には――、きっとあれが、嘲笑を助長するような軽率な行為に映ったのだろうから。そうならば、何故、と訝るのも無理はない。
けれど――。そっと目を細め、白銀の揺れる美しい横顔を脳裏に思い浮かべながら、リリアは小さく自嘲をこぼす。踊ることを、手をとることを、大衆の面前で拒んだのはルイスだったけれど。でも、その原因を作ってしまったのは自分自身だ。辛くても、悲しくても。それでもあの非は、全て自分にあった。ルイスを責めるわけにはいかない。
「君さあ、何でそんなにルイスに真っ直ぐなの」
木漏れ日が揺れる枝に、白い羽根の小鳥が二羽、肩を並べて静かにとまった。丸くやわらかそうな小さな身体を、仲睦まじげに寄せ合っている彼らを微笑ましく見つめながら、リリアは澄んだ真紅の瞳に思いを馳せる。
そのまま沈黙が落ちても、ユリウスは先を急くことはせず、ただ静かに答えを待ってくれていた。クッキーを噛み砕く微かな音と、風にのって流れ込んでくる小鳥の囀り。カーテンの裾がふわりと揺れ、緑の豊かな匂いが鼻先を撫でるように通り抜けてゆく。決して重苦しくのない、ぬるま湯のようにやさしい沈黙。その中に身を、意識を浸らせ、リリアはゆっくりと瞬いた。頭の中で選んだ言葉を、ひとつひとつ丁寧に繋ぎ合わせながら。
「……殿下は私を頼って下さいました。ほんの些細なことでしたけれど」
ばたばたと羽音を響かせながら、小鳥たちが飛びだってゆく。突き抜けるほど晴れた空へ、元気いっぱいに。
「そして、教えもひとつ下さいました。それは私にとってとても大事な、心の拠り所なのです。……今はそれだけで十分ですわ」
小鳥のいなくなった枝から視線を逸らし、真向かいに腰掛けるユリウスの双眸を、ふっと穏やかな笑みを湛えながら見つめる。それは正真正銘、心からの笑みだった。混じり気のない、純粋な。
そんなリリアに、ユリウスはやれやれと肩を竦めたが、しかしすぐに、くつくつと喉を鳴らして笑った。「馬鹿だなあ」と、またもや小さく呟いて。でも今度は、どこか愉しげな口調で。
「まあ、何にせよ。ひとまず君に、ふたつだけ伝えておくよ」
ふっくらとした肘掛けに頬杖をつきながら、ユリウスはいつの間にか片手に握っていたグラスを、ゆらりと弄ぶ。そうしながらも、リリアへ向ける眼差しは、冗談のまるで感じられない、とても真摯なものだった。
「先ずひとつ目。異能の制御っていうのはね、他人の為じゃなくて、あくまで自分自身の為にするもんなんだよ。そこを履き違えないように」
そう言って、ユリウスは手にしたグラスを軽く傾ける。深い赤紫色をした葡萄酒が細く揺れ、彼はそれをひと口だけ啜った。
「そして二つ目。過度な自責はやめときな。悪くもないのに、自分で自分を責めて追い詰めるなんて、馬鹿げてる。それは愚か者のすることだよ。悪くないなら、ただ堂々としていればいいんだからさあ」
リリアは静かに瞬き、両手に包んだカップの中へ、そっと視線を落とす。ユリウスの言葉は、どれも胸に痛かった。けれどそれ以上に、とてもあたたかい。こわばっていたものを、真綿でやさしく包んでくれるような。或いは、ひどく絡み合った感情を、やわらかく解いてくれるような。
ありがとう、ごめんなさい――リリアは言葉を探しかけ、やめた。そうしてほんのりと微笑むと、小さく、けれど確かな意思を込めて、ゆっくりと首を縦に振った。彼のくれた言葉を、大切に、胸の奥にそっと沈めながら。
飾り気のない白亜色の壁、四角く切られた白枠の上げ下げ窓、仮漆を塗った後のように艷やかな飴色の床。家具といえば、部屋の中央に置かれた応接セットと、どっしりと重厚な大きな書棚、それから深いカラメル色の立派なデスクだけで、他には何も無い。
けれど、そうだというのに室内は、ものの見事に乱雑としていた。床板の上にそのまま積み置かれたたくさんの本や、筒状に丸めて放り出されたままの紙の束、そしてデスクの上を雑然と埋め尽くす書類の数々。ルイスのデスクにも書類の山は幾つもあったけれど、ユリウスのそれは山ではなく、もはや雪崩の後のような様相だった。
そんな散らかり放題の室内を眺めながら、リリアは侍女の淹れてくれたあたたかなお茶をひとくち飲む。軍の中で、専用の小部屋が与えられるのは、上位階級の者だけだ。セドリックやテオは、ユリウスは変人だ、と頻りに言っていたけれど。天才と変人は違うようでいて、その実同じなのかもしれない、と思った。彼は軍の入隊試験を、歴代最高得点を叩き出して通過している。“目にしたものを一瞬で記憶する”という異能を持つ、あのモーリスさえ遥か上回って。
「それで、僕に何の用?」
淡々とした口調でそう尋ねながら、ユリウスは小皿に盛られたクッキーへ手を伸ばす。差し入れにと持参した、チョコレートコーティングの施された丸型のクッキー。初めて彼に会った日に、彼が「美味い」といって綺麗に平らげていたのを思い出し、厨房に頼んで焼いてもらったものだ。
指先に摘んだクッキーを一口で頬張り、ユリウスはゆうゆうと足を組み替える。彼の目の前には、お茶ではなく葡萄酒の入ったグラスが置かれていた。開け放たれた窓から流れ込むあたたかな風が、レースのカーテンをふわりと膨らます。その風に頰をやさしく撫でられながら、リリアは手元のカップに視線を落とした。薄い赤茶色の水面に、小さな光の粒がきらきらと浮かんでいる。
「私の、異能のことなんですけれど……」
舞踏会の夜、ベッドの上で枕に顔を埋めて泣きじゃくりながら考えたのは、やはり異能のことだった。
ユリウスやモーリス、セドリックにまで協力してもらい色々と試してはいるものの、結局未だに“白昼夢のようなもの”を見ることは一度も出来ていない。ユリウス曰く、異能を発動する時にみられる“魂の震え”さえ、いっかな現れないという。“身体的接触”と、探究心などの“心、或いは感情の動き”がきっかけだろう、と、今のところ考えられているけれど、手を握ろうが相手を知りたいと思おうが、うんともすんとも反応しないので、それが当たっているのかも定かでない。
そんな分からないことだらけの状況では、ルイスが拒絶を示すのもしかたがないだろう。モーリスもセドリックも、焦る必要はない、と言ってくれるけれど。しかし、その言葉に甘えていては、何も変えることは出来ない。異能云々はもちろん、ルイスとの関係も。
積み上げるのは難しいのに、壊れるのは本当に一瞬だ。繊細な硝子細工が、ふと指先で触れただけで割れてしまうような。とても脆く、そしてひどく儚い、瞬きほどの僅かな時間。
「早くどうにかしなければいけないと、分かっているのです。今のままではいけない、と……。けれど、ただ焦りが募るばかりで、なにひとつ掴めない。それが、どうしても歯痒くてたまらないのです」
そっと目を伏せ、リリアは口を噤む。
絞り出すように語った言葉が、胸の奥に深く突き刺さって、つんとした痛みがじわりじわりと広がってゆく。あまりにも拙く、子どもじみているな、と思った。ひとりでは何も出来ず、ただ感情の渦の中で藻掻いているだけの、ひどく情けない自分。焦っていることも、不安でたまらないことも、ひとりではどうすることも出来ない。そのことが、ひどく恥ずかしい、とも思った。
けれど――。俯けていた顔を上げ、リリアは眼前に腰掛けるユリウスの、左右で色の異なる瞳を真っ直ぐに見つめながら、奥歯を噛み締める。子どもじみていても。情けなくても。それでも、必死に前へ進むしかないのだ。今出来るのは、ただそれだけなのだから。ひとりでは難しいのなら、例えみっともなくとも、格好悪くても、誰かに縋り付いて助けを乞うしかない。何かを変える為ならば。
「既にたくさんのお時間をいただいていることは、重々承知しております」
切れ長の目が、すうっと、ほんの僅かだけ細まったような気がした。琥珀色の瞳と、まるで揺れる水面の奥を透かすような、静かで深い眼差し。そこにはきっと、焦燥で震える心が鮮明に映し出されていることだろう。覆うものの何も無い、真っ裸の状態で、ありありと。
そんな彼の瞳を、しかし不思議と、怖いとは思わなかった。
「けれど、どうかもう少しだけ、私にお力を貸していただけないでしょうか」
穏やかでありながら、けれど決然としたその口調に、リリアは自分で自分に驚く。ここに来るまでの間に、何度も何度も繰り返し考えては、躊躇いすらしていたはずなのに。唇を開くと、言葉は思いの外するすると、確かな意思を持って滑り出てきた。言ってしまったからには、もう後戻りは出来ない。
ユリウスは、すぐには答えなかった。微動だにせず、ただリリアをじっと見据えている。瞳越しに、まるで何かを探るように。ひやりとした冷たい空気が背筋を撫でたような気がしたけれど、それでも、リリアは彼から目を逸らすことはしなかった。カップを包むように握った手に、ほんの僅かばかり力を込めながら。ここで逃げてはならない、と、怯みそうになるのを叱咤して。
「……それは、ルイスの為?」
漸く落ちたその言葉が、張り詰めた沈黙を震わせる。静かな水面に投じられた石粒が、小さなさざなみを作るみたいに。
リリアはこくりと頷き、そうしてゆっくりと、カップの華奢な縁に唇をつけた。呆れを含んだような吐息が、ふっと漏れる。
「前にも言ったと思うけどさあ。……君、正気なの?」
小皿の上に並べられたクッキーに指を伸ばしながら、ユリウスは「馬鹿だねえ」と小さく呟いた。まるで独り言のように。けれどそれは、嘲っているわけでも責めているわけでもなく、ただ、手に負えないものを前にした時の、静かな諦観のようにも聞こえた。
「舞踏会であんなことされて、それでもルイスの為にって思う君のその頭が、僕は理解出来ないね」
そう言って、指先に摘んでいたクッキーを頬張るユリウスから目を逸らし、リリアはデスクの後ろの壁に切られた上げ下げ窓を眺め遣る。白い窓枠、風に膨らむレース地のカーテン。色の濃い鮮やかな青空を背景に、新緑の葉をたっぷりと茂らせた欅が、心地よさそうに枝を揺らしている。
そんな長閑な真昼の光景を眺めながら、ユリウスの言っていることは尤もなのかもしれない、とリリアは静かに思う。彼の目には――或いは、クラリスやセドリックたちを含む彼らの目には――、きっとあれが、嘲笑を助長するような軽率な行為に映ったのだろうから。そうならば、何故、と訝るのも無理はない。
けれど――。そっと目を細め、白銀の揺れる美しい横顔を脳裏に思い浮かべながら、リリアは小さく自嘲をこぼす。踊ることを、手をとることを、大衆の面前で拒んだのはルイスだったけれど。でも、その原因を作ってしまったのは自分自身だ。辛くても、悲しくても。それでもあの非は、全て自分にあった。ルイスを責めるわけにはいかない。
「君さあ、何でそんなにルイスに真っ直ぐなの」
木漏れ日が揺れる枝に、白い羽根の小鳥が二羽、肩を並べて静かにとまった。丸くやわらかそうな小さな身体を、仲睦まじげに寄せ合っている彼らを微笑ましく見つめながら、リリアは澄んだ真紅の瞳に思いを馳せる。
そのまま沈黙が落ちても、ユリウスは先を急くことはせず、ただ静かに答えを待ってくれていた。クッキーを噛み砕く微かな音と、風にのって流れ込んでくる小鳥の囀り。カーテンの裾がふわりと揺れ、緑の豊かな匂いが鼻先を撫でるように通り抜けてゆく。決して重苦しくのない、ぬるま湯のようにやさしい沈黙。その中に身を、意識を浸らせ、リリアはゆっくりと瞬いた。頭の中で選んだ言葉を、ひとつひとつ丁寧に繋ぎ合わせながら。
「……殿下は私を頼って下さいました。ほんの些細なことでしたけれど」
ばたばたと羽音を響かせながら、小鳥たちが飛びだってゆく。突き抜けるほど晴れた空へ、元気いっぱいに。
「そして、教えもひとつ下さいました。それは私にとってとても大事な、心の拠り所なのです。……今はそれだけで十分ですわ」
小鳥のいなくなった枝から視線を逸らし、真向かいに腰掛けるユリウスの双眸を、ふっと穏やかな笑みを湛えながら見つめる。それは正真正銘、心からの笑みだった。混じり気のない、純粋な。
そんなリリアに、ユリウスはやれやれと肩を竦めたが、しかしすぐに、くつくつと喉を鳴らして笑った。「馬鹿だなあ」と、またもや小さく呟いて。でも今度は、どこか愉しげな口調で。
「まあ、何にせよ。ひとまず君に、ふたつだけ伝えておくよ」
ふっくらとした肘掛けに頬杖をつきながら、ユリウスはいつの間にか片手に握っていたグラスを、ゆらりと弄ぶ。そうしながらも、リリアへ向ける眼差しは、冗談のまるで感じられない、とても真摯なものだった。
「先ずひとつ目。異能の制御っていうのはね、他人の為じゃなくて、あくまで自分自身の為にするもんなんだよ。そこを履き違えないように」
そう言って、ユリウスは手にしたグラスを軽く傾ける。深い赤紫色をした葡萄酒が細く揺れ、彼はそれをひと口だけ啜った。
「そして二つ目。過度な自責はやめときな。悪くもないのに、自分で自分を責めて追い詰めるなんて、馬鹿げてる。それは愚か者のすることだよ。悪くないなら、ただ堂々としていればいいんだからさあ」
リリアは静かに瞬き、両手に包んだカップの中へ、そっと視線を落とす。ユリウスの言葉は、どれも胸に痛かった。けれどそれ以上に、とてもあたたかい。こわばっていたものを、真綿でやさしく包んでくれるような。或いは、ひどく絡み合った感情を、やわらかく解いてくれるような。
ありがとう、ごめんなさい――リリアは言葉を探しかけ、やめた。そうしてほんのりと微笑むと、小さく、けれど確かな意思を込めて、ゆっくりと首を縦に振った。彼のくれた言葉を、大切に、胸の奥にそっと沈めながら。
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