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ふたりだけの時間
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「――静養?」
きょとんと目を瞬かせ、リリアはたった今しがた聞いたばかりの言葉を繰り返す。意味は分かるけれど、でも、意味が分からないという、ちぐはぐな調子で。曇りひとつなく丁寧に磨き上げられた鏡越しに、背後に佇むクラリスへ目を遣ると、彼女は満足気に微笑みながら、力強く頷いた。薄黄色の澄んだ瞳が、斜めに差し込む清々しい朝陽に照らされているせいか、心做しか嬉しそうに、きらきらと輝いているように見える。
郊外にある別邸での静養。しかも、ルイスとともに――。
髪の毛を整える侍女の、手際の良い動きをぼんやりと眺めながら、リリアはクラリスから受けた報告を、頭の中で何度も何度も繰り返す。別邸。静養。ルイス――。けれど、そのひとつひとつをどんなに呑み込もうとしても、いまいちぴんとこなくて、全て理解の外にはじき出されてしまう。ルイスからの誘いだ、というのが、あまりにも現実味に欠けたものに感じられるせいかもしれない。折角の休息だというのに、一人でではなく二人で行くというのが、俄に信じがたかった。彼ひとりの方が、よほど心休まるだろうに――。
「私もご一緒して、本当に良いのかしら……」
「良いに決まっているじゃありませんか! きっと殿下は、リリア様とおふたりになる時間を作りたかったのですわ!」
まあ、そんなことで私は許すつもりはありませんけれど。
両手を腰に当てながらそう付け加え、クラリスは、ふん、と鼻を鳴らす。公爵家の令嬢らしからぬその仕草に、リリアは鏡越しに侍女と顔を見合わせ、そうしてどちらからともなく苦笑をこぼした。
場所は、王都から馬車で三時間ほどかかるところにある、ベルグローヴ・ハウス。期間は二泊三日を予定しており、現地には専属の世話係がいるので、王城から連れてゆくのは精鋭にのみ絞った少数の護衛のみ。
つらつらと並べられる説明のひとつひとつに頷きながら、リリアは頭の片隅に、蒼白い月に見守られながら山積みの書類を片付けるルイスの姿を思い浮かべる。恐らく出立するその直前まで、彼はひとつでも多くの政務を片付けようとするだろう。西部へ視察に向かう前ほどではなくとも。それでも、寸暇を惜しむに違いない。
それが容易に想像できるからこそ、突然の静養の誘いに、嬉しさよりも申し訳なさの方が、どうしても勝ってしまう。ふたりの時間を、という、クラリスの言葉が正しかったとしても、或いは、正しくなかったとしても。
「ベルグローヴ・ハウスは、他の別邸よりは小さいですけれど、とても美しいお屋敷だと伺っておりますよ」
ブラシを動かす手はとめずに、侍女がにこやかに微笑む。猪毛のブラシが毛先までなめらかに滑る度、薔薇のオイルのやさしく甘い香りが仄かに薫る。
王家所有の別邸は、国王が療養をしている宮殿以外にも片手の指の数以上あり、その規模や築年数は実に様々だ。数百年前に建てられたものもあれば、比較的最近造られたものもあり、王城に負けず劣らずの大きくて華美なものもあれば、質素で小ぢんまりとしたものもあるという。それでも、昔に比べればだいぶ手放した方だ、と、まだフローレット家にいた頃に誰かが噂をしているのを聞いたことがある。長く人の住んでいない家は、ただそれだけで生気を失い、驚くほどの速さで無残に朽ちてゆく。それはもちろん、巨額の資金を投じて建てられた宮殿もまた例外ではない。
「六代前の国王陛下が、愛する王妃様のために建てられたお屋敷だそうです」
その国王の精悍な顔を、リリアは鮮明に思い出すことが出来る。ボルドー色の壁に所狭しと肖像画の飾られた資料室に、何度も何度も足繁く通っている内に自然と覚えてしまったのだ。他の歴代国王夫妻の肖像画に比べ、六代前の夫妻のそれはとても親密な雰囲気がしっかりと描き込まれていたから。寄り添う二人の間には、それが絵だと分かっていても、確かな愛情が色濃く漂っているように感じられ、互いを大事に想い合っているのだな、としみじみ思ったものだ。彼らは、政略結婚が当たり前の王家では珍しい、恋愛結婚だったという。
「晩年はそこで、夫婦仲睦まじく幸せにお過ごしになったとか。殿下もきっと、リリア様とそういうお時間を過ごされたいのでしょう」
鏡越しに向けられる侍女の綻んだ視線に、リリアは曖昧な苦笑を返す。気を遣ってそう言ってくれているだろうことは、分かる。舞踏会での出来事を、もちろん彼女も知っているのだから。ダンスを踊ることを拒まれた、お飾りの王太子妃。そんな人間と、彼らのように在りたいなどと、果たしてあのルイスが望むだろうか。とてもそうとは思えないし、考えるまでもなく否定出来てしまうことが、少しだけ切なかった。
「ともあれ、初めてのご遠出なのですから」
整え終えた髪の毛を矯めつ眇めつし、問題ないことを確かめ終えたクラリスのほっそりとした右手が、ぽん、と肩に触れる。大丈夫ですよ、と、まるでそう励ますかのように。
「殿下とのお時間を、どうぞ心ゆくまで楽しまれてくださいね」
***
出立の日の朝は、思わず目を瞠るほどの、美しい快晴だった。
まるで絵の具をたっぷりと塗り広げたような、雲ひとつない、濃く鮮やかな青空。頬を撫でる穏やかな風に草花のふくよかな香りが滲み、降り注ぐ陽光はとても清潔で心地良い。
王家の紋章が刻まれた四頭立ての馬車は、珍しく王城の裏口に横付けされていた。少ない荷物を詰め込んだトランクケースを運び込む侍女、艷やかな黒毛をした馬の世話をする御者。護衛は全て顕聖隊の中から選抜されたようで、石段から馬車までの間の僅かな道に沿って一列に並ぶ彼らの左胸には、朝陽を浴びて輝く顕聖隊の印が取り付けられている。少し離れたところには、打ち合わせをしているらしいセドリックの後ろ姿があった。それから、護衛用の馬を運ぶテオの小さな横顔も。
しかしどこを探しても、ルイスの姿だけはなかった。侍女に案内されて裏口に着いた時も、隊士たちに見守られながら馬車までの道を進む間も、そして、御者が開けてくれた扉の前に立っても尚。
きょろきょろと辺りを見回していると、打ち合わせを終えたらしいセドリックが足早に駆け寄ってきた。ひどく心苦しそうな顔をして。
「申し訳ございません、リリア様。本来なら、殿下もご一緒に出立なさるはずだったのですが」
言いづらそうに目を伏せながら、セドリックは慎重に言葉を選ぶようなに、小さな間をおく。その一瞬が、妙に長く感じられた。胸の奥を、微かに冷たいものが滑り落ちてゆく。彼の表情からして、良い報せでないのは明白だった。
「実は今朝、ベルナルト王国の王子殿下が急遽ご来訪なさいまして……」
ベルナルト王国といえば、オルフェリア王国の西側に隣接する大国だ。古くから鉱山資源に恵まれ、それをもとに発展を遂げ、今や大陸でも五指に数えられるほどの繁栄を誇っている。遥か昔、オルフェリア王室から王女が嫁いだことをきっかけに、両国は強い絆を結び、幾度の時代を越えてなお変わらぬ良好な関係を育み続けている友好国のひとつだ。
そんなベルナルト王国には、二人の王子がいる。第一王子で王太子でもあるアルベリクと、第二王子のヴィクトル。“王太子”とは言われなかったことからして、恐らく訪れたのはヴィクトルの方だろう。彼が大陸各地を勝手気ままに放浪しているというのは、有名な話だ。
「そうですか。……それなら、しかたありませんね」
そう言いながら、リリアは、申し訳なさそうに眉を下げたセドリックに、気遣わしげな苦笑を返す。友好国の王子が訪れているのなら、ルイスが出立できないのも無理からぬことだ。兄を失い、父も病に臥せっている今、公務をこなせる王族は彼ひとりなのだから。
「あの……ご挨拶は、しなくて良いのでしょうか」
とはいえ、リリアもまたオルフェリア王国の王族であることに違いはない。ただの“お飾り”の王太子妃でしかないとしても、それでも他国の王族が訪れているのなら、最低限の礼儀は尽くさなくてはならないだろう。
出過ぎた真似だろうかと思いつつ、おずおずと問いかけたリリアに、セドリックはいつもの柔和な笑みを湛えてかぶりを振った。青空の下で見る彼の笑顔は、いつにも増して清々しく見える。
「殿下が、特にご挨拶は必要ないと仰っておいででした」
そう口にしてすぐ、セドリックは、はっとしたように肩を跳ねさせ、大仰に胸の前で手を振った。
「リリア様を軽んじているなどでは決してございません! ただ、その……」
気まずそうに口を噤んだセドリックに、リリアは目を瞬かせながら小首を傾げる。クラリスと同じやわらかな薄黄色の瞳が、困ったように、きょろきょろと落ち着きなく泳いでいる。眉を寄せ、何度か口を開きかけては閉じ、逡巡を繰り返す彼はとても珍しい、と思った。
やがて意を決したのか、セドリックは重たい溜息を深々と吐き出し、そうして苦笑を滲ませながら人差し指の先で頰をかいた。
「王子殿下は、無類の女好きでして……。恐らく、リリア様のお噂を耳にしていらしたのだろうと思われます」
想像だにしていなかった発言に、リリアは思わず呆気にとられ、目を丸くする。“お飾りの王太子妃”を見る為に、わざわざ王城までやって来たというのだろうか。お飾りでしかない女とはどんな奴なのだろう、と。一目見る為に、遠路遥々。
もしそうであるなら、よほどの好き者としか思えなかった。
「おかげで、殿下の機嫌がすこぶる悪く、困っているのですよ……」
呆れたような顔で肩を竦めたセドリックに、リリアは曖昧な苦笑をこぼす。自分のせいでルイスに迷惑をかけてしまっている――そう思うと、胸の奥がきゅうっと締めつけられるようだった。迷惑をかけたくない。煩わせたくない。けれど、結局何もすることの出来ない無力さに、申し訳無さだけが募ってゆく。
「どうか、王子殿下によろしくお伝えください」
そんな思いを胸の奥に押し込めながら、リリアは御者に促され、開かれた扉から馬車へ乗り込む。裾を気遣いながら席に身を収めると、入口の方から、セドリックが顔を覗かせた。
「終わり次第、殿下もすぐに参りますので。どうかご安心ください」
朗らかな彼の笑みに、リリアもまた顔を綻ばせ、ゆっくりと頷く。もしかしたら、このままルイスは来ないのかもしれない――。密かに抱いていたそんな不安を、彼はどうやらしっかりと見抜いていたらしい。
扉が閉まり、御者の合図とともに、馬車がゆったりと動き出す。いくつもの蹄が石畳を叩く乾いた音と、車輪が軋む微かな音。四角い窓の外には澄んだ青空が広がり、まばゆい朝陽が王城の白い石壁を柔らかく照らしている。すっかり見慣れた景色がゆるやかに流れ、馬車は少しずつ足を早めながら裏門へと続く道を進んでゆく。
――この先に待ち受けるものなど知る由もないリリアを、ただひとり乗せて。
きょとんと目を瞬かせ、リリアはたった今しがた聞いたばかりの言葉を繰り返す。意味は分かるけれど、でも、意味が分からないという、ちぐはぐな調子で。曇りひとつなく丁寧に磨き上げられた鏡越しに、背後に佇むクラリスへ目を遣ると、彼女は満足気に微笑みながら、力強く頷いた。薄黄色の澄んだ瞳が、斜めに差し込む清々しい朝陽に照らされているせいか、心做しか嬉しそうに、きらきらと輝いているように見える。
郊外にある別邸での静養。しかも、ルイスとともに――。
髪の毛を整える侍女の、手際の良い動きをぼんやりと眺めながら、リリアはクラリスから受けた報告を、頭の中で何度も何度も繰り返す。別邸。静養。ルイス――。けれど、そのひとつひとつをどんなに呑み込もうとしても、いまいちぴんとこなくて、全て理解の外にはじき出されてしまう。ルイスからの誘いだ、というのが、あまりにも現実味に欠けたものに感じられるせいかもしれない。折角の休息だというのに、一人でではなく二人で行くというのが、俄に信じがたかった。彼ひとりの方が、よほど心休まるだろうに――。
「私もご一緒して、本当に良いのかしら……」
「良いに決まっているじゃありませんか! きっと殿下は、リリア様とおふたりになる時間を作りたかったのですわ!」
まあ、そんなことで私は許すつもりはありませんけれど。
両手を腰に当てながらそう付け加え、クラリスは、ふん、と鼻を鳴らす。公爵家の令嬢らしからぬその仕草に、リリアは鏡越しに侍女と顔を見合わせ、そうしてどちらからともなく苦笑をこぼした。
場所は、王都から馬車で三時間ほどかかるところにある、ベルグローヴ・ハウス。期間は二泊三日を予定しており、現地には専属の世話係がいるので、王城から連れてゆくのは精鋭にのみ絞った少数の護衛のみ。
つらつらと並べられる説明のひとつひとつに頷きながら、リリアは頭の片隅に、蒼白い月に見守られながら山積みの書類を片付けるルイスの姿を思い浮かべる。恐らく出立するその直前まで、彼はひとつでも多くの政務を片付けようとするだろう。西部へ視察に向かう前ほどではなくとも。それでも、寸暇を惜しむに違いない。
それが容易に想像できるからこそ、突然の静養の誘いに、嬉しさよりも申し訳なさの方が、どうしても勝ってしまう。ふたりの時間を、という、クラリスの言葉が正しかったとしても、或いは、正しくなかったとしても。
「ベルグローヴ・ハウスは、他の別邸よりは小さいですけれど、とても美しいお屋敷だと伺っておりますよ」
ブラシを動かす手はとめずに、侍女がにこやかに微笑む。猪毛のブラシが毛先までなめらかに滑る度、薔薇のオイルのやさしく甘い香りが仄かに薫る。
王家所有の別邸は、国王が療養をしている宮殿以外にも片手の指の数以上あり、その規模や築年数は実に様々だ。数百年前に建てられたものもあれば、比較的最近造られたものもあり、王城に負けず劣らずの大きくて華美なものもあれば、質素で小ぢんまりとしたものもあるという。それでも、昔に比べればだいぶ手放した方だ、と、まだフローレット家にいた頃に誰かが噂をしているのを聞いたことがある。長く人の住んでいない家は、ただそれだけで生気を失い、驚くほどの速さで無残に朽ちてゆく。それはもちろん、巨額の資金を投じて建てられた宮殿もまた例外ではない。
「六代前の国王陛下が、愛する王妃様のために建てられたお屋敷だそうです」
その国王の精悍な顔を、リリアは鮮明に思い出すことが出来る。ボルドー色の壁に所狭しと肖像画の飾られた資料室に、何度も何度も足繁く通っている内に自然と覚えてしまったのだ。他の歴代国王夫妻の肖像画に比べ、六代前の夫妻のそれはとても親密な雰囲気がしっかりと描き込まれていたから。寄り添う二人の間には、それが絵だと分かっていても、確かな愛情が色濃く漂っているように感じられ、互いを大事に想い合っているのだな、としみじみ思ったものだ。彼らは、政略結婚が当たり前の王家では珍しい、恋愛結婚だったという。
「晩年はそこで、夫婦仲睦まじく幸せにお過ごしになったとか。殿下もきっと、リリア様とそういうお時間を過ごされたいのでしょう」
鏡越しに向けられる侍女の綻んだ視線に、リリアは曖昧な苦笑を返す。気を遣ってそう言ってくれているだろうことは、分かる。舞踏会での出来事を、もちろん彼女も知っているのだから。ダンスを踊ることを拒まれた、お飾りの王太子妃。そんな人間と、彼らのように在りたいなどと、果たしてあのルイスが望むだろうか。とてもそうとは思えないし、考えるまでもなく否定出来てしまうことが、少しだけ切なかった。
「ともあれ、初めてのご遠出なのですから」
整え終えた髪の毛を矯めつ眇めつし、問題ないことを確かめ終えたクラリスのほっそりとした右手が、ぽん、と肩に触れる。大丈夫ですよ、と、まるでそう励ますかのように。
「殿下とのお時間を、どうぞ心ゆくまで楽しまれてくださいね」
***
出立の日の朝は、思わず目を瞠るほどの、美しい快晴だった。
まるで絵の具をたっぷりと塗り広げたような、雲ひとつない、濃く鮮やかな青空。頬を撫でる穏やかな風に草花のふくよかな香りが滲み、降り注ぐ陽光はとても清潔で心地良い。
王家の紋章が刻まれた四頭立ての馬車は、珍しく王城の裏口に横付けされていた。少ない荷物を詰め込んだトランクケースを運び込む侍女、艷やかな黒毛をした馬の世話をする御者。護衛は全て顕聖隊の中から選抜されたようで、石段から馬車までの間の僅かな道に沿って一列に並ぶ彼らの左胸には、朝陽を浴びて輝く顕聖隊の印が取り付けられている。少し離れたところには、打ち合わせをしているらしいセドリックの後ろ姿があった。それから、護衛用の馬を運ぶテオの小さな横顔も。
しかしどこを探しても、ルイスの姿だけはなかった。侍女に案内されて裏口に着いた時も、隊士たちに見守られながら馬車までの道を進む間も、そして、御者が開けてくれた扉の前に立っても尚。
きょろきょろと辺りを見回していると、打ち合わせを終えたらしいセドリックが足早に駆け寄ってきた。ひどく心苦しそうな顔をして。
「申し訳ございません、リリア様。本来なら、殿下もご一緒に出立なさるはずだったのですが」
言いづらそうに目を伏せながら、セドリックは慎重に言葉を選ぶようなに、小さな間をおく。その一瞬が、妙に長く感じられた。胸の奥を、微かに冷たいものが滑り落ちてゆく。彼の表情からして、良い報せでないのは明白だった。
「実は今朝、ベルナルト王国の王子殿下が急遽ご来訪なさいまして……」
ベルナルト王国といえば、オルフェリア王国の西側に隣接する大国だ。古くから鉱山資源に恵まれ、それをもとに発展を遂げ、今や大陸でも五指に数えられるほどの繁栄を誇っている。遥か昔、オルフェリア王室から王女が嫁いだことをきっかけに、両国は強い絆を結び、幾度の時代を越えてなお変わらぬ良好な関係を育み続けている友好国のひとつだ。
そんなベルナルト王国には、二人の王子がいる。第一王子で王太子でもあるアルベリクと、第二王子のヴィクトル。“王太子”とは言われなかったことからして、恐らく訪れたのはヴィクトルの方だろう。彼が大陸各地を勝手気ままに放浪しているというのは、有名な話だ。
「そうですか。……それなら、しかたありませんね」
そう言いながら、リリアは、申し訳なさそうに眉を下げたセドリックに、気遣わしげな苦笑を返す。友好国の王子が訪れているのなら、ルイスが出立できないのも無理からぬことだ。兄を失い、父も病に臥せっている今、公務をこなせる王族は彼ひとりなのだから。
「あの……ご挨拶は、しなくて良いのでしょうか」
とはいえ、リリアもまたオルフェリア王国の王族であることに違いはない。ただの“お飾り”の王太子妃でしかないとしても、それでも他国の王族が訪れているのなら、最低限の礼儀は尽くさなくてはならないだろう。
出過ぎた真似だろうかと思いつつ、おずおずと問いかけたリリアに、セドリックはいつもの柔和な笑みを湛えてかぶりを振った。青空の下で見る彼の笑顔は、いつにも増して清々しく見える。
「殿下が、特にご挨拶は必要ないと仰っておいででした」
そう口にしてすぐ、セドリックは、はっとしたように肩を跳ねさせ、大仰に胸の前で手を振った。
「リリア様を軽んじているなどでは決してございません! ただ、その……」
気まずそうに口を噤んだセドリックに、リリアは目を瞬かせながら小首を傾げる。クラリスと同じやわらかな薄黄色の瞳が、困ったように、きょろきょろと落ち着きなく泳いでいる。眉を寄せ、何度か口を開きかけては閉じ、逡巡を繰り返す彼はとても珍しい、と思った。
やがて意を決したのか、セドリックは重たい溜息を深々と吐き出し、そうして苦笑を滲ませながら人差し指の先で頰をかいた。
「王子殿下は、無類の女好きでして……。恐らく、リリア様のお噂を耳にしていらしたのだろうと思われます」
想像だにしていなかった発言に、リリアは思わず呆気にとられ、目を丸くする。“お飾りの王太子妃”を見る為に、わざわざ王城までやって来たというのだろうか。お飾りでしかない女とはどんな奴なのだろう、と。一目見る為に、遠路遥々。
もしそうであるなら、よほどの好き者としか思えなかった。
「おかげで、殿下の機嫌がすこぶる悪く、困っているのですよ……」
呆れたような顔で肩を竦めたセドリックに、リリアは曖昧な苦笑をこぼす。自分のせいでルイスに迷惑をかけてしまっている――そう思うと、胸の奥がきゅうっと締めつけられるようだった。迷惑をかけたくない。煩わせたくない。けれど、結局何もすることの出来ない無力さに、申し訳無さだけが募ってゆく。
「どうか、王子殿下によろしくお伝えください」
そんな思いを胸の奥に押し込めながら、リリアは御者に促され、開かれた扉から馬車へ乗り込む。裾を気遣いながら席に身を収めると、入口の方から、セドリックが顔を覗かせた。
「終わり次第、殿下もすぐに参りますので。どうかご安心ください」
朗らかな彼の笑みに、リリアもまた顔を綻ばせ、ゆっくりと頷く。もしかしたら、このままルイスは来ないのかもしれない――。密かに抱いていたそんな不安を、彼はどうやらしっかりと見抜いていたらしい。
扉が閉まり、御者の合図とともに、馬車がゆったりと動き出す。いくつもの蹄が石畳を叩く乾いた音と、車輪が軋む微かな音。四角い窓の外には澄んだ青空が広がり、まばゆい朝陽が王城の白い石壁を柔らかく照らしている。すっかり見慣れた景色がゆるやかに流れ、馬車は少しずつ足を早めながら裏門へと続く道を進んでゆく。
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