亡き姉を演じ初恋の人の妻となった私は、その日、“私”を捨てた

榛乃

文字の大きさ
22 / 50
Main story ¦ リシェル

22

しおりを挟む
 色とりどりのルピナスはもちろん、小ぶりな噴水も、蔓薔薇の茂ったガゼボも、大理石のオブジェも、そこにはなかった。私は呆然とし、その夢か現か分からない幻想的な風景に見惚れる。辺りはひっそりと静まり返っていた。何の音もない。けれど、しんしんと降り積もるような、澄んだ静けさの“音”だけが、どこからともなく聞こえてくるような気がした。

 殆ど無意識に、ふらりと足が動く。ぽっかりと浮かぶ大きな月に吸い寄せられるように。蒼白い光をほんのりと纏ったような瑞々しい芝生の上を、ゆらり、ゆらりと。涙はいつの間にかとまっていた。幻想的な美しさに圧倒されて。立ち込める甘やかな香りと、薄青い鱗粉。それらに紛れ、綿毛のようなやわらかな何かが、宙でふわふわと踊っている。蝶にも劣らぬ婉美さで。

 数歩進んで足をとめ、辺り一面を覆い尽くす白い花畑を、その上を泳ぐように飛ぶ蝶をぼんやりと眺める。それから、ふと足元に視線を落とし、気持ちよさそうにそよぐ白い花の、その愛らしい姿に目をとめる。ぷっくりと肉厚的な緑色の葉、中央はすぼまり、外側へいくほど少しずつ先を反り返らせた白い花弁。まるで天使のようなその一重咲きの花は、どこからどう見ても、チューリップだった。純粋無垢そのもののようなその可憐な花をじっと見つめ、私は思わず息を呑む。夢幻のように佳麗だからでも、あどけなくて儚いからでもなく――それは、この世で私が最も深く愛してやまない花だったから。

「リシェル」

 笑えば良い、と、彼は言ったけれど――。そっと指先をのばし、絹のようになめらかな白い花弁に軽く触れながら思う。なんて無茶なことを言うのだろう、と。そんなこと出来るはずがないと分かっているくせに、と。思えば思うほど、胸の奥底から途方もなく大きな感情が、どっと押し寄せてくる。堪らえようとして唇をきつく噛み締めるけれど、それはどうしてもうまくいかなかった。花弁に添えられた指先が、微かに震えている。視界が再び滲み始め、愛愛しい花の輪郭がぼんやりとしてゆく。私がこの世で最も深く愛する、天使のように清らかな花。

「――誕生日、おめでとう」

 今日一日で、もう何度も何度も聞いたその言葉は、でも、全く違う響きとあたたかさで、鼓膜にじんわりと溶けて広がってゆく。なんて穏やかな声なんだろう。なんてやさしい言葉なんだろう。
 折角とまっていた涙が堰を切ったように溢れ出し、私は嗚咽しながら、彼のくれた言葉を、頭の中でただただ繰り返す。誕生日、おめでとう。誕生日。おめでとう。――リシェル。
しおりを挟む
感想 7

あなたにおすすめの小説

氷の貴婦人

恋愛
ソフィは幸せな結婚を目の前に控えていた。弾んでいた心を打ち砕かれたのは、結婚相手のアトレーと姉がベッドに居る姿を見た時だった。 呆然としたまま結婚式の日を迎え、その日から彼女の心は壊れていく。 感情が麻痺してしまい、すべてがかすみ越しの出来事に思える。そして、あんなに好きだったアトレーを見ると吐き気をもよおすようになった。 毒の強めなお話で、大人向けテイストです。

私たちの離婚幸福論

桔梗
ファンタジー
ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。 しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。 彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。 信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。 だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。 それは救済か、あるいは—— 真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。

真実の愛がどうなろうと関係ありません。

希猫 ゆうみ
恋愛
伯爵令息サディアスはメイドのリディと恋に落ちた。 婚約者であった伯爵令嬢フェルネは無残にも婚約を解消されてしまう。 「僕はリディと真実の愛を貫く。誰にも邪魔はさせない!」 サディアスの両親エヴァンズ伯爵夫妻は激怒し、息子を勘当、追放する。 それもそのはずで、フェルネは王家の血を引く名門貴族パートランド伯爵家の一人娘だった。 サディアスからの一方的な婚約解消は決して許されない裏切りだったのだ。 一ヶ月後、愛を信じないフェルネに新たな求婚者が現れる。 若きバラクロフ侯爵レジナルド。 「あら、あなたも真実の愛を実らせようって仰いますの?」 フェルネの曾祖母シャーリンとレジナルドの祖父アルフォンス卿には悲恋の歴史がある。 「子孫の我々が結婚しようと関係ない。聡明な妻が欲しいだけだ」 互いに塩対応だったはずが、気づくとクーデレ夫婦になっていたフェルネとレジナルド。 その頃、真実の愛を貫いたはずのサディアスは…… (予定より長くなってしまった為、完結に伴い短編→長編に変更しました)

壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。 妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪 何気ない日常のひと幕が、 思いもよらない“ひび”を生んでいく。 母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。 誰も気づきがないまま、 家族のかたちが静かに崩れていく――。 壊れていく音を聞きながら、 それでも誰かを思うことはできるのか。

侯爵家の婚約者

やまだごんた
恋愛
侯爵家の嫡男カインは、自分を見向きもしない母に、なんとか認められようと努力を続ける。 7歳の誕生日を王宮で祝ってもらっていたが、自分以外の子供を可愛がる母の姿をみて、魔力を暴走させる。 その場の全員が死を覚悟したその時、1人の少女ジルダがカインの魔力を吸収して救ってくれた。 カインが魔力を暴走させないよう、王はカインとジルダを婚約させ、定期的な魔力吸収を命じる。 家族から冷たくされていたジルダに、カインは母から愛されない自分の寂しさを重ね、よき婚約者になろうと努力する。 だが、母が死に際に枕元にジルダを呼んだのを知り、ジルダもまた自分を裏切ったのだと絶望する。 17歳になった2人は、翌年の結婚を控えていたが、関係は歪なままだった。 そんな中、カインは仕事中に魔獣に攻撃され、死にかけていたところを救ってくれたイレリアという美しい少女と出会い、心を通わせていく。 全86話+番外編の予定

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

今さらやり直しは出来ません

mock
恋愛
3年付き合った斉藤翔平からプロポーズを受けれるかもと心弾ませた小泉彩だったが、当日仕事でどうしても行けないと断りのメールが入り意気消沈してしまう。 落胆しつつ帰る道中、送り主である彼が見知らぬ女性と歩く姿を目撃し、いてもたってもいられず後を追うと二人はさっきまで自身が待っていたホテルへと入っていく。 そんなある日、夢に出てきた高木健人との再会を果たした彩の運命は少しずつ変わっていき……

王太子妃は離婚したい

凛江
恋愛
アルゴン国の第二王女フレイアは、婚約者であり、幼い頃より想いを寄せていた隣国テルルの王太子セレンに嫁ぐ。 だが、期待を胸に臨んだ婚姻の日、待っていたのは夫セレンの冷たい瞳だった。 ※この作品は、読んでいただいた皆さまのおかげで書籍化することができました。 綺麗なイラストまでつけていただき感無量です。 これまで応援いただき、本当にありがとうございました。 レジーナのサイトで番外編が読めますので、そちらものぞいていただけると嬉しいです。 https://www.regina-books.com/extra/login

処理中です...