40 / 50
Side story ¦ ルシウス
09
しおりを挟む
亡き妻の身代わりとしてアルベルトのもとに嫁いだ彼女は、そう時間を要することもなく、食事の仕方や、お茶の飲み方や、微笑み方、首の傾げ方といった細かな仕草のひとつひとつに至るまで、完璧に“オリヴィア”を演じきるようになった。同化していた、とも言うのかもしれない。「オリヴィア」と呼ばれることに慣れてしまったせいか、「リシェル」と呼んでも気付かない時さえあるほど。身につけているもの――嘗てオリヴィアが着ていたドレス――のせいで、俺ですら思わずぞくりとしてしまうほど、彼女は完璧なまでに“オリヴィア”そのものとなっていた。瞳の色と泣きぼくろの違いをそのままにしていなければ、俺の目からも“リシェル”はいなくなっていたかもしれない。
それでも、そんな彼女であろうとも、俺は絶対に護り抜こうと思っていた――はず、だった。どんな手を使ってでも。周りにどう思われようとも。
けれど俺は結局、彼女を救うことが出来なかった。護ることは出来なかった。“オリヴィア”として生活してゆく中で、彼女は日に日に生気を失ってゆくばかりで、心はすっかり傷だらけになってしまっていたのだから。取り返しのつかないところまで。壊れていった、と言った方が正しいのかもしれない。狂うというよりも、壊れた。正常な精神も、やさしく純粋だった心も、何もかもが粉々に。
ひどくやつれ、痛ましいほど壊れてしまった彼女を前に、俺は自分の過ちを認めざるを得なかった。リシェルが大事なら。彼女を護りたいのなら。たとえ友情に罅が入ろうとも、“オリヴィア”になることをやめさせるべきだったのだ。絶対にそうさせてはいけなかったのだ。そして――あの時に、俺は無理矢理にでも彼女を攫うべきだった。侯爵家から、伯爵家から、アルベルトから、そしてオリヴィアの亡霊から。たとえリシェルが嫌がろうと、泣き叫ぼうと、関係なく。そんなものはまるで無視して。あの時強引に、俺は彼女を攫うべきだったのだ。
そう、だから――
「……彼女を、連れ出してくれないか」
アルベルトの発した言葉を呑み込むより先に、俺は激しい衝動に突き動かされるまま、彼の胸倉を掴んで床に押し倒していた。久しぶりに訪れた彼の執務室の、臙脂の絨毯の敷き詰められた床に。理解と感情は後から追いついてきたものの、そうなればそうなるほど、身体中が沸騰しているみたいに熱くなり、胸倉をきつく握り締める手が震えた。歯を立てた唇の合間から、荒々しい吐息がこぼれる。馬乗りになった俺の下で、アルベルトは怯えるでも怒るでもなく、ただ悲しそうに微笑んでいた。
「お前、全部分かってっ……!」
このままこいつを殴れれば、どんなにいいだろう。殴りたくてたまらなかった。哀れに歪んだ顔を、殴って、殴って――。
こいつは全部知っていたのだ。恐らくは初めから。戻ってきたオリヴィアが“オリヴィア”ではないことを。その人物が彼女の双子の妹であるリシェルであることを。この男は知っていたのだ。知っていて、それを受け入れていた。“狂った夫”を演じながら。
そんな男を殴らずにいられるわけがない。殴らずにどうしろというのだろう。けれど、身の内を暴れ回る憤怒を、俺は舌打ちを吐き捨てるだけに留めて、必死に抑え込んだ。拳を振り下ろしたところでどうにもならないと、頭の片隅の、微かに残った冷静な部分では、そう分かっていたから。
それでも、そんな彼女であろうとも、俺は絶対に護り抜こうと思っていた――はず、だった。どんな手を使ってでも。周りにどう思われようとも。
けれど俺は結局、彼女を救うことが出来なかった。護ることは出来なかった。“オリヴィア”として生活してゆく中で、彼女は日に日に生気を失ってゆくばかりで、心はすっかり傷だらけになってしまっていたのだから。取り返しのつかないところまで。壊れていった、と言った方が正しいのかもしれない。狂うというよりも、壊れた。正常な精神も、やさしく純粋だった心も、何もかもが粉々に。
ひどくやつれ、痛ましいほど壊れてしまった彼女を前に、俺は自分の過ちを認めざるを得なかった。リシェルが大事なら。彼女を護りたいのなら。たとえ友情に罅が入ろうとも、“オリヴィア”になることをやめさせるべきだったのだ。絶対にそうさせてはいけなかったのだ。そして――あの時に、俺は無理矢理にでも彼女を攫うべきだった。侯爵家から、伯爵家から、アルベルトから、そしてオリヴィアの亡霊から。たとえリシェルが嫌がろうと、泣き叫ぼうと、関係なく。そんなものはまるで無視して。あの時強引に、俺は彼女を攫うべきだったのだ。
そう、だから――
「……彼女を、連れ出してくれないか」
アルベルトの発した言葉を呑み込むより先に、俺は激しい衝動に突き動かされるまま、彼の胸倉を掴んで床に押し倒していた。久しぶりに訪れた彼の執務室の、臙脂の絨毯の敷き詰められた床に。理解と感情は後から追いついてきたものの、そうなればそうなるほど、身体中が沸騰しているみたいに熱くなり、胸倉をきつく握り締める手が震えた。歯を立てた唇の合間から、荒々しい吐息がこぼれる。馬乗りになった俺の下で、アルベルトは怯えるでも怒るでもなく、ただ悲しそうに微笑んでいた。
「お前、全部分かってっ……!」
このままこいつを殴れれば、どんなにいいだろう。殴りたくてたまらなかった。哀れに歪んだ顔を、殴って、殴って――。
こいつは全部知っていたのだ。恐らくは初めから。戻ってきたオリヴィアが“オリヴィア”ではないことを。その人物が彼女の双子の妹であるリシェルであることを。この男は知っていたのだ。知っていて、それを受け入れていた。“狂った夫”を演じながら。
そんな男を殴らずにいられるわけがない。殴らずにどうしろというのだろう。けれど、身の内を暴れ回る憤怒を、俺は舌打ちを吐き捨てるだけに留めて、必死に抑え込んだ。拳を振り下ろしたところでどうにもならないと、頭の片隅の、微かに残った冷静な部分では、そう分かっていたから。
84
あなたにおすすめの小説
氷の貴婦人
羊
恋愛
ソフィは幸せな結婚を目の前に控えていた。弾んでいた心を打ち砕かれたのは、結婚相手のアトレーと姉がベッドに居る姿を見た時だった。
呆然としたまま結婚式の日を迎え、その日から彼女の心は壊れていく。
感情が麻痺してしまい、すべてがかすみ越しの出来事に思える。そして、あんなに好きだったアトレーを見ると吐き気をもよおすようになった。
毒の強めなお話で、大人向けテイストです。
結婚初夜、「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と夫に言われました
ましゅぺちーの
恋愛
侯爵令嬢のアリサは婚約者だった王太子テオドールと結婚した。
ちょうどその半年前、アリサの腹違いの妹のシアは不慮の事故で帰らぬ人となっていた。
王太子が婚約者の妹のシアを愛していたのは周知の事実だった。
そんな彼は、結婚初夜、アリサに冷たく言い放った。
「何故彼女が死んでお前が生きているんだ」と。
貴方が選んだのは全てを捧げて貴方を愛した私ではありませんでした
ましゅぺちーの
恋愛
王国の名門公爵家の出身であるエレンは幼い頃から婚約者候補である第一王子殿下に全てを捧げて生きてきた。
彼を数々の悪意から守り、彼の敵を排除した。それも全ては愛する彼のため。
しかし、王太子となった彼が最終的には選んだのはエレンではない平民の女だった。
悲しみに暮れたエレンだったが、家族や幼馴染の公爵令息に支えられて元気を取り戻していく。
その一方エレンを捨てた王太子は着々と破滅への道を進んでいた・・・
家出を決行した結果
棗
恋愛
フィービーの婚約者ミゲルには大切な幼馴染がいる。病弱な幼馴染をいつも優先するミゲルや母が亡くなって以降溝が出来てしまった父と兄との関係にフィービーは疲れていた。
デートの約束をしてもいつも直前になって幼馴染を理由にキャンセルされ、幼馴染にしか感情を見せないミゲルを、フィービーを見ようとしない父や兄を捨てる決心をしたフィービーは侍女や執事の手を借りて家出を決行した。
自分を誰も知らない遠い場所へ行ったフィービーは、新しい人生の幕開けに期待に胸を躍らせた。
※なろうさんにも公開しています。
私を裏切った夫が、後悔しているようですが知りません
藤原遊
恋愛
政略結婚として、公爵家に嫁いだ私は
愛のない夫婦関係を「仕事」だと思い、正妻の役目を果たしてきた。
夫が愛人を持つことも、
その子を屋敷に迎え入れることも、黙って受け入れてきた。
けれど――
跡取りを、正妻の子ではなく愛人の子にする。
その言葉を、人前で軽く口にした瞬間。
私は悟ったのだ。
この家では、息子を守れないと。
元々、実家との間には
「嫡子以外の子は実家の跡取りにする」という取り決めがあった。
ならば話は簡単だ。
役目を終えた私は、離縁を選ぶ。
息子と共に、この家を去るだけ。
後悔しているようですが――
もう、私の知るところではありません。
白い結婚を捨てた王妃は、もう二度と振り向かない ――愛さぬと言った王子が全てを失うまで』
鍛高譚
恋愛
「私は王妃を愛さない。彼女とは白い結婚を誓う」
華やかな王宮の大聖堂で交わされたのは、愛の誓いではなく、冷たい拒絶の言葉だった。
王子アルフォンスの婚姻相手として選ばれたレイチェル・ウィンザー。しかし彼女は、王妃としての立場を与えられながらも、夫からも宮廷からも冷遇され、孤独な日々を強いられる。王の寵愛はすべて聖女ミレイユに注がれ、王宮の権力は彼女の手に落ちていった。侮蔑と屈辱に耐える中、レイチェルは誇りを失わず、密かに反撃の機会をうかがう。
そんな折、隣国の公爵アレクサンダーが彼女の前に現れる。「君の目はまだ死んでいないな」――その言葉に、彼女の中で何かが目覚める。彼はレイチェルに自由と新たな未来を提示し、密かに王宮からの脱出を計画する。
レイチェルが去ったことで、王宮は急速に崩壊していく。聖女ミレイユの策略が暴かれ、アルフォンスは自らの過ちに気づくも、時すでに遅し。彼が頼るべき王妃は、もはや遠く、隣国で新たな人生を歩んでいた。
「お願いだ……戻ってきてくれ……」
王国を失い、誇りを失い、全てを失った王子の懇願に、レイチェルはただ冷たく微笑む。
「もう遅いわ」
愛のない結婚を捨て、誇り高き未来へと進む王妃のざまぁ劇。
裏切りと策略が渦巻く宮廷で、彼女は己の運命を切り開く。
これは、偽りの婚姻から真の誓いへと至る、誇り高き王妃の物語。
幼馴染に夢中の夫を捨てた貴婦人は、王太子に熱愛される
Narian
恋愛
アイリスの夫ロイは、新婚の頃から金髪の愛らしい幼馴染・フローラに夢中で、妻には見向きもしなかった。
夫からは蔑ろにされ、夫の両親からは罵られ、フローラからは見下される日々。そしてアイリスは、ついに決意する。
「それほど幼馴染が大切なら、どうぞご自由に。私は出て行って差し上げます」
これは、虐げられた主人公が、過去を断ち切り幸せを掴む物語。
※19話完結。
毎日夜9時ごろに投稿予定です。朝に投稿することも。お気に入り登録していただけたら嬉しいです♪
平民の方が好きと言われた私は、あなたを愛することをやめました
天宮有
恋愛
公爵令嬢の私ルーナは、婚約者ラドン王子に「お前より平民の方が好きだ」と言われてしまう。
平民を新しい婚約者にするため、ラドン王子は私から婚約破棄を言い渡して欲しいようだ。
家族もラドン王子の酷さから納得して、言うとおり私の方から婚約を破棄した。
愛することをやめた結果、ラドン王子は後悔することとなる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる