祈りの日々ー家族の闘病記ー

草加奈呼

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昭和××年 四月二十九日

1・昏睡

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 娘の小夜さよが、朝になっても起きて来ない。

 妻の話では、昨夜から急に熱が出て、元気がなくなってしまったとのこと。夜8時過ぎから38度7分の熱があり、ミルクを飲んで寝たのだが、それも暫くして吐いてしまったらしい。
 風邪をひいたりした時にミルクを吐くのは、娘の小夜に限ったことではない。そんな話は当然のことのように世間話で聞かされていた。だから私は、熱さえ下がれば元気になり、食欲も取り戻せると考えていた。
 事実、小夜が1歳9ヵ月になる今日までにも、何度も風邪をひいて熱を出したことがある。その度に医者通いはしたものの、熱が下がれば急に食欲が出て、案外あっさり治ってしまうことが多かったのだ。

 昨夜の座薬の効果もあってか、額に手をやると熱は殆ど下がっていた。
 いつもなら、少々眠くても、腫れぼったい瞼をこすりながらベッドから下りて来て「ママ、オシッコ」などと言う筈なのだ。

 普段なら、長男の里志さとし(5歳)が保育園へ通っているので、その登園準備に忙しい時間ではあった。しかし今日は祭日なのでそれもなく、起きて来ない小夜を除いて、ゆっくりと三人で朝食を取っていた。
 現在、私は学校などを上空から撮影する航空写真の営業をやっている。日曜祭日は学校回りも出来ないので、今日は私自身も体が空いていた。また、妻の内職の紳士服の仕事も、工場が休みで割当てがなかった。なので今日は、名実共に我が家の休日と言える日であろう。

 私の郷里には、私の両親と祖母と、弟夫婦と2歳になる弟の息子、そして末の妹が住んでいる。
 少し前から祖母が床に就いてしまい、92歳という高齢であることから、もう祖母の生命も風前の灯だろうと、数日前に主な親戚が集められた。もちろん、私たち家族も駆けつけた。
 そして、今日のような休日に、もう一度祖母を見舞っておきたいと考えていた。

 それに私は、もう一つ大きな、生涯の分岐点ともなり得る問題を抱えている。
 それは、喫茶店の開業だ。
 新築の貸店舗を借りる約束も成立し、仕事の合間を見ては、その準備に奔走して、借金の手はずまで整えて来た。ここらで何とか一旗揚げねばと、妻も意気込んで私を応援している。そろそろ敷金など支払って、内装を始めなければならない。なので、祖母を見舞ってから家主のところへ行って来ようかと、食事をしながら話し合った。

 だが、10時を過ぎても小夜が起きて来ない。

 それどころか、長男の里志が大声を出してはしゃいだりしても、びくともせずに眠りこけているのだ。
 いよいよ不思議に思って再び小夜の額に手を当てて見たが、やはり熱は殆どなさそうである。不安になって、私は「小夜、小夜」と呼びながら、軽く布団の上から叩いてみた。
 すると、うつろな目を開けて私を見たが、またすぐに目を閉じて眠ってしまう。
「強く頭を打ったとか、首を捻ったりしたことはなかったのか」
 と、私は妻に訊いた。
 だが、そんな覚えはないと言う。なんだか私は、小夜の脳に異常があるように感じられたのだ。

 それから、慌ててかかりつけの病院へ車を走らせた。
 妻に抱かれながら「いたい、いたい」と、小夜が全く元気のないうわごとのような声を出している。
「小夜、どこが痛いの」と、妻が訊いても、何も答えずにまた眠ってしまう。
 一体どうしたというのだろう。

 病院は祭日のため一般の診察は休んでいて、患者は誰もいなかった。平日は、いつも院長が診てくれるのだが、今日は若い医者であった。
 妻が、昨夜からの容態を手短に説明すると、
「元気がないから、脱水症状気味かもしれない」と言って、点滴をすることになった。
 処置室の小さなベッドに寝かされた小夜は、青白くなった顔を見せて仰臥している。そして、何をしてもびくともせずに眠っている。
 小夜の血管が細いために、腕のあちこちに針を刺しては失敗してやり直している看護師を見ると、なぜか憎らしく思えてならない。
 やっとの思いで、手の甲から手首の関節あたりに刺して成功したが、その間小夜は「いたい、いたい」と、目を閉じたままで口走っていた。

「この子は、痛い痛いって言いながら眠ってるから、度胸があるのねえ」
 と、看護師が言う。
「それだけ抵抗する元気がなくなってるんじゃないですか」
 と、私はやや反抗的に言った。

 点滴は5時間もかかると言うので、その場は妻に任せて、里志と私は一旦家に帰ることにした。

 家に帰ると里志は、妻の両親に買ってもらった、電池式の電車の玩具で遊ぼうと言うので、絨毯の上にレールを敷くのを手伝った。
 単線あり、複線あり、高架あり、鉄橋、トンネル、踏切、駅、転轍機ありと、結構面白く遊べる玩具で、大人の私がややもすると、5歳の里志と同じように、いや、それ以上に楽しんでいた。
 ひかり号や地下鉄、そして汽車などと、幾つもの車輌を一度に走らせる。衝突を避けるために、うまく駅に停車させて時間を稼いだり、転轍機の操作によって別の線路を走らせたりしなければならないので、結構難しい遊びだ。時々私も失敗して衝突させてしまうことがある。
 そんな時、里志は「お父さんの下手くそ」と言って、真顔で私を叱りつける。それがまた可愛くて仕様がない私であった。
 そんな我が息子の遊び相手をしながらも、病院で手当てを受けている我が娘、小夜のことが気がかりでもある。
 どうか大した病気ではないように、そして点滴を済ませた後は、嘘のように元気になってくれますように。などと祈るように心の内で願っていた。

 そして同時に、里志も吐き下しで点滴を受けたことが何度もあって、そのたびに不安な思いをしたことを回想しなければならなかった。
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