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昭和××年 四月二十九日
2・回想
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忘れられないことがある。
それは、13日もの長い間、殆ど絶食に近い加療を、幼い里志に対して強いなければならないほど、ひどい下痢が続いた時のことであった。
里志が3歳になろうとする頃、突然消化不良を起こして、水のような便をするようになった。直ちに、いわゆる病人食である重湯に近いほどの薄い米粥などの食物に切り替えた。だが一夜明けても症状が変わらず、掛かりつけの病院へと駆け込んだ。
検便、血液検査などの結果、消化不良以外の忌まわしい病気ではないと知って、どうにか安心した。しかし、「重湯以外の一切の食物、飲料水など与えてはならない」という院長の指示があった。
親が心を鬼にしなければ子供の病気は治療できない、と言われた時の、あの院長の患者に対する熱意に、私は今でも拝礼の念を抱いている。
それからは毎日通院しなければならなくなり、そのたびに長時間を要する点滴を受けた。しかし里志の激しい下痢は、一向に治まることなく続いた。そのくせ食欲だけは旺盛だった。何を見ても食べたがる里志に対して何も食べさせられないことは、親として耐え難い苦痛であった。
最初の3日間くらいは、妻も私も里志が可哀想だからと言って、里志と同じように重湯と味噌汁の上澄みだけを啜るという、哀れな食事をしていた。しかし、親も一緒に病気になってしまったら子供の看病もできないと考え直し、妻は台所で立ったまま慌ただしく食事をし、私も妻と交替に、里志の目の届かない場所に隠れて、息を潜めるように栄養を流し込んだ。
1週間目にもなると、少量の重湯だけしか与えられずに、空腹感に苛まれている里志は、
「ネギ、一つだけちょうだい」
と、味噌汁に入っているだろうということを想像してか、欲しがって泣いた。
「わかめ、ちょうだい」「大根がほしい」などと、食事のたびに涙を流し始めた。空腹が過ぎると鼻の方が敏感になるという。里志に与える味噌汁の上澄みには何も入っていないのに、こしらえるときに入れた、わかめや葱の匂いを嗅ぎ分けられるようになってしまったのだろうか。
「葱なんか、今までそんなに欲しがったこともないのに」
と、妻が絶句した。
ある時、台所で妻がカレーライスを流し込むように食べた後、食卓に戻って里志に重湯を与えようとすると、
「ママ、カレーライス食べたんじゃないの」
と言って、妻の口元の匂いを嗅ごうと鼻を近づける。妻は、
「食べてない、食べてない」
と言って逃げ腰になったが、里志にはもう隠し切れなかった。
「ボクもカレーライス食べたい。カレーライスちょうだい」
と言って、泣き出した。
「里志は下痢をしているから、駄目なんだ。早く治って何でも食べられるようになりたかったら、我慢しなさい」
と、私は懸命に説得しようとした。
だが、絶食に近い状態を続けて10日目になっていたその時は、幼い里志にとって、空腹感に耐えることの限界に達していたのだろう。何か一口でだけでも美味しい物を口にしたいという欲望が炸裂しそうになっていたのだ。
もう、「何かちょうだい、塩せんべい一枚でいいから。カレーライスじゃなくていいから」と哀願するように、涙で空腹を訴え、私たちを困惑させるのだ。
「何か食べさせてやりたい」
と、妻が胸を詰まらせて私の顔を見ながら言う。
「食パンを、ほんの一欠けらだけ食べさせてやれ」
と、私も見るにしのびなくなって、そう言った。
一口で食べてしまえるようなパンの欠けらを嬉しそうに、そして、むさぼるように食べる里志の姿を見て、私は食べさせられない辛さを、身にしみて感じていた。
「もっとほしい。もう少しだけちょうだい」
と、再び泣き出すと、私たちは困り果ててしまう。
「我慢しなさい。下痢が治ったら、何でも食べられるから」
と、それ以外に説得の方法はなくなってしまった。
だが、里志の耐え難い空腹は、最早親の説得も耳に入らないところまで来ていたのだろう。どうしても何か食べたいと言って、泣き喚くようになり、抑えることができなくなってしまった。どうにも仕方なくなった私は、
「泣くな。男の子なんだから我慢しなさい」
と、大声で怒鳴りつけてしまうことになった。
すると、里志は喚き散らすのを止め、喚きたい欲望をじっと抑えて啜り泣き、そして時々しゃくり上げるように泣いた。
泣いて泣いて、泣き疲れて眠ってしまった。
妻が抱きかかえて、ベッドに運ぶその後を追って、私も里志の横に寝た。
眠っていても時々しゃくり上げている里志の頬に、思わず口づけをする。そして私は里志を抱きしめて、声を出して泣いた。妻も、嗚咽をあげていた。
13日目、やっと便が固くなり、院長の許可を得て食パンや粥を食べさせることができた。幸福とは、今のこの時を指す言葉だと思った。身をそがれんばかりの思いで耐えた13日間に、私は息子に対する愛を一段と深めたような気がしてならない。里志がいるから、現在の生活がある。そんな気さえした。
あれから2年が過ぎ、電車遊びに夢中な里志は今、5歳である。親が涙なくして語れない思い出も、息子の心の中には何も残っていないだろう。
それでいいのだ。そうでなければいけない。と私は思う。
そして今、小夜が病院で手当てを受けている。見るに忍びない里志の苦しみを、それと同じような苦しみを、再び小夜に科せられることのないよう、祈る気持ちでいっぱいだった。
頭の中はそんな心配で混沌としていながら、里志の遊び相手に苦労している時、ふと私は自分の仕事が残っていることに気付いた。今日中に仕上げねばならない仕事であった。
私は、里志の電車遊びが佳境に達したところを見計らって、
「お父さん、ちょっと仕事があるから、一人で遊んでいなさい」
と言って、仕事に執り係ることにした。
航空写真の人文字デザインというのは、セスナ機で空から写真撮影した場合に、いかにバランスよく、美しく写真ができ上がるかを第一条件としてデザインしなければならない。学校、或いは幼稚園などの運動場に作る人文字を、その運動場の面積や生徒または園児の人数などを考慮する。そして文字の形態、その寸法、各文字に対しての人数割りなどを、細かく方眼紙に書き込んでいく。
私は、自分自身でセールスした学校などの人文字デザインは、大抵の場合自分の手で描いていたので、他人に依頼することはなかった。しかし営業マンの中にはデザインの苦手な者もいる。なので、他の営業マンからそういった仕事を私はたびたび引き受けることがあって、結構多忙な日が多かったのである。
今回は、殆どが幼稚園、保育園であり、計7枚だった。そのうちの6枚は昨日までに仕上げてあったので、あと1枚だけ書き上げればよかった。明日は事業本部の方から、恐らく電話で7枚のデザインを届けるようにとの請求があるに違いない。
「お父さん、線路が壊れちゃったから、直すの手伝ってよ」
と、里志が言った。
「うん。お父さん、ちょっと忙しいから、自分でやりなさい」
と、私は少し焦り気味だったので、つれなくそう言った。
すると里志は、
「お父さん、今日は休みだから遊んであげるって言ってたのに。少しだけ手伝ってよ」
と、口を尖らせる。
「ああ。そうだけど、仕事が残ってるの忘れてたんだ。ごめんごめん」
「ちっとも遊んでくれないんだから」
そんなことを言い合っている時、電話が鳴った。
予想通り妻からの電話で、小夜の点滴が終わったから迎えに来いと言ってきた。
私たち家族は、伯母の家に同居しているので、里志を伯母に委ねて一人で迎えに行くことも可能ではあった。しかし、最近伯母は祖母の看病の手伝いに毎日出かけているのでそれもできず、私は再び、里志を乗せて車のハンドルを握った。
それは、13日もの長い間、殆ど絶食に近い加療を、幼い里志に対して強いなければならないほど、ひどい下痢が続いた時のことであった。
里志が3歳になろうとする頃、突然消化不良を起こして、水のような便をするようになった。直ちに、いわゆる病人食である重湯に近いほどの薄い米粥などの食物に切り替えた。だが一夜明けても症状が変わらず、掛かりつけの病院へと駆け込んだ。
検便、血液検査などの結果、消化不良以外の忌まわしい病気ではないと知って、どうにか安心した。しかし、「重湯以外の一切の食物、飲料水など与えてはならない」という院長の指示があった。
親が心を鬼にしなければ子供の病気は治療できない、と言われた時の、あの院長の患者に対する熱意に、私は今でも拝礼の念を抱いている。
それからは毎日通院しなければならなくなり、そのたびに長時間を要する点滴を受けた。しかし里志の激しい下痢は、一向に治まることなく続いた。そのくせ食欲だけは旺盛だった。何を見ても食べたがる里志に対して何も食べさせられないことは、親として耐え難い苦痛であった。
最初の3日間くらいは、妻も私も里志が可哀想だからと言って、里志と同じように重湯と味噌汁の上澄みだけを啜るという、哀れな食事をしていた。しかし、親も一緒に病気になってしまったら子供の看病もできないと考え直し、妻は台所で立ったまま慌ただしく食事をし、私も妻と交替に、里志の目の届かない場所に隠れて、息を潜めるように栄養を流し込んだ。
1週間目にもなると、少量の重湯だけしか与えられずに、空腹感に苛まれている里志は、
「ネギ、一つだけちょうだい」
と、味噌汁に入っているだろうということを想像してか、欲しがって泣いた。
「わかめ、ちょうだい」「大根がほしい」などと、食事のたびに涙を流し始めた。空腹が過ぎると鼻の方が敏感になるという。里志に与える味噌汁の上澄みには何も入っていないのに、こしらえるときに入れた、わかめや葱の匂いを嗅ぎ分けられるようになってしまったのだろうか。
「葱なんか、今までそんなに欲しがったこともないのに」
と、妻が絶句した。
ある時、台所で妻がカレーライスを流し込むように食べた後、食卓に戻って里志に重湯を与えようとすると、
「ママ、カレーライス食べたんじゃないの」
と言って、妻の口元の匂いを嗅ごうと鼻を近づける。妻は、
「食べてない、食べてない」
と言って逃げ腰になったが、里志にはもう隠し切れなかった。
「ボクもカレーライス食べたい。カレーライスちょうだい」
と言って、泣き出した。
「里志は下痢をしているから、駄目なんだ。早く治って何でも食べられるようになりたかったら、我慢しなさい」
と、私は懸命に説得しようとした。
だが、絶食に近い状態を続けて10日目になっていたその時は、幼い里志にとって、空腹感に耐えることの限界に達していたのだろう。何か一口でだけでも美味しい物を口にしたいという欲望が炸裂しそうになっていたのだ。
もう、「何かちょうだい、塩せんべい一枚でいいから。カレーライスじゃなくていいから」と哀願するように、涙で空腹を訴え、私たちを困惑させるのだ。
「何か食べさせてやりたい」
と、妻が胸を詰まらせて私の顔を見ながら言う。
「食パンを、ほんの一欠けらだけ食べさせてやれ」
と、私も見るにしのびなくなって、そう言った。
一口で食べてしまえるようなパンの欠けらを嬉しそうに、そして、むさぼるように食べる里志の姿を見て、私は食べさせられない辛さを、身にしみて感じていた。
「もっとほしい。もう少しだけちょうだい」
と、再び泣き出すと、私たちは困り果ててしまう。
「我慢しなさい。下痢が治ったら、何でも食べられるから」
と、それ以外に説得の方法はなくなってしまった。
だが、里志の耐え難い空腹は、最早親の説得も耳に入らないところまで来ていたのだろう。どうしても何か食べたいと言って、泣き喚くようになり、抑えることができなくなってしまった。どうにも仕方なくなった私は、
「泣くな。男の子なんだから我慢しなさい」
と、大声で怒鳴りつけてしまうことになった。
すると、里志は喚き散らすのを止め、喚きたい欲望をじっと抑えて啜り泣き、そして時々しゃくり上げるように泣いた。
泣いて泣いて、泣き疲れて眠ってしまった。
妻が抱きかかえて、ベッドに運ぶその後を追って、私も里志の横に寝た。
眠っていても時々しゃくり上げている里志の頬に、思わず口づけをする。そして私は里志を抱きしめて、声を出して泣いた。妻も、嗚咽をあげていた。
13日目、やっと便が固くなり、院長の許可を得て食パンや粥を食べさせることができた。幸福とは、今のこの時を指す言葉だと思った。身をそがれんばかりの思いで耐えた13日間に、私は息子に対する愛を一段と深めたような気がしてならない。里志がいるから、現在の生活がある。そんな気さえした。
あれから2年が過ぎ、電車遊びに夢中な里志は今、5歳である。親が涙なくして語れない思い出も、息子の心の中には何も残っていないだろう。
それでいいのだ。そうでなければいけない。と私は思う。
そして今、小夜が病院で手当てを受けている。見るに忍びない里志の苦しみを、それと同じような苦しみを、再び小夜に科せられることのないよう、祈る気持ちでいっぱいだった。
頭の中はそんな心配で混沌としていながら、里志の遊び相手に苦労している時、ふと私は自分の仕事が残っていることに気付いた。今日中に仕上げねばならない仕事であった。
私は、里志の電車遊びが佳境に達したところを見計らって、
「お父さん、ちょっと仕事があるから、一人で遊んでいなさい」
と言って、仕事に執り係ることにした。
航空写真の人文字デザインというのは、セスナ機で空から写真撮影した場合に、いかにバランスよく、美しく写真ができ上がるかを第一条件としてデザインしなければならない。学校、或いは幼稚園などの運動場に作る人文字を、その運動場の面積や生徒または園児の人数などを考慮する。そして文字の形態、その寸法、各文字に対しての人数割りなどを、細かく方眼紙に書き込んでいく。
私は、自分自身でセールスした学校などの人文字デザインは、大抵の場合自分の手で描いていたので、他人に依頼することはなかった。しかし営業マンの中にはデザインの苦手な者もいる。なので、他の営業マンからそういった仕事を私はたびたび引き受けることがあって、結構多忙な日が多かったのである。
今回は、殆どが幼稚園、保育園であり、計7枚だった。そのうちの6枚は昨日までに仕上げてあったので、あと1枚だけ書き上げればよかった。明日は事業本部の方から、恐らく電話で7枚のデザインを届けるようにとの請求があるに違いない。
「お父さん、線路が壊れちゃったから、直すの手伝ってよ」
と、里志が言った。
「うん。お父さん、ちょっと忙しいから、自分でやりなさい」
と、私は少し焦り気味だったので、つれなくそう言った。
すると里志は、
「お父さん、今日は休みだから遊んであげるって言ってたのに。少しだけ手伝ってよ」
と、口を尖らせる。
「ああ。そうだけど、仕事が残ってるの忘れてたんだ。ごめんごめん」
「ちっとも遊んでくれないんだから」
そんなことを言い合っている時、電話が鳴った。
予想通り妻からの電話で、小夜の点滴が終わったから迎えに来いと言ってきた。
私たち家族は、伯母の家に同居しているので、里志を伯母に委ねて一人で迎えに行くことも可能ではあった。しかし、最近伯母は祖母の看病の手伝いに毎日出かけているのでそれもできず、私は再び、里志を乗せて車のハンドルを握った。
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