5 / 44
四月三十日
5・戦慄
しおりを挟む
午前10時頃、私は妻の内職である紳士服の仕事があるので、ひとまず病院を出ることにした。
私のいない間に、小夜の病状が悪化したりするのではないか。気掛かりでならなかったが、休日を除いて、それは毎日やらねばならない仕事であった。治療費などを支払うためにも、今となっては、なおざりに出来ない仕事である。
私は、片時も離れたくない気持ちを鬼にして、車に乗り込んだ。
その仕事とは、紳士服工場で出来た背広上着のミシンで縫えない部分を、手で仕上げる仕事である。それを何人かの主婦に任せてやってもらい、出来あがった背広を集めて来ては新しいものを配達する。
それだけならまだいいが、それを検査して、不良個所があると直さなければならない。それが大変な仕事であった。
妻が小夜に付き添っている間、その仕事を私一人でやらねばならないのだ。果たして、男の手でうまく出来るかどうかも問題ではある。
今日はその仕事の締め切り日である。
締め切りは、月2回で、15日と末日になっている。
内職者である主婦達は、半月分の仕上げ着数を一枚でも多くして、稼ぎを高くしようとするのか、締め切りの日には、とりわけ頑張ってその日のうちに納品しようとする。だから今日は午後3時頃までに、各内職者の家庭を回って出来上がった背広を集め、納期限の夕方5時までに、いつもの3倍もある着数を検査しなければならないのだ。
普段の日なら、一日中小夜に付き添っていられたかもしれないのに、それが残念でならない。
このまま家へ帰ってしまってよいのだろうか。病院に居なくてもいいのだろうか。医師は、非常に危険な病状だと言っていた。そして、生命の保証はできないと言っていた。そんな状態の小夜を妻に任せて、車のハンドルを握っていることが罪悪であるかのように思われた。
しかし、妻の内職に関してはある程度の収入になる仕事なので、それはやらなければならなかった。もし、小夜が奇跡にも助かることがあり入院が永くなれば、稼ぎが必要になってくる。
だが、その間に小夜が死んでしまったら……。
やはり、病院へ引き返すべきか。
いや、今日ばかりはそうはいかない。大勢の主婦たちが、私を待っている。
いや、そんなことは、こんな重大事に、どうだっていいことじゃないか。
稼ぎなんて糞喰らえだ。
やはり、病院へ引き返そう。
そんなことを、繰り返し考えていたように思う。
恐らく、私は混乱していたのだ。
その時、目前に接近していた鉄道の踏切りの警報機が鳴り出し、遮断機が下りた。
それによって、私は我に返ったように思う。
──事故を起こしてはいけない──
電車が、私を戒めてくれた。
小夜が一大事であるのに、我が子が死ぬかも知れないと言うのに、こんな時、私にまで事故があったら一体どうなると言うのか。考えるだけで戦慄する。
電車は、後から後から続いて通過し、長い間待たされたように思う。
そう言えば、小夜も電車を好きだった。
今日のように、踏切りで一時停止している時など、
「じんじゃ、じんじゃ」
と言って喜び、遮断機が上がると
「わあい」
と、手を叩いて嬉しそうにしたものだった。
私は、背広の集配をする時、よく里志や小夜を同乗させて走る。だが、最近は里志が大きくなったせいか、テレビ番組の面白そうなのがあると、集配にはついて来ることが少なくなった。だからそんな日は、小夜だけを横に補助椅子を取り付けて、そこへ腰掛けさせて走ることが多くなっている。
私は殆ど毎日のように、集配の途中、線路に平行して走っている道路の傍らに車を停めて、小夜に電車を見せてやるように心がけていた。
時には車から降りて、線路から5メートルも離れていないような極めて近い所に、小夜を抱いて立つこともあった。そんな時は、電車が近付いて来ると喜びようが違っていて、大声で叫んだりしていた。
だが、目の前を電車が通過する時は、慄えて私にしがみついて来るのだ。
私はすかさず、小夜を安心させるように抱きしめてやり、愛しさ余って、ついでに頬ずりしてしまうのだ。
「パパが、ちゃんとダッコしてるから恐くないよ」
などと私が言っても、そんなことは耳に入っていないのか、遠ざかって行く電車に手を振りながら、
「じんしゃ、バイバイ」
と、小夜は言っている。そして、見えなくなるまで見送らなければ気が済まないようであった。
私も幼い頃から電車が好きで、一度は電車の運転をしてみたいと願ったものである。同じ電車に興味を持つ親子であれた事に、たわいもない喜びを、私は感じていた。
妻と二人で電車に乗った時の里志などは、もう目を丸くして、私にその時の感動を報告しようとする。やはり、自家用車時代に産まれた子供なのだと、私は時代の差を感じたものだ。
しかし残念ながら、小夜は電車に乗ったことがない。
今となっては、それを叶えてやりたくても、小夜は病室の白い壁に囲まれて、意識不明の状態なのだ。
何という哀れなことになってしまったのだろう。
もしもこのまま、小夜がこの世にいなくなってしまったら、電車に限らず、未だ経験できなかった楽しい遊びや、欲望を満足させられなかったことに対して、私はどうやって、どのような方法で、小夜に詫びれば良いのだろう。
「小夜。絶対に死ぬんじゃないぞ。たった1年と9ヵ月でこの世を去ってはいけない。お前に人生の本当の喜びを味わうこともさせずに、このまま死なれてしまったら、パパやママは、生涯苦しみぬかねばならない。歩けなくてもいい。立てなくてもいい。そうなったら、背負って歩いてやる。神様は、お前を死なせるなんて残酷なことはしない筈だ。頑張れ、小夜」
私は、遮断機が上がるまで、そんなことを考えていた。
ずいぶん長い時間であるように思われた。
そして遮断機が上がる時、私は小夜の表情を想いながら、「わあい」と、心の中で叫んでみた。
動転と混乱と悲しみのうちに、私は成高建設㈱と言う看板のある事務所の前へ辿り着いた。
そこは叔父が経営する会社であり、私の2人の弟も勤務している。
作夜、私が叔母に一部始終を電話で連絡したことから、恐らく耳に入っていたのだろう。叔父と弟が、私の車を見て歩み寄って来た。
私は誰かに、この悲しみを打ち明けたい気持ちで一杯だった。こらえにこらえていた感情を爆発させたかった。
「小夜は、どんな様子だ」
と、叔父が私に聞いた。
その言葉が爆薬であり、私は思わずマッチを擦ってしまっていた。
「小夜は、死ぬかも知れない」
と、一言答える暇ももどかしく、こらえきれずに溢れ来る涙を、私は最早押さえようがなくなっていた。
唇が震えて、本当に、わなわなと震えて、何も言えなくなってしまっていたのだ。
私のいない間に、小夜の病状が悪化したりするのではないか。気掛かりでならなかったが、休日を除いて、それは毎日やらねばならない仕事であった。治療費などを支払うためにも、今となっては、なおざりに出来ない仕事である。
私は、片時も離れたくない気持ちを鬼にして、車に乗り込んだ。
その仕事とは、紳士服工場で出来た背広上着のミシンで縫えない部分を、手で仕上げる仕事である。それを何人かの主婦に任せてやってもらい、出来あがった背広を集めて来ては新しいものを配達する。
それだけならまだいいが、それを検査して、不良個所があると直さなければならない。それが大変な仕事であった。
妻が小夜に付き添っている間、その仕事を私一人でやらねばならないのだ。果たして、男の手でうまく出来るかどうかも問題ではある。
今日はその仕事の締め切り日である。
締め切りは、月2回で、15日と末日になっている。
内職者である主婦達は、半月分の仕上げ着数を一枚でも多くして、稼ぎを高くしようとするのか、締め切りの日には、とりわけ頑張ってその日のうちに納品しようとする。だから今日は午後3時頃までに、各内職者の家庭を回って出来上がった背広を集め、納期限の夕方5時までに、いつもの3倍もある着数を検査しなければならないのだ。
普段の日なら、一日中小夜に付き添っていられたかもしれないのに、それが残念でならない。
このまま家へ帰ってしまってよいのだろうか。病院に居なくてもいいのだろうか。医師は、非常に危険な病状だと言っていた。そして、生命の保証はできないと言っていた。そんな状態の小夜を妻に任せて、車のハンドルを握っていることが罪悪であるかのように思われた。
しかし、妻の内職に関してはある程度の収入になる仕事なので、それはやらなければならなかった。もし、小夜が奇跡にも助かることがあり入院が永くなれば、稼ぎが必要になってくる。
だが、その間に小夜が死んでしまったら……。
やはり、病院へ引き返すべきか。
いや、今日ばかりはそうはいかない。大勢の主婦たちが、私を待っている。
いや、そんなことは、こんな重大事に、どうだっていいことじゃないか。
稼ぎなんて糞喰らえだ。
やはり、病院へ引き返そう。
そんなことを、繰り返し考えていたように思う。
恐らく、私は混乱していたのだ。
その時、目前に接近していた鉄道の踏切りの警報機が鳴り出し、遮断機が下りた。
それによって、私は我に返ったように思う。
──事故を起こしてはいけない──
電車が、私を戒めてくれた。
小夜が一大事であるのに、我が子が死ぬかも知れないと言うのに、こんな時、私にまで事故があったら一体どうなると言うのか。考えるだけで戦慄する。
電車は、後から後から続いて通過し、長い間待たされたように思う。
そう言えば、小夜も電車を好きだった。
今日のように、踏切りで一時停止している時など、
「じんじゃ、じんじゃ」
と言って喜び、遮断機が上がると
「わあい」
と、手を叩いて嬉しそうにしたものだった。
私は、背広の集配をする時、よく里志や小夜を同乗させて走る。だが、最近は里志が大きくなったせいか、テレビ番組の面白そうなのがあると、集配にはついて来ることが少なくなった。だからそんな日は、小夜だけを横に補助椅子を取り付けて、そこへ腰掛けさせて走ることが多くなっている。
私は殆ど毎日のように、集配の途中、線路に平行して走っている道路の傍らに車を停めて、小夜に電車を見せてやるように心がけていた。
時には車から降りて、線路から5メートルも離れていないような極めて近い所に、小夜を抱いて立つこともあった。そんな時は、電車が近付いて来ると喜びようが違っていて、大声で叫んだりしていた。
だが、目の前を電車が通過する時は、慄えて私にしがみついて来るのだ。
私はすかさず、小夜を安心させるように抱きしめてやり、愛しさ余って、ついでに頬ずりしてしまうのだ。
「パパが、ちゃんとダッコしてるから恐くないよ」
などと私が言っても、そんなことは耳に入っていないのか、遠ざかって行く電車に手を振りながら、
「じんしゃ、バイバイ」
と、小夜は言っている。そして、見えなくなるまで見送らなければ気が済まないようであった。
私も幼い頃から電車が好きで、一度は電車の運転をしてみたいと願ったものである。同じ電車に興味を持つ親子であれた事に、たわいもない喜びを、私は感じていた。
妻と二人で電車に乗った時の里志などは、もう目を丸くして、私にその時の感動を報告しようとする。やはり、自家用車時代に産まれた子供なのだと、私は時代の差を感じたものだ。
しかし残念ながら、小夜は電車に乗ったことがない。
今となっては、それを叶えてやりたくても、小夜は病室の白い壁に囲まれて、意識不明の状態なのだ。
何という哀れなことになってしまったのだろう。
もしもこのまま、小夜がこの世にいなくなってしまったら、電車に限らず、未だ経験できなかった楽しい遊びや、欲望を満足させられなかったことに対して、私はどうやって、どのような方法で、小夜に詫びれば良いのだろう。
「小夜。絶対に死ぬんじゃないぞ。たった1年と9ヵ月でこの世を去ってはいけない。お前に人生の本当の喜びを味わうこともさせずに、このまま死なれてしまったら、パパやママは、生涯苦しみぬかねばならない。歩けなくてもいい。立てなくてもいい。そうなったら、背負って歩いてやる。神様は、お前を死なせるなんて残酷なことはしない筈だ。頑張れ、小夜」
私は、遮断機が上がるまで、そんなことを考えていた。
ずいぶん長い時間であるように思われた。
そして遮断機が上がる時、私は小夜の表情を想いながら、「わあい」と、心の中で叫んでみた。
動転と混乱と悲しみのうちに、私は成高建設㈱と言う看板のある事務所の前へ辿り着いた。
そこは叔父が経営する会社であり、私の2人の弟も勤務している。
作夜、私が叔母に一部始終を電話で連絡したことから、恐らく耳に入っていたのだろう。叔父と弟が、私の車を見て歩み寄って来た。
私は誰かに、この悲しみを打ち明けたい気持ちで一杯だった。こらえにこらえていた感情を爆発させたかった。
「小夜は、どんな様子だ」
と、叔父が私に聞いた。
その言葉が爆薬であり、私は思わずマッチを擦ってしまっていた。
「小夜は、死ぬかも知れない」
と、一言答える暇ももどかしく、こらえきれずに溢れ来る涙を、私は最早押さえようがなくなっていた。
唇が震えて、本当に、わなわなと震えて、何も言えなくなってしまっていたのだ。
21
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
新しい家族は保護犬きーちゃん
ゆきむらさり
エッセイ・ノンフィクション
〔あらすじ〕📝初めて🐶保護犬ちゃんを迎え入れる我が家。
過去の哀しい実情のせいで人間不信で怯える保護犬きーちゃん。
初日から試行錯誤の日々と保護犬きーちゃんがもたらす至福の日々。
◇
🔶保護犬ちゃん達の過去・現在の実情の記述もあります🐾
🔶日々の些細な出来事を綴っています。現在進行形のお話となります🐾
🔶🐶挿絵画像入りです。
🔶拙いエッセイにもかかわらず、HOTランキングに入れて頂き(2025.7.1、最高位31位)ありがとうございます🙇♀️
【完結】『80年を超越した恋~令和の世で再会した元特攻隊員の自衛官と元女子挺身隊の祖母を持つ女の子のシンクロニシティラブストーリー』
M‐赤井翼
現代文学
赤井です。今回は「恋愛小説」です(笑)。
舞台は令和7年と昭和20年の陸軍航空隊の特攻部隊の宿舎「赤糸旅館」です。
80年の時を経て2つの恋愛を描いていきます。
「特攻隊」という「難しい題材」を扱いますので、かなり真面目に資料集めをして制作しました。
「第20振武隊」という実在する部隊が出てきますが、基本的に事実に基づいた背景を活かした「フィクション」作品と思ってお読みください。
日本を護ってくれた「先人」に尊敬の念をもって書きましたので、ほとんどおふざけは有りません。
過去、一番真面目に書いた作品となりました。
ラストは結構ややこしいので前半からの「フラグ」を拾いながら読んでいただくと楽しんでもらえると思います。
全39チャプターですので最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
それでは「よろひこー」!
(⋈◍>◡<◍)。✧💖
追伸
まあ、堅苦しく読んで下さいとは言いませんがいつもと違って、ちょっと気持ちを引き締めて読んでもらいたいです。合掌。
(。-人-。)
皆さんは呪われました
禰津エソラ
ホラー
あなたは呪いたい相手はいますか?
お勧めの呪いがありますよ。
効果は絶大です。
ぜひ、試してみてください……
その呪いの因果は果てしなく絡みつく。呪いは誰のものになるのか。
最後に残るのは誰だ……
アルファポリスとカクヨムってどっちが稼げるの?
無責任
エッセイ・ノンフィクション
基本的にはアルファポリスとカクヨムで執筆活動をしています。
どっちが稼げるのだろう?
いろんな方の想いがあるのかと・・・。
2021年4月からカクヨムで、2021年5月からアルファポリスで執筆を開始しました。
あくまで、僕の場合ですが、実データを元に・・・。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる