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四月三十日
4・病名は
しおりを挟む午前1時過ぎ、小児科部長が呼んでいると言うので、処置室の奥にある部屋に、私は何とも複雑な気持ちで入らなければならなかった。
その部屋は、事務机や書類棚が一杯の狭い一室だった。
わざわざ妻を差し置いて私だけが呼ばれると言うことは、何か重大な話があるに違いない。私の不安はつのるばかりであった。
まだ三十代らしい若い小児科部長は、部屋の隅に置いてあった椅子を出して来て、私に掛けるようにと言った。そして、静かで柔らかな口調で話し始めた。
「実はですね。お子さんの病気は、かなり重症なんですよ」
と、私には判読できないカルテを机上に置いて、カルテと私の顔を交互に見ながら言った。
「一週間程前から、鼻風邪を引いていたと聞きましたが」
「はあ」
私は医師の、これから述べようとする内容を予測する方に気持ちがはやっていたのか、曖昧で、だらしのない声で返事をした。
「実は私たちにも、この病気はなかなか発見するのは困難なことなんですが。今日は祭日で、私は家に帰って休んでいましたところ、掛かりつけ病院の方から電話がありまして。恐らくこういう病気に違いないから、休みを返上してでも出て来て欲しいとのことでした。それは、もしそうだとしたら、この中央病院でもそうですが、他の大病院にしても、何年に一人と言って過言でないほどの少ない病気です。ですから私も、まさかと思ったんですが、本当にそうなら大変だと思って、出て来てみたんです。そして先程、脊髄から液を採って検査をしたのですが、それは白濁しているだけじゃなくて、膿が混っていました。恐らく、風邪の菌などが髄膜の中に入ったんだろうと思われます。病名は、化膿性髄膜炎と診断しました」
「それで、小夜は助かるんでしょうか」
素人の私には何も解らない。その時はもう、ただ結論が聞きたかった。
「それなんですが、この病気にかかった人の、3人に1人は……いや、半数以上が死亡しているのが実状です。過去の例から見ても、命が助かる見込みは30パーセント程度と思ってください」
――30パーセント。
数字だけが、頭の中でぐるぐると回っていた。助かるのは、10人中たった3人。その3人に、わが子が入る保証はどこにもない。
心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような、言いようのない不安と絶望が、どっと押し寄せてきた。
小児科部長は続けた。
「そして、うまく助かったとしても、半身不随になったりしていますし、余程軽度の麻痺に終わったとしても、例えば最近のことですが、15歳の中学生が、片方の瞼を完全に開けることが出来なくなって治っています。ですから、希望を棄ててもらっては困りますが、ある程度の覚悟だけはしておいて下さい」
「では、後遺症なしに、完治することはないんでしょうか」
「いや、そんなことはありません。私の診た患者の中に、全くどこにも麻痺を残さずに治って行った例があります。だから、全く希望がないわけではないんです」
「そうですか……。掛かりつけ病院から救急車で運ばれなければならない程だったんですから、無理もありません。ある程度の覚悟はできていました。しかし、命も危ぶまれる程の重病に、自分の娘がかかってしまうとは、昨日までは考えたこともなかったもんですから……」
私は、努めて冷静さを装っていたように思う。
そうしなければ、狂乱状態に陥りそうだったからかもしれない。
「奥さんにも、先程御主人が居られなかったものですから、ある程度のことは説明させてもらいました」
そんな穏やかで寂し気な会話が続いた。医師の説明が深くは理解できないまでも、とにかく小夜にとって大惨事であることだけは、間違いないということを知らされた。
そして、どういう具合になるかは解らないが、どんなにうまくいったとしても、1ヵ月は入院加療が必要だと、小児科部長が言っていた。だがそれは、裏を返せば、今日明日中にも死ぬかもしれないと言うことなのに違いない。と、私は悲観的な解釈をしていた。
病室に戻ると、相変わらずベッドの上の小夜は、唇までも蒼白になって昏睡している。
手の甲に差し込まれている点滴注射の針が抜けたりしないように、絆創膏や包帯などが、幾重にも巻きつけてある。左手の自由が効かなくなったその姿を見ていると、痛々しくてならなかった。
私は、小夜が今夜のうちにでも死にそうな気がしていた。
「先生、何て言ってた?」
と、妻が聞いて来た。
「お前にした説明と同じだと思う。生命の保証は出来ないってこと」
「助かるのかしら……」
と、妻はそればかり何度も繰り返し言い、忘れた頃にまたそれを言っては瞼を潤ませる。
私も、日頃はテレビドラマを見ては泣き、漫画本にさえもほろりとするほどの涙もろい面がある。
だが、実際に我が子が、こうやって不幸に陥ったとなれば、どうしたわけか、めそめそ泣いている心境にはなれなかった。父親である私自身がしっかりしなければ。小夜がもしも助からなかったとしても、それにうろたえていては、もう一人の大切な我が子、長男の里志がこの先どうなるというのだ。
と、まずそんなことを考えたからでもあった。
そして、入院の準備も考えなければならなかった。妻を付き添い人として病院に寝泊りさせれば、当然、家にいて里志を保育園へ通園させたりしなければならない。私には、今までの倍量の仕事が担わされてしまう。
生命が助かったとしても、長引けば長引いたで、言い知れぬ苦労が続くことだろう。
それに、生命を救って貰うためには、治療費を惜しむ訳にはいかないのだ。
そうなれば、働かねばならない。だが、働くにも里志が保育園へ行っている、わずかな時間だけしか出来ないではないか。
いっそ、保育園を休ませて、妻の実家へ暫くの間里志を預けようか。
いや、それも3日と持つまい。無理強いしては、里志が可哀想だ。
そうすれば、結局私が主婦業をして、仕事を休んでしまわなければならないことになってしまう。
そんなことが、私の脳裏を目まぐるしく駆けめぐっていた。
妻は、心配と疲労で、黄疸のような顔色になっている。妻にまで寝込まれては、それこそ大変だからと、先に休ませて私が小夜を看ていることにした。
点滴がなくなりそうになったりした時は勿論だが、熱を計ったり、脈拍を診たり、何度も何度も看護師が入って来る。そのたびに妻は目を開けて、その様子を見ていたから、恐らく眠れなかったのだろう。
眠れないままに、妻は私と交替した。
小夜の痛々しさもさることながら、妻の心境を察すると、その表情を見るのが辛かった。
私はその時、極めて平静を装いながらも、「美夜」と、妻の名を心の内に叫んでいた。
『お前がしっかりしなければ、小夜の病気は治せない。俺も頑張るから、お前も頑張れ』
と、何度も何度も心の内で叫び続けた。
そのくせ、「心配するな。病気は医者に任せるより仕様がない」と、笑顔を見せる私であった。
それが妻に対して、なぐさめの言葉にもならないことを百も承知しながらである。
不安とおののきのうちに、夜が明けた。
やはり眠り続けている小夜の姿は、一向に変わりはないようだった。朝になると、4階の窓から見下ろす町並の活気が、なんとなく腹立たしく思える。
この辺りは工場地帯で、石油コンビナートやその他、数々の工場が立ち並ぶ場所である。そんな処に、病院が存在することが、第一に不自然でもあった。
目と鼻の先に港があり、港へ出入りする国鉄の引込み線の線路が窓の下に見える。小夜に見せてやったら、さぞかし喜ぶだろうと思う。
大型トラックなど、特にタンクローリー車などは、工場から出たり入ったりで騒がしい。そんな騒音さえもが、物悲しく響く朝であった。
そして、小夜が未だ死んでいないことに、もしかしたらの希望を抱かずにいられなかった。
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