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四月三十日
5・戦慄
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午前10時頃、私は妻の内職である紳士服の仕事があるので、ひとまず病院を出ることにした。
私のいない間に、小夜の病状が悪化したりするのではないか。気掛かりでならなかったが、休日を除いて、それは毎日やらねばならない仕事であった。治療費などを支払うためにも、今となっては、なおざりに出来ない仕事である。
私は、片時も離れたくない気持ちを鬼にして、車に乗り込んだ。
その仕事とは、紳士服工場で出来た背広上着のミシンで縫えない部分を、手で仕上げる仕事である。それを何人かの主婦に任せてやってもらい、出来あがった背広を集めて来ては新しいものを配達する。
それだけならまだいいが、それを検査して、不良個所があると直さなければならない。それが大変な仕事であった。
妻が小夜に付き添っている間、その仕事を私一人でやらねばならないのだ。果たして、男の手でうまく出来るかどうかも問題ではある。
今日はその仕事の締め切り日である。
締め切りは、月2回で、15日と末日になっている。
内職者である主婦達は、半月分の仕上げ着数を一枚でも多くして、稼ぎを高くしようとするのか、締め切りの日には、とりわけ頑張ってその日のうちに納品しようとする。だから今日は午後3時頃までに、各内職者の家庭を回って出来上がった背広を集め、納期限の夕方5時までに、いつもの3倍もある着数を検査しなければならないのだ。
普段の日なら、一日中小夜に付き添っていられたかもしれないのに、それが残念でならない。
このまま家へ帰ってしまってよいのだろうか。病院に居なくてもいいのだろうか。医師は、非常に危険な病状だと言っていた。そして、生命の保証はできないと言っていた。そんな状態の小夜を妻に任せて、車のハンドルを握っていることが罪悪であるかのように思われた。
しかし、妻の内職に関してはある程度の収入になる仕事なので、それはやらなければならなかった。もし、小夜が奇跡にも助かることがあり入院が永くなれば、稼ぎが必要になってくる。
だが、その間に小夜が死んでしまったら……。
やはり、病院へ引き返すべきか。
いや、今日ばかりはそうはいかない。大勢の主婦たちが、私を待っている。
いや、そんなことは、こんな重大事に、どうだっていいことじゃないか。
稼ぎなんて糞喰らえだ。
やはり、病院へ引き返そう。
そんなことを、繰り返し考えていたように思う。
恐らく、私は混乱していたのだ。
その時、目前に接近していた鉄道の踏切りの警報機が鳴り出し、遮断機が下りた。
それによって、私は我に返ったように思う。
──事故を起こしてはいけない──
電車が、私を戒めてくれた。
小夜が一大事であるのに、我が子が死ぬかも知れないと言うのに、こんな時、私にまで事故があったら一体どうなると言うのか。考えるだけで戦慄する。
電車は、後から後から続いて通過し、長い間待たされたように思う。
そう言えば、小夜も電車を好きだった。
今日のように、踏切りで一時停止している時など、
「じんじゃ、じんじゃ」
と言って喜び、遮断機が上がると
「わあい」
と、手を叩いて嬉しそうにしたものだった。
私は、背広の集配をする時、よく里志や小夜を同乗させて走る。だが、最近は里志が大きくなったせいか、テレビ番組の面白そうなのがあると、集配にはついて来ることが少なくなった。だからそんな日は、小夜だけを横に補助椅子を取り付けて、そこへ腰掛けさせて走ることが多くなっている。
私は殆ど毎日のように、集配の途中、線路に平行して走っている道路の傍らに車を停めて、小夜に電車を見せてやるように心がけていた。
時には車から降りて、線路から5メートルも離れていないような極めて近い所に、小夜を抱いて立つこともあった。そんな時は、電車が近付いて来ると喜びようが違っていて、大声で叫んだりしていた。
だが、目の前を電車が通過する時は、慄えて私にしがみついて来るのだ。
私はすかさず、小夜を安心させるように抱きしめてやり、愛しさ余って、ついでに頬ずりしてしまうのだ。
「パパが、ちゃんとダッコしてるから恐くないよ」
などと私が言っても、そんなことは耳に入っていないのか、遠ざかって行く電車に手を振りながら、
「じんしゃ、バイバイ」
と、小夜は言っている。そして、見えなくなるまで見送らなければ気が済まないようであった。
私も幼い頃から電車が好きで、一度は電車の運転をしてみたいと願ったものである。同じ電車に興味を持つ親子であれた事に、たわいもない喜びを、私は感じていた。
妻と二人で電車に乗った時の里志などは、もう目を丸くして、私にその時の感動を報告しようとする。やはり、自家用車時代に産まれた子供なのだと、私は時代の差を感じたものだ。
しかし残念ながら、小夜は電車に乗ったことがない。
今となっては、それを叶えてやりたくても、小夜は病室の白い壁に囲まれて、意識不明の状態なのだ。
何という哀れなことになってしまったのだろう。
もしもこのまま、小夜がこの世にいなくなってしまったら、電車に限らず、未だ経験できなかった楽しい遊びや、欲望を満足させられなかったことに対して、私はどうやって、どのような方法で、小夜に詫びれば良いのだろう。
「小夜。絶対に死ぬんじゃないぞ。たった1年と9ヵ月でこの世を去ってはいけない。お前に人生の本当の喜びを味わうこともさせずに、このまま死なれてしまったら、パパやママは、生涯苦しみぬかねばならない。歩けなくてもいい。立てなくてもいい。そうなったら、背負って歩いてやる。神様は、お前を死なせるなんて残酷なことはしない筈だ。頑張れ、小夜」
私は、遮断機が上がるまで、そんなことを考えていた。
ずいぶん長い時間であるように思われた。
そして遮断機が上がる時、私は小夜の表情を想いながら、「わあい」と、心の中で叫んでみた。
動転と混乱と悲しみのうちに、私は成高建設㈱と言う看板のある事務所の前へ辿り着いた。
そこは叔父が経営する会社であり、私の2人の弟も勤務している。
作夜、私が叔母に一部始終を電話で連絡したことから、恐らく耳に入っていたのだろう。叔父と弟が、私の車を見て歩み寄って来た。
私は誰かに、この悲しみを打ち明けたい気持ちで一杯だった。こらえにこらえていた感情を爆発させたかった。
「小夜は、どんな様子だ」
と、叔父が私に聞いた。
その言葉が爆薬であり、私は思わずマッチを擦ってしまっていた。
「小夜は、死ぬかも知れない」
と、一言答える暇ももどかしく、こらえきれずに溢れ来る涙を、私は最早押さえようがなくなっていた。
唇が震えて、本当に、わなわなと震えて、何も言えなくなってしまっていたのだ。
私のいない間に、小夜の病状が悪化したりするのではないか。気掛かりでならなかったが、休日を除いて、それは毎日やらねばならない仕事であった。治療費などを支払うためにも、今となっては、なおざりに出来ない仕事である。
私は、片時も離れたくない気持ちを鬼にして、車に乗り込んだ。
その仕事とは、紳士服工場で出来た背広上着のミシンで縫えない部分を、手で仕上げる仕事である。それを何人かの主婦に任せてやってもらい、出来あがった背広を集めて来ては新しいものを配達する。
それだけならまだいいが、それを検査して、不良個所があると直さなければならない。それが大変な仕事であった。
妻が小夜に付き添っている間、その仕事を私一人でやらねばならないのだ。果たして、男の手でうまく出来るかどうかも問題ではある。
今日はその仕事の締め切り日である。
締め切りは、月2回で、15日と末日になっている。
内職者である主婦達は、半月分の仕上げ着数を一枚でも多くして、稼ぎを高くしようとするのか、締め切りの日には、とりわけ頑張ってその日のうちに納品しようとする。だから今日は午後3時頃までに、各内職者の家庭を回って出来上がった背広を集め、納期限の夕方5時までに、いつもの3倍もある着数を検査しなければならないのだ。
普段の日なら、一日中小夜に付き添っていられたかもしれないのに、それが残念でならない。
このまま家へ帰ってしまってよいのだろうか。病院に居なくてもいいのだろうか。医師は、非常に危険な病状だと言っていた。そして、生命の保証はできないと言っていた。そんな状態の小夜を妻に任せて、車のハンドルを握っていることが罪悪であるかのように思われた。
しかし、妻の内職に関してはある程度の収入になる仕事なので、それはやらなければならなかった。もし、小夜が奇跡にも助かることがあり入院が永くなれば、稼ぎが必要になってくる。
だが、その間に小夜が死んでしまったら……。
やはり、病院へ引き返すべきか。
いや、今日ばかりはそうはいかない。大勢の主婦たちが、私を待っている。
いや、そんなことは、こんな重大事に、どうだっていいことじゃないか。
稼ぎなんて糞喰らえだ。
やはり、病院へ引き返そう。
そんなことを、繰り返し考えていたように思う。
恐らく、私は混乱していたのだ。
その時、目前に接近していた鉄道の踏切りの警報機が鳴り出し、遮断機が下りた。
それによって、私は我に返ったように思う。
──事故を起こしてはいけない──
電車が、私を戒めてくれた。
小夜が一大事であるのに、我が子が死ぬかも知れないと言うのに、こんな時、私にまで事故があったら一体どうなると言うのか。考えるだけで戦慄する。
電車は、後から後から続いて通過し、長い間待たされたように思う。
そう言えば、小夜も電車を好きだった。
今日のように、踏切りで一時停止している時など、
「じんじゃ、じんじゃ」
と言って喜び、遮断機が上がると
「わあい」
と、手を叩いて嬉しそうにしたものだった。
私は、背広の集配をする時、よく里志や小夜を同乗させて走る。だが、最近は里志が大きくなったせいか、テレビ番組の面白そうなのがあると、集配にはついて来ることが少なくなった。だからそんな日は、小夜だけを横に補助椅子を取り付けて、そこへ腰掛けさせて走ることが多くなっている。
私は殆ど毎日のように、集配の途中、線路に平行して走っている道路の傍らに車を停めて、小夜に電車を見せてやるように心がけていた。
時には車から降りて、線路から5メートルも離れていないような極めて近い所に、小夜を抱いて立つこともあった。そんな時は、電車が近付いて来ると喜びようが違っていて、大声で叫んだりしていた。
だが、目の前を電車が通過する時は、慄えて私にしがみついて来るのだ。
私はすかさず、小夜を安心させるように抱きしめてやり、愛しさ余って、ついでに頬ずりしてしまうのだ。
「パパが、ちゃんとダッコしてるから恐くないよ」
などと私が言っても、そんなことは耳に入っていないのか、遠ざかって行く電車に手を振りながら、
「じんしゃ、バイバイ」
と、小夜は言っている。そして、見えなくなるまで見送らなければ気が済まないようであった。
私も幼い頃から電車が好きで、一度は電車の運転をしてみたいと願ったものである。同じ電車に興味を持つ親子であれた事に、たわいもない喜びを、私は感じていた。
妻と二人で電車に乗った時の里志などは、もう目を丸くして、私にその時の感動を報告しようとする。やはり、自家用車時代に産まれた子供なのだと、私は時代の差を感じたものだ。
しかし残念ながら、小夜は電車に乗ったことがない。
今となっては、それを叶えてやりたくても、小夜は病室の白い壁に囲まれて、意識不明の状態なのだ。
何という哀れなことになってしまったのだろう。
もしもこのまま、小夜がこの世にいなくなってしまったら、電車に限らず、未だ経験できなかった楽しい遊びや、欲望を満足させられなかったことに対して、私はどうやって、どのような方法で、小夜に詫びれば良いのだろう。
「小夜。絶対に死ぬんじゃないぞ。たった1年と9ヵ月でこの世を去ってはいけない。お前に人生の本当の喜びを味わうこともさせずに、このまま死なれてしまったら、パパやママは、生涯苦しみぬかねばならない。歩けなくてもいい。立てなくてもいい。そうなったら、背負って歩いてやる。神様は、お前を死なせるなんて残酷なことはしない筈だ。頑張れ、小夜」
私は、遮断機が上がるまで、そんなことを考えていた。
ずいぶん長い時間であるように思われた。
そして遮断機が上がる時、私は小夜の表情を想いながら、「わあい」と、心の中で叫んでみた。
動転と混乱と悲しみのうちに、私は成高建設㈱と言う看板のある事務所の前へ辿り着いた。
そこは叔父が経営する会社であり、私の2人の弟も勤務している。
作夜、私が叔母に一部始終を電話で連絡したことから、恐らく耳に入っていたのだろう。叔父と弟が、私の車を見て歩み寄って来た。
私は誰かに、この悲しみを打ち明けたい気持ちで一杯だった。こらえにこらえていた感情を爆発させたかった。
「小夜は、どんな様子だ」
と、叔父が私に聞いた。
その言葉が爆薬であり、私は思わずマッチを擦ってしまっていた。
「小夜は、死ぬかも知れない」
と、一言答える暇ももどかしく、こらえきれずに溢れ来る涙を、私は最早押さえようがなくなっていた。
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