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最終回 エピローグ そしてヤヨイは師匠の銃を手にし、北の野蛮人は故郷に帰った(後編)
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「小うるさい上司の篭絡」という大作戦を成功させ、愛するタオの居場所の確保を成し遂げ、懸案事項を全て片付けたヤヨイは、こうして12月4日を迎えた。
その日がAirborneとしての最後の日になることはわかっていた。そして「マルス」の指揮官としても。
帰還した時とは違い、良くプレスの利いた軍服に身を包んだ落下傘兵は三日前と同じ近衛軍団の司令部前の広場に集まり、誰言うともなく小隊毎に整列した。
すでに司令部前に設えられていた演壇。その左右に灰色や茶のマントをはためかせた近衛軍団長をはじめとするお偉方が勢ぞろいしたからである。その一番端に兵たちのボスであるグールド大佐が立って、こう宣言した。
「これより、本チナ戦役における第一近衛軍団第一落下傘連隊の戦死者を悼み、ここに彼ら彼女らの氏名階級を読み上げ、ヴァルハラでの冥福を祈るものである」
「各隊、礼砲撃ち方用意!」
各小隊から小銃を持った兵が一人ずつ進み出て演壇脇に整列し、天高く銃を構えた。「マルス」からもリーズルが代表して12名の列に加わり天に向かって銃口をあげた。
「エマ・シュナイダー陸軍伍長」
グールドが「覗き魔の丘」で戦死したエマの名を読み上げた。上等兵だったエマは戦死して二階級をあげ、伍長になっていた。
ズダーンッ!
兵、一人ひとりの名と階級が読み上げられる度に、12丁のライフルが空砲を撃った。
「クンツ・リカルド陸軍上等兵」
ヤヨイは空砲が狙う天の一角を仰いだ。「マルス」の最初の戦死者となったクンツも「覗き魔の丘」で散華したのだった。
安らかにね、クンツ。
彼女の後ろの「マルス」たち、特にミンの騎馬隊の猛攻を退けたビアンカもまた彼女なりの思いを込め、空を見上げた。
ズダーンッ!
そのようにして数十名にのぼる戦死者の名が読み上げられ、最後に黙祷をささげた。
そして・・・。
「次に、アルム攻略部隊であった「大工」大隊救出作戦に従事し、見事これを成功させた『学者』大隊、並びに『きまぐれ』大隊の特設騎兵隊に叙勲を行う!
名を呼ばれた者は演壇に登り軍団長閣下より勲章を授与さるべし!」
グールドがそう言ったからヤヨイたちは驚いた。
「『学者』大隊『優等生』小隊、小隊長リアム・ヨハンセン中尉!」
「や、ja!」
真っ先に名を呼ばれて一瞬戸惑ったヨハンセン中尉が壇上に上がった。
演壇の向こう側の第一近衛軍団軍団長のマケイン中将が冬の青空のもと灰色のマントをひらめかせて、こう言った。
「リアム・ヨハンセン中尉。
貴官は本チナ戦役アルムの戦場において、孤立した『大工』大隊救出作戦を敢行、自らの命をも顧みず勇敢に戦い友軍救出に尽力した。その功を讃えここに『Humanitären Dienst(フマニテールンディーンスト)』章を授与するものである! 」
プレゼンテータは救助を受けた当の「大工」の小隊長が行った。彼は細いオークの枝を編んで作ったメダルをヨハンセン中尉の首にかけ、略章の入った小さな木の小箱を授けた。
「フマニテールンディーンスト? なんですか、あれ」
フォルカーが顔中を「?」にしてヴォルフガングに訊いた。だが、彼にもわからない。
「・・・知ってる?」
彼がグレタに訊けば、
「あんたは?」
彼女はクリスティーナに訊いた。
「・・・聞いたことないわ」
この「人道奉仕勲章」、英語名「ヒューマニタリアン・サービス・メダル(Humanitarian Service Medal)」と、それがヤヨイたちに授与されたことに関しては多少の説明を要する。
それは帝国陸海軍を通じてこの度初めて制定された勲章であった。
その原型はやはり古代ローマ時代にある。
戦場で友軍を救った兵士が救われた兵士からオーク(楢)の葉で作った冠(corona civica 、市民冠と呼ばれる)を送られたが、その故事に倣ったものなのだ。
月桂冠の方はユリウス・カエサルが元老院からその常時着用の権利を送られたことで有名だが、市民冠の方は彼の後継者であるアウグストゥス帝がそれを着けた彫像や銀貨を残していることで知られている。
そして旧文明は20世紀の後半、1977年に米国のフォード政権において、「人道的性質を有する特定の軍事行為又は作戦への功績」のあった軍人に贈られる勲章として「Humanitarian Service Medal」が制定された。
オーク、楢の枝のメダルはそうした由緒ある、名誉の褒章だった。
ヤン議員がチナの北の豪族ドンと協議し、ドンをしてチナの王国を支配させ帝国の傀儡とすることを了承させたことはすでに述べた。それによってこの度のチナ戦役の終結を図り、双方矛を収める、と。
だが、ドンがあまりに慎重に事を進めたがため、すでに発令されていたチナの首都ピングーにいた本国軍10万のアルム防衛のための派遣命令がまだ生きていたことは計算外だった。ヤヨイたちがナイグンでの停止命令を受けた時点でアルムに孤立した「大工」は機甲部隊による解放の目途が立たなくなり、本国軍10万の来襲を迎えれば全滅することは火を見るより明らかだった。
後にヤヨイたちの「命令違反」の救助作戦を知ったヤンは心を痛め、何とかして作戦を遂行した「学者」と「空挺騎兵」に報いねばと一計を案じたものだったのである。
だが、このことが第三軍の軍令と矛盾を生じたため後に問題となるのであるが、それもまた別のお話。
「ヤヨイ・ヴァインライヒ少尉!」
「Ja!」
プレゼンテータはハーベ少佐だった。
彼はヤヨイの首にメダルを掛ける際、
「ありがとう、ヤヨイ」
小声で感謝を示してくれた。
列に戻って小箱を開けた。
略章は小さな丸いメダルだった。
オークの葉をあしらったのをバックに赤いハートが描かれ、それを小さな白い手が抱きかかえている、そんなデザインのものだった。
なにこれ!
カワイイ・・・。
ヤヨイはその可憐な意匠の略章に魅入った。
これよりはるかな後年。
音楽家として大成し壮年となったタオが、人にヤヨイのことを訊かれた際にこう述懐している。
「母は軍役中数々の功績によってたくさんの褒章や勲章をいただきましたが、中でも一番大切にしていたのがこの勲章でした。
退役して以降はあまり人に会いたがらず、なにかと家に篭ることが多かった母でしたが、昔の空挺部隊の方々の集まりには必ず行っていましたね。そんな時は着飾ってこの勲章をコサージュのように着け嬉しそうに出かけて行ったものです。
軍人でしたから、命令で人を殺めるのが任務だったわけですが、母はどちらかと言えばあまりそれが好きではなかったようです。もちろん、言葉にはしませんでしたが。
亡くなる直前、死期を悟った母は私を枕元に呼んでこう言ったものです。
これは棺の中に入れないでね、と。
わたしの生涯で唯一人に誇れるものだから、わたしが生きた証として、あなたがずっと持っていて、と」
「諸君! 約束は忘れていないぞ。今夜は朝まで食って飲んで騒ごう! 今夜スブッラは、我々落下傘連隊が占拠する!」
グールド大佐は作戦を前にして兵たちに約束した一件をちゃんと覚えていた。だがスブッラには千人近くの人数を収容できる店などはない。
そこでスブッラの一つの通り全ての店を貸し切り、通りにテーブルと椅子を出して一大宴会場にしたのである。
兵たちが喜んだのは言うまでもない。
「やり~い! 連隊長殿、太っ腹~!」
「よ~し、朝まで飲んで飲んで飲み明かすぞォっ!」
もっとも、「家を売ってでも」と言ったのは言葉のアヤだったのだが、大散財には違いなく、さすがに見かねたフロックス少将や有志の将軍たちからのカンパもあったとかなかったとか。だが、ウワバミたちの墓場とも称されるスブッラ史上前代未聞のスケールの宴会には違いなかった。若い連中のバカ騒ぎや酔漢たちのケンカには慣れっこになっていたスブッラの住人たちも、さすがに通り全てを埋め尽くしたテーブルとその上に並んだふんだんな料理の山、通りの店全ての給仕が総出で運ぶ総量数千リットルにはなるかと思われるビール、そして胸を張り、隊伍を組んでやって来た陽気な軍服姿の一団には目を見張った。
その兵たちの約半数に及ぶ者の左胸には、先刻彼ら彼女らに授与されたばかりの勲章の略章、通称「レッドハート」が着けられていた。
「では諸君! 作戦の無事終了を祝って、乾杯する!」
演説も何もなく、連隊長グールド自身が小樽ほどもある巨大な木のジョッキの鉄製の握手を握り、ゴクゴクと豪快に一気に飲み干してしまった。
「なにあれ、イッキしちゃうの?」
「スゲーな! 飲んじゃうぞ」
「うひょーっ!」
「連隊長、やるーぅ!」
あまりに豪快過ぎるその飲みっぷりに周囲の兵たちからはヤンヤの喝さいが巻き起こった。
「プッハーッ! んーまいっ! 」
超巨大ジョッキを一気に飲み干したグールドは高らかにこう言った。
「さあ、お前たちも飲め! 今日だけは士官も下士官も兵もない。みな落下傘の仲間だ! かつて、いにしえのヤーパンではこういうのを『ブレイコー』といったそうだ。
今日は、『ブレイコー』だ!」
「ほんじゃ、太っ腹連隊長殿にカンパーイ!」
「落下傘連隊にカンパーイ!」
勢いづいた兵たちは一斉にジョッキを傾け始め、喉を鳴らし、口の周りに白い髭を生やしまくった。
沿道の店からは次々にビールの小樽が通りに運び出され、鳥や腸詰が焼かれては兵たちの胃袋の中に流し込まれ、詰め込まれていった。
こうした催しがあるとドサクサに紛れて関係もないのに相伴に預かる不心得者の存在はスブッラの名物だったが、さすがに年季の入った不心得者たちもさしものスケールの大きさにたじろぎ、むしろ早くも酔った兵たちの方が彼らの腕を引っ張って無理やりに乾杯を強制する、そんな光景がそこかしこで見られた。
大声で歌い出す者。踊り出す者。酔って気が大きくなり「オレは天下を取る!」などと訳の分からないことを吼えるもの。笑い出す者。テーブルに首を垂れて早くも酔い潰れる者。泣き出す者・・・。それぞれの酔漢たちの乱痴気騒ぎ、「ファンダンゴ」の渦に、「アイゼネス・クロイツ」に「フマニテールン・ディーンスト」を着けたヤヨイもまた、巻き込まれた。
「アイゼネス・クロイツにカンパーイ!」
「世界最強の『マルスの娘』にカンパーイ!」
当然、酒の肴になった。
だがいかにブレイコーとはいえビールのシャワーを浴びるのはゴメンこうむりたかった。
「小隊長ったら、ちょっと、飲みが足りないゾ、と」
多少酒乱の気味があるビアンカや、常はムッツリしているのにこういう場では、
「さ、飲んで飲んでヤヨイちゃん♡」
などと無遠慮に人の背中をバンバン叩いて大騒ぎするクリスティーナたちをなんとか躱し、
「ごめんね。わたし、飲み疲れちゃった。ちょっと休憩してくるね」
「マジ? すぐ戻ってくんのよ!」
酒豪でちっとも酔いを見せないリーズルに耳打ちしてその場を離れ、通りの外れの店の中に逃げ込んだ。
と。
そこにウェーゲナーがいた。
彼も酔っ払いたちのバカ騒ぎに疲れてしまったらしく、ウォトカのライムジュース割りをちびりちびりと舐めていた。
「なんだ。逃げて来たのか。気が合うな」
と、彼は言った。
なんとなく彼の隣に座った。それが自然に思えたのだ。
そしてビールの注がれた木のカップをくい、と煽り、何気に彼を見つめてしまった。ヤヨイも少し酔っていたかもしれない。
「そうかも」
と、言った。
「ねえ、中尉」
「ん?」
「キス、上手い方?」
大胆過ぎる言葉をサラッと吐いている自分がいた。
ウェーゲナーも、ノリが悪い方ではなかった。
「試してみるか?」
彼の唇がイキナリ、ちゅっ、ときた。
それはキスというよりはキスの撒き餌だった。エサだけ撒いて、相手を誘き出す時によくやる手だ、と。仕方がない、誘われてやるか・・・。
自分は酔うとアホになる。アホの集まり空挺部隊だから、仕方ないか・・・。
「ねえ、ズルい。もっと、ちゃんとしたの、して」
「・・・ったく。しょーがねえな」
ウェーゲナーは女の扱いに慣れているように見えた。あの「覗き魔」の丘で女性兵たちがやたらに彼の肩を持っていたが、目の前の彼を見てそれもそのはずと納得した。
「来いよ」
店の奥に手を引かれ、隣の店との間の狭い路地に連れ出された。
壁に押し付けられて、彼の顔がぐっと近づいてきた。
「ちゃんとしたの、してやるよ。本格的なヤツ」
「して。本格的な、キス」
そして二人は深くて濃い口づけを始めた。
ヘルムートは皆に遅れること2日でやっと帝都に帰還した。そして今日の近衛軍団での式典に臨み、スブッラの打ち上げにもなんとか参加することが出来た。
だが右腕をほぼ真横にガッチリとギプスで固められ、カッコ悪いことこの上なかった。
ここでも面倒見の良い兵長が付き添ってくれ、彼のカップにビールの小樽を傾けてくれた。
だが、ヘルムートは不機嫌そのものだった。
あの「フマニテールン」なんとかの授与すらも彼の心を浮き立たすことはできなかった。まだあちこち身体が痛むし、カッコ悪い姿を晒していることもあったが、本当の原因は別にあった。
たくさん飲んだはずだが、ちっとも酔えない。彼の目は始終辺りに注がれキョロキョロと見回すのを止めなかった。傍の知らない人からみればまるきり異常者である。
「どうしたんですかね。ヴァインライヒ少尉、いないスね」
「まあ、これだけの人数だしな。カンケーないウワバミ連中も大勢混ざってるし。・・・どっかにいんだろ」
「オレ、少し見てきます」
「おい、ちょっと待てって。落ち着け、ヘルムート!」
世話焼きの兵長の諫めも聞かず、ヘルムートは右腕を水平に上げた不格好な姿のまま席を立って杯を掲げて騒ぎビールをぶっかけ合っている酔っ払い兵たちを躱しつつ、通りを見回しながら愛しのブルネットの姿を探し回った。
そして。
いた!
通りの外れの、店のほとんどのテーブルと椅子が通りに運び出されて壁際のボックスにだけ人がいた。だからわかった。
ヴァインライヒ少尉と、あれはたしか・・・、「覗き魔」だ。
テーブル越しではなく、隣り合って親密そうに、しかも見つめ合ったりなんかしてる。
・・・許せなかった。
元々彼には人の恋愛について許可を与えるとか与えないとかの権利も権力もあるわけでもない。
しかし、許せないのだっ!
右腕を上げたままのかなり目立つ不自然極まりない情けない格好の自分であることはとうにアタマになかった。きっと、酔っていないと思いつつも、やはり酔っていたのだろう。あのアルムの謎の施設に単身肉薄した時よりもはるかに大胆にその店に近づいていこうとしていた。
と。
二人が急に席を立ち、「覗き魔」がヴァインライヒ少尉を引っ張って店の奥に・・・。
ややっ!
それを目で追うと、さらに店の横の路地に出たのを発見!
しかも、ヴァインライヒ少尉が壁に押し付けられ、「覗き魔」の顔が・・・。
彼女の顔を、塞いだ。
「んーっ!・・・。んーっ!・・・」
なんてこった・・・。
オレのブルネットが・・・。あんな奴に・・・。
急にアタマがくらくらしてきて、その場にへたり込んだ。
「ヘルムート! おい、大丈夫か。しっかりしろ!」
すぐに駆けつけた兵長が彼を揺り動かしたが、すでにヘルムートの意識はなかった。
後にそのスブッラ史上最大規模の宴会で同じような飲み倒れ食い倒れが十数人ほど出た。いずれも近くの診療所や、そこで診察にアブレた者がバカロレアの附属病院にまで次々と運び込まれた。
他の者たちと同様、ヘルムートは「急性アルコール中毒」と診断され、またも医者の世話になることになった。つくづく、バカなヤツである。だが、苦い青春の思い出の一ページは、誰にとってもバカの色で彩られている。「バカの集まり」落下傘連隊だけに、それはなおさらであった。
そして、ヘルムートは知らなかったが、その店の通りを挟んだ反対側に、やはりヴァインライヒ少尉と「覗き魔」の様子をうかがう人影があった。
彼は、バカではなかった。むしろ、バカになり切れなくて、愛する女をみすみす奪われる羽目になっていた。
愛する二人の恋人たちの熱い抱擁を目を閉じて耐えたその男はやおら立ち上がり
「ごちそうさん」
テーブルに勘定を置いた。
「お客さん。今夜はいいんですよ。なんでも陸軍の空挺部隊の方がこの通りの店の勘定は全部持つと言って下さってるんで」
「へえ・・・。戦争してるってのに、軍隊は気前がいいんだね」
「まったくでさ。よっぽど困難な目に遭った兵隊さんたちなんでしょうねえ。とにかくたらふく飲ませて食わせてやってくれと。だから、ご相伴に預かっちまいましょうよ、ね? お客さん」
「じゃあ、そうするとしようかね」
テーブルの上のコインを掻き集め、ポケットに捩じ込んだ男は一枚の銀貨を主人に握らせた。
「これ、少ないけど」
「こりゃどうも! まいどあり」
そうして男は店を出た。
深い敗北感が彼を襲った。
ヤヨイ・・・。
どうしてお前は・・・。
リヨンはもう、顔を背けて歓楽街を出る道を急いでいた。
どうしてお前は、いつもぼくを苦しめるんだ。
最初の軽いキスがヤヨイの女を目覚めさせ、次の熱くて濃いキスが身体の芯を蕩けさせていた。その蕩けが、目に出ていた。
唇は離れたが息は荒く、二人の視線はお互いを求めて熱く絡み合ったままだった。
「ねえ、中尉」
「なあ、もう『中尉』はよせよ」
「じゃあ、・・・ラインハルト、」
ヤヨイは彼の厚い胸板に触れた。
「『プリンツ・オイゲン』の甲板で、何か言いかけたでしょ」
「え? あ、ああ・・・」
「何を言いかけたの? 正直に、言いなさい」
だめだ。もう止まらない。
ヤヨイはとんでもなく大胆になってゆく自分を、許した。
「さあな、わすれちまった」
「うそ! ウソツキ!」
どうしようもなく彼が、ウェーゲナーが、欲しかった。
そして、自分から唇を寄せ、彼を奪った。
それはさらに濃さを増した、灼熱のキスだった。
「わたし、あなたと愛し合いたいわ」
「偶然だな」
と「覗き魔」は言った。
「オレも同じことを考えてた」
帝都「カプトゥ・ムンディー」はその名の通り「世界の首都」だ。
強国チナを下しつつある今、帝国は名実ともにこの世界の主人になろうとしていた。
その最大の街である帝都は帝国全土に向かう鉄道駅を都の四方に持ち、毎日帝国の果てまで行く人や果てから来る人、果てから来て果てに向かう人々を迎える街、「コア」でもある。最高級の「クーロン飯店」を筆頭に、旅人の懐具合に応じてそれ用の宿は無数にあった。
二人はそのうちのごくありふれた一つに部屋を取った。そして、お互いの愛を確かめ合った。
そこで二人はただの男と女になった。
片方が高まってももう片方が満足せず、もう片方が埒を開けても、片方が更なる高みを求めた。
二人とも、一千メートルの高空から敵地に飛び降り、寡兵を持って敵の大軍を撃退した猛者だった。敵の大群の守る砦に突入し、囚われの友軍を救い出した勇者でもあった。一人は素手で数人の兵を倒す手練れであり、もう一人は心で手練れを励まし、包み込んだ。お互いを求めあう気力体力は常の人間に勝り、夜が更け日付が変わってもお互いを求めあう欲望は消えなかった。
「意外だな」
「なにが?」
「素手で何人も敵を倒せるような豪傑だからきっとガチムキなんだろうと思ってたのに。お前、柔らかい身体してるんだな」
「柔らかいのは、キラい?」
「いいや。大好物だよ」
「わたしは、硬いのが大好物なの」
そうして互いに数えきれないほどの高みに昇り、昇らせ、めくるめく快楽の泉に溺れ、いつしか二人は自然なまどろみの中に入って行った。
夜が更け、二人のまどろみが深くなるとともに、ヤヨイが初めて部下を率いて戦いに臨んだこの長い話も、そろそろ終わりが近づいている。
ここで、語り尽くせなかった事どもの顛末を、記す。
帝国は、チナを下した。
この後、ドンは平和裏にチナに王位の移譲を促すことに成功する。
旧文明の20世紀。かつて帝国のすぐ近くにあったヤーパンの傀儡である「満州国」の皇帝、「愛新覚羅溥儀(アイシンカクラフギ)」は、第二次世界大戦のヤーパンの敗戦によって皇帝の地位を追われ一市民へ落とされた。だが、彼は天寿を全うした。
それと同様に、幼王であったことが幸いしたのか、チナ王もまたその一命を赦され、普通の一市民としての生を送ることを認められた。
「我が意に従わねば、ピングーは天の怒りに触れ、王都は焼き払われ焦土と化しますぞ!」
老獪なドンが宮中に乗り込んで放ったその一言を裏付けるように、爆撃可能に換装された飛行船数隻がチナの王都上空に現れ、その空を覆うがごとくに飛行し、市街の外に大量の爆弾の雨を降らせ、コウリャン畑を悉く焼き払った。
最後まで「禅譲」に抵抗した「烏合の衆」の宦官どもが震えあがったのは言うまでもない。
ドンへの政権移行が行われるまさにその日の朝。
宮廷に宦官どもの姿はすでになく、そして、帝国との間に休戦協定が結ばれ、かつていにしえのヤーパンが敵国であった米国に敗れてそうしたように、攻守同盟の名を借りた、事実上の「帝国の覇権容認」の約定を交わすに至る。
最高司令官、帝国皇帝の決断は、正しかった。
もし皇帝が第二軍ハットン中将の進言、つまり北と南の同時侵攻による安全策を選んでいれば、南の第三軍は強力なミン軍により手間取り、最終的にミンを下すことは出来たとは思われるものの、戦争はより長期化し、戦費はさらに嵩み、兵員の消耗も増大したであろう。
さらに、北の大軍は正面のドンだけでなく北方の野蛮人に対しても戦線を構築することを余儀なくされ、その戦後における負担も増大したに違いない。
が、ドンの要衝クンカー攻略を思い留まり、休戦協定によって第二軍は侵攻前の国境まで引き上げた。それによって費やされるはずだった数個軍団が節約できただけではない。
北にチンメイ山脈、南に制海権を得た海のある、幅200キロの回廊のような旧ミン一族の所領を丸ごと得られたことは、途中の軍団配備を大幅に節約してチナ本国の喉元に接することを可能にした。
帝国初の空挺部隊と機甲部隊による協同作戦は最終的な作戦目標の達成こそできなかったものの、十分にその戦略目的を果たしたと言える。 皇帝の選択は、喪われるはずだったより多くの兵員の命と国費負担とを未然に防いだのだ。
だが、物事には全て表と裏、メリットとデメリット、作用に対する反作用がある。
戦略的に全く正しいこの帝国皇帝の決断が、後に想像もしなかった災いを帝国にもたらすことになるのだが、それを語るのはまたあらためて別の物語の中に機会を譲る。
そして、この物語を彩った人々の顛末は。
ナイグンの攻防戦を前に不意の砲弾の攻撃を受けて「不肖の人」となっていた「学者」大隊長エルンスト・カーツ大尉は廃兵院に収容され療養を受けていた。チナ戦役が終わり、休戦協定が結ばれ、マルス、ヤヌスの両神殿の扉が閉じられ、人々が普通の生活を取り戻したころに、やっと彼は我を取り戻した。
「ここはどこだ。ナイグンの橋は、どうなった?」
その後カーツは軍を去り、予てより願っていた学問の道を志し、バカロレアの地質学教室の講師の職にありついた。そこで再びヤヨイに再会することになるのだが、それはまた別のお話。
資源調査院のアラン・フリードマン調査官は、占領が確定し領有なったゾマに赴任し、新たな油井を掘削する監督官として日々を送っている。
アランと同じ、北の第十三軍団で独立偵察部隊に属し、ヤヨイの声掛けで近衛軍団の落下傘連隊に加わった予備役陸軍上等兵のリーズル・ルービンシュタイン。
彼女はこの戦役後、一度は袖にしたホモ・ノヴァス(新興成金)の男に再度言い寄られ、
「予備役招集が掛ったら、また軍務に戻ります。それでもいいなら、結婚してあげる」
そんな高飛車な態度にも拘わらず帝都近郊の七つの丘の一つに邸宅を構える大金持ちの後妻に収まった。そして再び新兵訓練所の射撃教官に復職して今に至る。
そのリーズルの薫陶よろしきを得て短期間で優秀なスナイパーに成長したビアンカ・エッケルト二等兵は、チナを下して以降は唯一の実戦が経験できる北、北の野蛮人から国境を守る第七軍団の独立偵察大隊にまたも志願して転属した。
そしてあのアルムの飲茶屋の娘に恋してしまったフリッツ・ローゼン上等兵だが、彼の予測の通り最初に進出した第六軍団がそのままナイグン西の旧チナ、現ドン王国との新たな国境沿いに陣営地が設けられ駐屯軍となったのでそこに志願して転属した。
ちなみにあの最後の火薬庫の大爆発の爆風はアルムの堅固な城壁によって大方減殺され、飛び火によって城壁内アルム東の市街が若干の火災を起こしただけで済んだ。その後帝国との協定が成立して交易も再開され両国の人の行き来も自由となったから、もしかするとあの飲茶屋の娘との恋も大安成就したのかもしれない。
他の「マルス」の面々を含めた落下傘連隊だが、その後あの帝都の東の奇妙な剣のような山の訓練施設に正式な陣営地が設けられ、第一近衛軍団所属のまま第一落下傘連隊の常設駐屯地となった。
だが、チナ戦役後の政府の軍備縮小の方針を受けて連隊の規模は半減し、20個小隊、2個大隊の規模まで縮小された。連隊長グールドは転属し、あらたに「大工」大隊長ヘルムート・ハーベが中佐に昇進し連隊長となった。
実は、その異動にはこの度の第三軍の軍令とヤン議員の画策したアルムの空挺部隊救出作戦との矛盾、齟齬、行き違いなどから端を発した軍内部の対立が関係しており、それがこの度のチナ戦役の結果と相まって、やがて国を二分するほどの大問題に発展してゆくことになるのだが、またそれも別のお話。
そして、ハーベや彼の大隊の下士官たちの養子となったフェイロンたち、「アルムの悪ガキ」のその後だが、その彼らがその後に起こった帝国の災い、大きな事件に深く関わってゆくことになる。
さて、その後の顛末を記さねばならない登場人物はまだまだ大勢いるのだが、ひとまずはこれぐらいにして、このチナ戦役に関わるヤヨイの物語の締めくくりに戻ることにする。
元老院前広場のすぐ向こうにバカロレアの広大なキャンパスを、そしてそのすぐ南には繁華街スブッラを望む内閣府のオフィス。
政務に一区切りつけて窓の側に立ったヤンは、もう日付も変わるというのになおもこの内閣府にまで聞こえてくる喧騒を生み出している盛り場の灯りを望んだ。
背後のドアがノックされ、金髪の麗人が香ばしいコーヒーの香りを届けに来てくれた。
「閣下、ほどほどになさいませんと、御身体に触りますよ」
「やあ、マーサ。おお、いつもありがとう。君こそこんな遅くまで」
優秀なスタッフではある。が、いつも遅くまで付き合わせてしまっていた。彼女の身体を心配し、その都度咎めはするのだがとの都度体よく無視されてしまうのだった。そんな彼女に困惑する反面、いつしかその存在を頼りにしてしまっている自分に気づいていた。
彼愛用の木のマグカップを受け取ったヤンはその茶色の液体のふくよかな焙煎の風味を味わい、そして窓の外を指して美しく聡明な秘書に尋ねた。
「今日はだいぶ賑やかじゃないか。何かあったのかね?」
「エア・ボーンですわ、閣下」
「ほお?」
「近衛落下差連隊のグールド大佐が作戦前に約束なさったのですって。無事作戦終了のあかつきにはお前たちに死ぬほど飲ませてやる、って。なんでも、通り全ての店を貸し切っているとか」
「なんと・・・。そうだったのか。
アルムの部隊の救出も無事成功したようだ。ウリル少将のところの例の『マルスの娘』が随分と奮闘してくれたらしいね。あまりにもドンがモタモタしているので気になってはいたのだ。でもおかげで私も一つ肩の荷が下りたよ。
そうか、あれはエア・ボーンたちだったのか・・・。あ、そうだ」
ふと心にかかっていた問題の一つを確認したくなった。
「はい?」
「例の『お客人』は無事に帰って行ったかね? 出来れば最後にもう一度会いたかったが」
「はい。わたしと特務機関のマギーとで北駅までお見送りして差し上げましたわ」
「で、彼は何を所望したかな。何でもいいと言ったものの、実際に何を求めたのか気になっていたんだ」
「お土産のことですね。それは・・・」
マーサは北の国に帰っていた野蛮人がリクエストした品物をヤンに耳打ちした。
「なんだって? なんでまた、そんなものを・・・」
「さあ。よほどお気に召したのでしょうね。背嚢一杯に詰めてお持ち帰りになられましたよ」
夜空を見上げ、しばし沈思していたヤンは、
「ああ、そうか。わかったぞ!」
掌の上にポンと拳を突いた。そして美しい秘書を顧みた。皇帝の許でこの巨大な帝国の国政を縦横に采配する若き国務長官は朗らかにその東洋風の顔を綻ばせた。
「もし彼がその手土産を私が想像した通りに使うなら、彼はまず政治家として第一級と言えるだろうな。この元老院の600名の議員たちなどよりも、はるかに政治的センスがあると思うよ。
そもそも、その先見があったからこそ、たった一人で、しかも丸腰で、何度も侵攻した敵国であるはずの我が帝国にやって来たのだろうね。好奇心と勇気だけを持って、ね。
まったく、大した男だよ、彼は・・・」
ヤンは全くと言っていいほど偏見というものに無縁の男であった。肌の色が青かろうが、アタマや髭がもじゃもじゃだろうが、ヤンの透徹した洞察力は、その野蛮人の風体の奥にある高い知性を看破していたのである。
そして、彼は帝国にやって来た青い肌の野蛮人に大いに期待していた。
「わが帝国は大国チナを下した。
ここ当分の間は、大きないくさの種はないだろう。
これからはその果実を生かして産業を活性化して内需を掘り起こし、国を富ませることに専心できる。そして、そうあらねばならない。そのためにも、東のノール王国の政情の安定、そして北方の国境の安寧が必要なのだ。
里に帰った彼が、彼のその理想を実現してくれることを、私は心から祈りたいね」
真冬の真夜中。帝都の安宿の、燃え盛る暖炉の炎がほの温かい部屋で明け方まで激しく愛し合い求めあった二人は、深い満足のまどろみの中にいた。
ヤヨイはウェーゲナー、ラインハルトの腕の中から身を起し、彼の唇を奪ってまどろみを破った。
「お前、スゴいな。まるで底なしだ」
「ウフフ。降参した?」
ラインハルトの、まだ汗のひかない裸の胸に顎を載せたヤヨイは悪戯そうに笑った。
「ああ。降参した」
「ねえ・・・」
「ん?」
「『プリンツ・オイゲン』で、何かいいかけてたでしょ」
「ん?」
「とぼけてもダメよ。もうわかってるんだから。正直におっしゃい!」
もう何度も身体を合わせ、酔いがさめるほどの汗もかいていた。ヤヨイは芯から大胆になっていた。
「ああ、あれな。あれは、その・・・」
「その?」
「・・・もう夜も明けるな」
「ん、もうっ!」
リセでの初体験。初めて女の悦びを教えてくれたイマム先生。そして、ジョー・・・。
ラインハルトは、ヤヨイがこれまで通り過ぎてきたどの男とも、違った。
彼といると気が張らない。自然の、素のままの自分でいられる。相性という言葉があるが、彼とは心と身体のどちらも、バツグンに相性がいい。
この男なら、ずっと一緒に居られる。そう思った。
ヤヨイは裸の胸をさらに愛する男の肌に寄り添わせた。
「わたし、タオのお父さんが欲しいの」
「なんだよそれ。ムードまるでなしじゃんか」
「なってくれない? お父さんに」
「言い直せよ。もうちょっと、甘くさ」
そして、微笑みを湛え続ける彼の、優しく見下ろす瞳に求婚した。
「ラインハルト。わたしたち、結婚しましょう」
彼の胸にキスをし、反応を待った。
「んー・・・。どおしよっかなあ・・・」
「なにそれ。焦らす気? 性格悪い!」
「なら、やめとく? 」
「ん、もうっ! いじわるね」
「カワイイ女の子は、イジめたくなるんだって」
安宿だから窓に高価なガラスはない。窓枠の戸板の隙間からはや黎明の気配が忍び込みつつあった。
男は胸の上で頬を膨らませている愛しい女のブルネットを優しく指で梳き、その碧眼に映る暖炉の炎を見つめた。
「結婚してくれ。俺の奥さんになってくれ、ヤヨイ」
「タオのお父さんに、なってくれるのね」
ラインハルトは娶ろうとする女の唇を引き寄せ、キスをくれた。その甘い感触に、ヤヨイは再度、酔った。
だが、ヤヨイはもう一度確認するべきだった。念を押すべきだった。ヤヨイとの結婚は、イコール彼が「タオの父親」になってくれることと同じなのだということを、である。
ヤヨイは二十歳。年が明けて三月になれば、21。
平民の多くは小学校を卒業したら社会に出る。旧文明と比べればはるかに短い帝国人の平均寿命からすれば、二十歳はもう立派な大人である。だがきっとそれにも個人差というものが、あるのだろう。
まだまだ、ヤヨイは未熟だった。
それがために後の後悔を生むことになるのだが、いつの世も、燃え上がっているときの男と女にはそれがわからないものなのだろう。
「そろそろ行かなくちゃ。ホラ、俺ら『指揮官』だし」
「じゃあ、もう一度愛して。そしたら行く」
「ほーんと、底なしだな、お前は」
そして、再び深く愛を交わした二人はようやく帝国陸軍の士官に戻った。
「まだ連れ立ってるところを見られるとマズいと思うの。わたしが先に出るわ」
「みんなもう、あらかた帰っちゃったろ」
「それでも、いちおう。ね? ダンナさま♡」
最後に今一度熱いキスを交わし、ヤヨイは安宿を出た。
帝国陸軍落下傘兵に定められた正式軍装であるダブダブのジャンプスーツ。
冬でも温暖な帝都とはいえ、もう冬至も近い払暁を待つ歓楽街に自分と同じ風体の酔っ払いを探した。乱痴気騒ぎと形容するのが相応しいぼどの賑わいは既に消え、日の出と共に起き出すスブッラの住人たちがあくびをかみ殺しつつテーブルや椅子を取り片付け、宴の後の後始末を始めていた。
さて、「マルス」たちはまだいるかしら。
通りの端から順に軒を連ねる店々の中を覗いて回っていると、一軒の飲み屋の主人から呼び止められた。
「ちょっと、兵隊さん。これ、あんたの知り合いかね。だったらはやくどこかに捨てて来てくれないかね。宴会は終わったんだ。とっとと帰ってくれないと、商売のジャマだよ!」
まさかと思ってその飲み屋の店先を覗いてみれば、案の定だった。
「フォルカー! それにビアンカにグレタ。それにクリスにヴォルフガング。まあ、グレイ曹長まで!」
店の店員がホーキで履き掃除をしている横で、テーブルに突っ伏した「マルス」たちが居汚く爆睡していた。
「むにゃむにゃ。もう飲めないッス、小隊長殿・・・」
やんちゃなフォルカーの夢の中ではまだヤヨイが彼にしこたま飲ませようとしているらしかった。
ナイグンの橋に続きスブッラの酒場の酒を飲みつくして「制覇」した英雄たちを起し、二日酔いでふらつく彼ら彼女らを、酔漢たち目当てに流していた通りすがりの辻馬車に乗せた。
「ふぁ、しょーたいちょーどの?」
寝惚けるビアンカに、
「お疲れ様、みんな。いろいろ、ありがとうね」
と言った。
辛うじて意識を取り戻したグレタ、そしてヴォルフガングが、こう言った。
「小隊長どの! これからも、自分たちの指揮官でいてくださいね」
「近衛軍団の兵営まで」と馭者に頼み込んで辻馬車を見送った。
さよならは言わなかった。
ヤヨイには先のことはわからない。
もしかすると、また再び彼ら彼女らと共に任務に当たることもあるかもしれない。でも、今彼女にわかるのはクィリナリスに帰らねばならないということだけだったから。
ひとまずクィリナリスの下宿先へ帰ることにした。
貴族たちの邸宅が軒を連ねる高級住宅地クィリナリス。街路のガス灯はまだ灯っていて石畳を照らしていたが、そこにも黎明がやってきつつあった。
でも、下宿先の門の側で居眠りしている門番のハンスの顔を見て気が変わった。
まだタオも眠っているだろう、と。
ヤヨイにはまだつい先ほどまでラインハルトに抱かれていた余韻があった。その余韻が残る間はなぜかタオに会うのが憚られたのだ。
それでその足ですぐ先のヤヨイの古巣、個人の邸宅に偽装した「ウリル機関」の本部に向かった。
まだ「スパイマスター」は出勤していまい。それでも良かった。彼のオフィスにある、「あるもの」を手に取りたかったのだ。
「ホラ、俺ら『指揮官』だし」
別れ際にラインハルトが言った言葉が、酒と愛の余韻とでふやけていたヤヨイの気を少しずつ引き締め始めていた。
「お早うございます、少尉殿。お帰りなさい!」
門番の奴隷に扮した軍曹は、まだ朝の早い近所を憚り、小声で略式の敬礼をした。
「お早うございます、軍曹。・・・まだ、ですよね」
答礼しながら軍曹に訊いた。
「はい。まだおみえになっておられません」
「わかりました」
そして彼が開けてくれた門を通り、邸宅の中に入って行った。
まさかとは思いきや、やはり准尉のおばちゃん、マギーはそこにいた。気が付けば、彼女はいつもそこにいる。いったい彼女はいつ眠るのだろうと思うことがある。
「まだ来てないわよ」
ヤヨイがあげたメープルシロップのガムがいたくお気に召したようで、クチャクチャ口を鳴らしながら、彼女は挨拶もそこそこにいつものぞんざいな口を利いた。
「だそうですね。軍曹にききました。でも、マギー。睡眠不足は身体に毒ですよ」
「飲み会の朝帰りが身体にいいという話も聞かないけどね」
すでに空挺部隊のスブッラの大宴会の話が耳に入っているのだろう。思いがけない毒舌に逆襲され這う這うの体で階下に降りた。
少将のオフィスの前に立っていたカーキ色の憲兵隊上等兵の敬礼を受け、
「中で待たせてもらいます」と言った。
オフィスに入るや、ヤヨイは天井の明かり取りの窓からのまだ暗い外光が差し込む部屋にランプを灯し、真っすぐ壁のクローゼットに向かった。
そこに、「あるもの」が置いてあるのを、ヤヨイは知っていた。
すでに機密制限が解かれているらしく、施錠されることもなくそれは ごく自然にそこにあった。槓桿に油がさされ、黒光りした銃床のよく手入れされた陸軍の正式銃。銃床に「L」の刻印が施してあった。
最初の任務でヤヨイの上官だった、雷に撃たれてこの三次元の世界から消滅してしまった、レオン・ニシダ少尉から譲り受けた銃。そしてヤヨイが愛した男、ジョーを撃ち殺した銃。それにまつわる記憶があまりにも生々しく忌まわしく、手を触れることさえ避けてきた銃だった。
その鈍く光る銃身と手に吸いつくような銃把の感触がヤヨイの記憶を再び鮮やかに蘇らせた。
自分は指揮官として上手くやれたのだろうか。
よい指揮官だったと言えるのだろうか。
やはり、声は聞こえなかった。
いつしかレオン少尉の声は聞こえなくなっていた。
いつからだろう。アルムの「大工」を救出した時か、その前の「敵前渡河」のあたりからか。なぜ聞こえなくなったのだろう。
たしか、「旗になれ」と言っていたのが最後だったような気がする。
自分はよき「旗」たりえたのだろうか。
グレタとヴォルフガングが二日酔いにふらつきながらも言ってくれた、
「これからも自分たちの指揮官でいてください」
それを答えにしていいのだろうか。それならば、もうレオン少尉の声が聞こえなくても不安にはならないような気がする。
天井に開いた天窓から注ぐ外光が明るさを増した。
朝が来たようだ。
銃を持ってその下に立った。そして銃口を真上に向け、真冬の帝都の空を狙った。
「ばーんっ・・・」
ヤヨイは心の中で引き金を引き、天窓の真上、虚空を撃った。
そして、ヤヨイの戦争は、終わりを告げた。
「やあ、もう行くのかね」
「そうだ。貴殿のおかげで何物にも代えがたい経験が出来た。礼を言う」
単身、国境を越えてほぼひと月が過ぎた。
死を覚悟するほどの決意をもって川を越えただけの甲斐は、あった。
いや、「甲斐があった」などという程度ではなかった。来てよかった。そして、来なければならなかった。
ヤーノフは、ひと月の帝国滞在で有り余るほどの貴重なものを見、触れ、知った。
帝都に向かう時は青い肌の同民族、通訳のアレックスと二人きりだったのに、帰路では二人の憲兵隊の護衛が着いた。おかげで帝都からの列車の中でも第十三軍団の司令部からの馬車の中でも肩が凝って仕方がなかった。だが、監視ではなく護衛である。監視も兼ねていたのかもしれないが、二人の憲兵隊の兵は一時といえどもヤーノフに対する敬意を失わなかった。
そして、来た時と同様に第十三軍団の前進陣地にいるポンテ中佐のところに立ち寄り、あいさつした。ひと月もの長きにわたって通訳の労を取ってくれたアレックスともここでお別れだ。
ヤーノフの返事を通訳したアレックスも、なにか思うところがあるのか、どこか寂し気に見えた。
「ところで、貴殿の背嚢からはいい匂いがするな」
ポンテ中佐はひと月前と同じ、街の商店主のような穏やかな笑みを浮かべて言った。
「見るか?」
ヤーノフはニヤ、と笑って背嚢を開き中身を取り出した。
そこにはヤーノフがあのクーロン飯店のインペリアル・スイートで生まれて初めて使った石鹸がギッシリと詰まっていた。
「里への土産だ。そしてこんなのもある」
石鹸の隙間に挟んであった、帝都で見学した小学校から贈られた小学一年生用の帝国語の教科書をも引っ張り出した。
「そんなものでいいのかね。帝都にはもっと素晴らしいものがたくさんあったろうに」
「ヤン閣下のひしょ・・・、おい、アレックス。ひしょ、でいいんだよな」
「そうだ。秘書のマーサ殿だ」
「そのマーサ殿から頂いたのだ。やはり同じことを訊かれた。そんなのものでいいのですか、と」
「で、いいのかね?」
「うむ」
とヤーノフは大きく頷いた。
「これがいいのだ」
「だが、一年やそこらじゃ使いきれないだろうに」
「いや。これは、里の部族の女たちに配るのだ」
「ほう。石鹼を、かね」
「うむ。なんと言ったか、『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ』というやつだ」
「え、なんだって?」
ポンテはアレックスの通訳を聞いても訳がわからず問い返した。
「『兵法三十六計』の18だ。『擒賊擒王』にそうある」
ヤーノフは滞在期間の少なくない時間をバカロレア付属の図書館で過ごした。そこが帝国の知の宝物殿であると聞いたからだ。もちろん、彼はまだ本を読めない。アレックスに「兵を論じた本」を探させ、時間のゆるす限りキャンパスのベンチで朗読させ訳させたのだった。野蛮人ではあったが、ヤーノフは記憶力が良かった。
「我が里では女は男の所有物だ。だが、女を大事にする者はいくさに出しても強い。大事にされた女が男に良い食事を作り男の世話をこまめにするからだ。反対に女をないがしろにする者はいくさでも力を出せず、役に立たない。
女を大事にする者は女の喜ぶ顔を喜ぶ。そういう者は他の男の意見も大切にし人の話をよく聞く。
俺はこれから一族をまとめて帝国と手を結ぼうと訴えるつもりだ。
女たちにこの石鹸を配れば、男たちは女たちを喜ばせた俺の話を真剣に聞くようになる」
アレックスの通訳で種明かしを聞いたポンテは度肝を抜かれた思いで、この青い肌の野蛮人を穴のあくほど見つめた。
別れ際、ポンテ中佐は真新しい帝国陸軍正式銃一丁と実包50発をヤーノフに贈った。
「餞別だ。ちゃんと上の許可も得ている。友情の証として受け取ってくれ」
ひと月前に北の国境の川向うの彼を見た日から、ポンテはこの青い肌の大男に何並みならぬものを感じ親近感を抱いていた。
「いつの日か貴殿が一族を掌握し、帝国と手を結ぶ日が来たなら、もし貴殿に危急の折が来れば我が第十三軍団が救援に駆けつける。
それがいつになるかは、わからんがな」
「ありがとう。ではありがたく受け取る」
そう言ってヤーノフは帝国に来て覚えた挨拶をするために右手を差し出した。
ポンテはその手を固く握り締めた。
そして、ヤーノフはあのレオン少尉が渡河作戦を決行した河原沿いの陣地跡に来た。川を渡れば、もうそこはヤーノフの棲む里である。すでに川はその半分が凍り付き、空は雪雲が覆い、淡い粉雪が舞い始めていた。
アレックスだけではない、第十三軍団の兵士たち一個小隊、そしてあの憲兵隊の二人も見送りに来た。見送りではなく、必ずヤーノフが里に戻ることを監視、確認するため、かもしれなかったが。
「じゃあ、達者でな、ヤーノフ」
「おう。お前もな、アレックス。大変世話になった。感謝する」
二人は固い握手を交わした。
「そうだ。ウクライノ族の者と会うことがあれば、お前のことを話してやろう。家族の名は、親の名は何というのだ」
「それはいい」
とアレックスは言った。
「もう、ここが、帝国が俺の故郷だ。もしウクライノの者に会ったら、アレクサンデルは帝国で立派に生きていると伝えてくれるだけで、それだけでいい。お前が見た全てをそいつに話してやってくれ」
「・・・そうか。わかった!」
そう言ってヤーノフは第十三軍団の兵たちと憲兵隊の二人に右手を上げて、
「Спасибо(スパシーバ)、До свидания(ダスヴィダーニャ)」
と言い、
「ありがとう。さようなら」
覚えたての帝国語でそう付け加えた。そして南に背を向け、凍り始めた川を渡り始めた。
「シビル族族長、ヤーノフ殿に対し、敬礼!」
第十三軍団の兵たちが一斉に右手を差し上げ、偵察部隊式でない、正式の敬礼を捧げた。
ヤーノフはまたちょっと振り向き、ニヤと笑って再び歩き出した。
「元気でな! また会おう、ヤーノフ!」
アレックスが大声で叫んだ。もちろん、北の国の言葉で。
だがもう、ヤーノフは振り返らなかった。軽く右手を上げただけだった。
そうして、帝国兵の軍装品である背嚢と帝国の正式銃を肩にかけた、毛皮を着た青い肌の大男は、やや大股で川を渡り、北に向かって帰って行った。
季節は真冬を迎え、帝国軍の来襲を恐れる北の野蛮人たちの多くはさらに北にその居住地を移し始める。だが、ヤーノフのシビル族とその盟邦であるクラスノ族の二つの部族だけはその冬移動をしないかもしれない。その結果がわかるのは、早くて年明けの春頃のことになると思われた。
それまでは、この国境の川も氷と雪に閉ざされ、静かな冬を越すばかりになる。
了
その日がAirborneとしての最後の日になることはわかっていた。そして「マルス」の指揮官としても。
帰還した時とは違い、良くプレスの利いた軍服に身を包んだ落下傘兵は三日前と同じ近衛軍団の司令部前の広場に集まり、誰言うともなく小隊毎に整列した。
すでに司令部前に設えられていた演壇。その左右に灰色や茶のマントをはためかせた近衛軍団長をはじめとするお偉方が勢ぞろいしたからである。その一番端に兵たちのボスであるグールド大佐が立って、こう宣言した。
「これより、本チナ戦役における第一近衛軍団第一落下傘連隊の戦死者を悼み、ここに彼ら彼女らの氏名階級を読み上げ、ヴァルハラでの冥福を祈るものである」
「各隊、礼砲撃ち方用意!」
各小隊から小銃を持った兵が一人ずつ進み出て演壇脇に整列し、天高く銃を構えた。「マルス」からもリーズルが代表して12名の列に加わり天に向かって銃口をあげた。
「エマ・シュナイダー陸軍伍長」
グールドが「覗き魔の丘」で戦死したエマの名を読み上げた。上等兵だったエマは戦死して二階級をあげ、伍長になっていた。
ズダーンッ!
兵、一人ひとりの名と階級が読み上げられる度に、12丁のライフルが空砲を撃った。
「クンツ・リカルド陸軍上等兵」
ヤヨイは空砲が狙う天の一角を仰いだ。「マルス」の最初の戦死者となったクンツも「覗き魔の丘」で散華したのだった。
安らかにね、クンツ。
彼女の後ろの「マルス」たち、特にミンの騎馬隊の猛攻を退けたビアンカもまた彼女なりの思いを込め、空を見上げた。
ズダーンッ!
そのようにして数十名にのぼる戦死者の名が読み上げられ、最後に黙祷をささげた。
そして・・・。
「次に、アルム攻略部隊であった「大工」大隊救出作戦に従事し、見事これを成功させた『学者』大隊、並びに『きまぐれ』大隊の特設騎兵隊に叙勲を行う!
名を呼ばれた者は演壇に登り軍団長閣下より勲章を授与さるべし!」
グールドがそう言ったからヤヨイたちは驚いた。
「『学者』大隊『優等生』小隊、小隊長リアム・ヨハンセン中尉!」
「や、ja!」
真っ先に名を呼ばれて一瞬戸惑ったヨハンセン中尉が壇上に上がった。
演壇の向こう側の第一近衛軍団軍団長のマケイン中将が冬の青空のもと灰色のマントをひらめかせて、こう言った。
「リアム・ヨハンセン中尉。
貴官は本チナ戦役アルムの戦場において、孤立した『大工』大隊救出作戦を敢行、自らの命をも顧みず勇敢に戦い友軍救出に尽力した。その功を讃えここに『Humanitären Dienst(フマニテールンディーンスト)』章を授与するものである! 」
プレゼンテータは救助を受けた当の「大工」の小隊長が行った。彼は細いオークの枝を編んで作ったメダルをヨハンセン中尉の首にかけ、略章の入った小さな木の小箱を授けた。
「フマニテールンディーンスト? なんですか、あれ」
フォルカーが顔中を「?」にしてヴォルフガングに訊いた。だが、彼にもわからない。
「・・・知ってる?」
彼がグレタに訊けば、
「あんたは?」
彼女はクリスティーナに訊いた。
「・・・聞いたことないわ」
この「人道奉仕勲章」、英語名「ヒューマニタリアン・サービス・メダル(Humanitarian Service Medal)」と、それがヤヨイたちに授与されたことに関しては多少の説明を要する。
それは帝国陸海軍を通じてこの度初めて制定された勲章であった。
その原型はやはり古代ローマ時代にある。
戦場で友軍を救った兵士が救われた兵士からオーク(楢)の葉で作った冠(corona civica 、市民冠と呼ばれる)を送られたが、その故事に倣ったものなのだ。
月桂冠の方はユリウス・カエサルが元老院からその常時着用の権利を送られたことで有名だが、市民冠の方は彼の後継者であるアウグストゥス帝がそれを着けた彫像や銀貨を残していることで知られている。
そして旧文明は20世紀の後半、1977年に米国のフォード政権において、「人道的性質を有する特定の軍事行為又は作戦への功績」のあった軍人に贈られる勲章として「Humanitarian Service Medal」が制定された。
オーク、楢の枝のメダルはそうした由緒ある、名誉の褒章だった。
ヤン議員がチナの北の豪族ドンと協議し、ドンをしてチナの王国を支配させ帝国の傀儡とすることを了承させたことはすでに述べた。それによってこの度のチナ戦役の終結を図り、双方矛を収める、と。
だが、ドンがあまりに慎重に事を進めたがため、すでに発令されていたチナの首都ピングーにいた本国軍10万のアルム防衛のための派遣命令がまだ生きていたことは計算外だった。ヤヨイたちがナイグンでの停止命令を受けた時点でアルムに孤立した「大工」は機甲部隊による解放の目途が立たなくなり、本国軍10万の来襲を迎えれば全滅することは火を見るより明らかだった。
後にヤヨイたちの「命令違反」の救助作戦を知ったヤンは心を痛め、何とかして作戦を遂行した「学者」と「空挺騎兵」に報いねばと一計を案じたものだったのである。
だが、このことが第三軍の軍令と矛盾を生じたため後に問題となるのであるが、それもまた別のお話。
「ヤヨイ・ヴァインライヒ少尉!」
「Ja!」
プレゼンテータはハーベ少佐だった。
彼はヤヨイの首にメダルを掛ける際、
「ありがとう、ヤヨイ」
小声で感謝を示してくれた。
列に戻って小箱を開けた。
略章は小さな丸いメダルだった。
オークの葉をあしらったのをバックに赤いハートが描かれ、それを小さな白い手が抱きかかえている、そんなデザインのものだった。
なにこれ!
カワイイ・・・。
ヤヨイはその可憐な意匠の略章に魅入った。
これよりはるかな後年。
音楽家として大成し壮年となったタオが、人にヤヨイのことを訊かれた際にこう述懐している。
「母は軍役中数々の功績によってたくさんの褒章や勲章をいただきましたが、中でも一番大切にしていたのがこの勲章でした。
退役して以降はあまり人に会いたがらず、なにかと家に篭ることが多かった母でしたが、昔の空挺部隊の方々の集まりには必ず行っていましたね。そんな時は着飾ってこの勲章をコサージュのように着け嬉しそうに出かけて行ったものです。
軍人でしたから、命令で人を殺めるのが任務だったわけですが、母はどちらかと言えばあまりそれが好きではなかったようです。もちろん、言葉にはしませんでしたが。
亡くなる直前、死期を悟った母は私を枕元に呼んでこう言ったものです。
これは棺の中に入れないでね、と。
わたしの生涯で唯一人に誇れるものだから、わたしが生きた証として、あなたがずっと持っていて、と」
「諸君! 約束は忘れていないぞ。今夜は朝まで食って飲んで騒ごう! 今夜スブッラは、我々落下傘連隊が占拠する!」
グールド大佐は作戦を前にして兵たちに約束した一件をちゃんと覚えていた。だがスブッラには千人近くの人数を収容できる店などはない。
そこでスブッラの一つの通り全ての店を貸し切り、通りにテーブルと椅子を出して一大宴会場にしたのである。
兵たちが喜んだのは言うまでもない。
「やり~い! 連隊長殿、太っ腹~!」
「よ~し、朝まで飲んで飲んで飲み明かすぞォっ!」
もっとも、「家を売ってでも」と言ったのは言葉のアヤだったのだが、大散財には違いなく、さすがに見かねたフロックス少将や有志の将軍たちからのカンパもあったとかなかったとか。だが、ウワバミたちの墓場とも称されるスブッラ史上前代未聞のスケールの宴会には違いなかった。若い連中のバカ騒ぎや酔漢たちのケンカには慣れっこになっていたスブッラの住人たちも、さすがに通り全てを埋め尽くしたテーブルとその上に並んだふんだんな料理の山、通りの店全ての給仕が総出で運ぶ総量数千リットルにはなるかと思われるビール、そして胸を張り、隊伍を組んでやって来た陽気な軍服姿の一団には目を見張った。
その兵たちの約半数に及ぶ者の左胸には、先刻彼ら彼女らに授与されたばかりの勲章の略章、通称「レッドハート」が着けられていた。
「では諸君! 作戦の無事終了を祝って、乾杯する!」
演説も何もなく、連隊長グールド自身が小樽ほどもある巨大な木のジョッキの鉄製の握手を握り、ゴクゴクと豪快に一気に飲み干してしまった。
「なにあれ、イッキしちゃうの?」
「スゲーな! 飲んじゃうぞ」
「うひょーっ!」
「連隊長、やるーぅ!」
あまりに豪快過ぎるその飲みっぷりに周囲の兵たちからはヤンヤの喝さいが巻き起こった。
「プッハーッ! んーまいっ! 」
超巨大ジョッキを一気に飲み干したグールドは高らかにこう言った。
「さあ、お前たちも飲め! 今日だけは士官も下士官も兵もない。みな落下傘の仲間だ! かつて、いにしえのヤーパンではこういうのを『ブレイコー』といったそうだ。
今日は、『ブレイコー』だ!」
「ほんじゃ、太っ腹連隊長殿にカンパーイ!」
「落下傘連隊にカンパーイ!」
勢いづいた兵たちは一斉にジョッキを傾け始め、喉を鳴らし、口の周りに白い髭を生やしまくった。
沿道の店からは次々にビールの小樽が通りに運び出され、鳥や腸詰が焼かれては兵たちの胃袋の中に流し込まれ、詰め込まれていった。
こうした催しがあるとドサクサに紛れて関係もないのに相伴に預かる不心得者の存在はスブッラの名物だったが、さすがに年季の入った不心得者たちもさしものスケールの大きさにたじろぎ、むしろ早くも酔った兵たちの方が彼らの腕を引っ張って無理やりに乾杯を強制する、そんな光景がそこかしこで見られた。
大声で歌い出す者。踊り出す者。酔って気が大きくなり「オレは天下を取る!」などと訳の分からないことを吼えるもの。笑い出す者。テーブルに首を垂れて早くも酔い潰れる者。泣き出す者・・・。それぞれの酔漢たちの乱痴気騒ぎ、「ファンダンゴ」の渦に、「アイゼネス・クロイツ」に「フマニテールン・ディーンスト」を着けたヤヨイもまた、巻き込まれた。
「アイゼネス・クロイツにカンパーイ!」
「世界最強の『マルスの娘』にカンパーイ!」
当然、酒の肴になった。
だがいかにブレイコーとはいえビールのシャワーを浴びるのはゴメンこうむりたかった。
「小隊長ったら、ちょっと、飲みが足りないゾ、と」
多少酒乱の気味があるビアンカや、常はムッツリしているのにこういう場では、
「さ、飲んで飲んでヤヨイちゃん♡」
などと無遠慮に人の背中をバンバン叩いて大騒ぎするクリスティーナたちをなんとか躱し、
「ごめんね。わたし、飲み疲れちゃった。ちょっと休憩してくるね」
「マジ? すぐ戻ってくんのよ!」
酒豪でちっとも酔いを見せないリーズルに耳打ちしてその場を離れ、通りの外れの店の中に逃げ込んだ。
と。
そこにウェーゲナーがいた。
彼も酔っ払いたちのバカ騒ぎに疲れてしまったらしく、ウォトカのライムジュース割りをちびりちびりと舐めていた。
「なんだ。逃げて来たのか。気が合うな」
と、彼は言った。
なんとなく彼の隣に座った。それが自然に思えたのだ。
そしてビールの注がれた木のカップをくい、と煽り、何気に彼を見つめてしまった。ヤヨイも少し酔っていたかもしれない。
「そうかも」
と、言った。
「ねえ、中尉」
「ん?」
「キス、上手い方?」
大胆過ぎる言葉をサラッと吐いている自分がいた。
ウェーゲナーも、ノリが悪い方ではなかった。
「試してみるか?」
彼の唇がイキナリ、ちゅっ、ときた。
それはキスというよりはキスの撒き餌だった。エサだけ撒いて、相手を誘き出す時によくやる手だ、と。仕方がない、誘われてやるか・・・。
自分は酔うとアホになる。アホの集まり空挺部隊だから、仕方ないか・・・。
「ねえ、ズルい。もっと、ちゃんとしたの、して」
「・・・ったく。しょーがねえな」
ウェーゲナーは女の扱いに慣れているように見えた。あの「覗き魔」の丘で女性兵たちがやたらに彼の肩を持っていたが、目の前の彼を見てそれもそのはずと納得した。
「来いよ」
店の奥に手を引かれ、隣の店との間の狭い路地に連れ出された。
壁に押し付けられて、彼の顔がぐっと近づいてきた。
「ちゃんとしたの、してやるよ。本格的なヤツ」
「して。本格的な、キス」
そして二人は深くて濃い口づけを始めた。
ヘルムートは皆に遅れること2日でやっと帝都に帰還した。そして今日の近衛軍団での式典に臨み、スブッラの打ち上げにもなんとか参加することが出来た。
だが右腕をほぼ真横にガッチリとギプスで固められ、カッコ悪いことこの上なかった。
ここでも面倒見の良い兵長が付き添ってくれ、彼のカップにビールの小樽を傾けてくれた。
だが、ヘルムートは不機嫌そのものだった。
あの「フマニテールン」なんとかの授与すらも彼の心を浮き立たすことはできなかった。まだあちこち身体が痛むし、カッコ悪い姿を晒していることもあったが、本当の原因は別にあった。
たくさん飲んだはずだが、ちっとも酔えない。彼の目は始終辺りに注がれキョロキョロと見回すのを止めなかった。傍の知らない人からみればまるきり異常者である。
「どうしたんですかね。ヴァインライヒ少尉、いないスね」
「まあ、これだけの人数だしな。カンケーないウワバミ連中も大勢混ざってるし。・・・どっかにいんだろ」
「オレ、少し見てきます」
「おい、ちょっと待てって。落ち着け、ヘルムート!」
世話焼きの兵長の諫めも聞かず、ヘルムートは右腕を水平に上げた不格好な姿のまま席を立って杯を掲げて騒ぎビールをぶっかけ合っている酔っ払い兵たちを躱しつつ、通りを見回しながら愛しのブルネットの姿を探し回った。
そして。
いた!
通りの外れの、店のほとんどのテーブルと椅子が通りに運び出されて壁際のボックスにだけ人がいた。だからわかった。
ヴァインライヒ少尉と、あれはたしか・・・、「覗き魔」だ。
テーブル越しではなく、隣り合って親密そうに、しかも見つめ合ったりなんかしてる。
・・・許せなかった。
元々彼には人の恋愛について許可を与えるとか与えないとかの権利も権力もあるわけでもない。
しかし、許せないのだっ!
右腕を上げたままのかなり目立つ不自然極まりない情けない格好の自分であることはとうにアタマになかった。きっと、酔っていないと思いつつも、やはり酔っていたのだろう。あのアルムの謎の施設に単身肉薄した時よりもはるかに大胆にその店に近づいていこうとしていた。
と。
二人が急に席を立ち、「覗き魔」がヴァインライヒ少尉を引っ張って店の奥に・・・。
ややっ!
それを目で追うと、さらに店の横の路地に出たのを発見!
しかも、ヴァインライヒ少尉が壁に押し付けられ、「覗き魔」の顔が・・・。
彼女の顔を、塞いだ。
「んーっ!・・・。んーっ!・・・」
なんてこった・・・。
オレのブルネットが・・・。あんな奴に・・・。
急にアタマがくらくらしてきて、その場にへたり込んだ。
「ヘルムート! おい、大丈夫か。しっかりしろ!」
すぐに駆けつけた兵長が彼を揺り動かしたが、すでにヘルムートの意識はなかった。
後にそのスブッラ史上最大規模の宴会で同じような飲み倒れ食い倒れが十数人ほど出た。いずれも近くの診療所や、そこで診察にアブレた者がバカロレアの附属病院にまで次々と運び込まれた。
他の者たちと同様、ヘルムートは「急性アルコール中毒」と診断され、またも医者の世話になることになった。つくづく、バカなヤツである。だが、苦い青春の思い出の一ページは、誰にとってもバカの色で彩られている。「バカの集まり」落下傘連隊だけに、それはなおさらであった。
そして、ヘルムートは知らなかったが、その店の通りを挟んだ反対側に、やはりヴァインライヒ少尉と「覗き魔」の様子をうかがう人影があった。
彼は、バカではなかった。むしろ、バカになり切れなくて、愛する女をみすみす奪われる羽目になっていた。
愛する二人の恋人たちの熱い抱擁を目を閉じて耐えたその男はやおら立ち上がり
「ごちそうさん」
テーブルに勘定を置いた。
「お客さん。今夜はいいんですよ。なんでも陸軍の空挺部隊の方がこの通りの店の勘定は全部持つと言って下さってるんで」
「へえ・・・。戦争してるってのに、軍隊は気前がいいんだね」
「まったくでさ。よっぽど困難な目に遭った兵隊さんたちなんでしょうねえ。とにかくたらふく飲ませて食わせてやってくれと。だから、ご相伴に預かっちまいましょうよ、ね? お客さん」
「じゃあ、そうするとしようかね」
テーブルの上のコインを掻き集め、ポケットに捩じ込んだ男は一枚の銀貨を主人に握らせた。
「これ、少ないけど」
「こりゃどうも! まいどあり」
そうして男は店を出た。
深い敗北感が彼を襲った。
ヤヨイ・・・。
どうしてお前は・・・。
リヨンはもう、顔を背けて歓楽街を出る道を急いでいた。
どうしてお前は、いつもぼくを苦しめるんだ。
最初の軽いキスがヤヨイの女を目覚めさせ、次の熱くて濃いキスが身体の芯を蕩けさせていた。その蕩けが、目に出ていた。
唇は離れたが息は荒く、二人の視線はお互いを求めて熱く絡み合ったままだった。
「ねえ、中尉」
「なあ、もう『中尉』はよせよ」
「じゃあ、・・・ラインハルト、」
ヤヨイは彼の厚い胸板に触れた。
「『プリンツ・オイゲン』の甲板で、何か言いかけたでしょ」
「え? あ、ああ・・・」
「何を言いかけたの? 正直に、言いなさい」
だめだ。もう止まらない。
ヤヨイはとんでもなく大胆になってゆく自分を、許した。
「さあな、わすれちまった」
「うそ! ウソツキ!」
どうしようもなく彼が、ウェーゲナーが、欲しかった。
そして、自分から唇を寄せ、彼を奪った。
それはさらに濃さを増した、灼熱のキスだった。
「わたし、あなたと愛し合いたいわ」
「偶然だな」
と「覗き魔」は言った。
「オレも同じことを考えてた」
帝都「カプトゥ・ムンディー」はその名の通り「世界の首都」だ。
強国チナを下しつつある今、帝国は名実ともにこの世界の主人になろうとしていた。
その最大の街である帝都は帝国全土に向かう鉄道駅を都の四方に持ち、毎日帝国の果てまで行く人や果てから来る人、果てから来て果てに向かう人々を迎える街、「コア」でもある。最高級の「クーロン飯店」を筆頭に、旅人の懐具合に応じてそれ用の宿は無数にあった。
二人はそのうちのごくありふれた一つに部屋を取った。そして、お互いの愛を確かめ合った。
そこで二人はただの男と女になった。
片方が高まってももう片方が満足せず、もう片方が埒を開けても、片方が更なる高みを求めた。
二人とも、一千メートルの高空から敵地に飛び降り、寡兵を持って敵の大軍を撃退した猛者だった。敵の大群の守る砦に突入し、囚われの友軍を救い出した勇者でもあった。一人は素手で数人の兵を倒す手練れであり、もう一人は心で手練れを励まし、包み込んだ。お互いを求めあう気力体力は常の人間に勝り、夜が更け日付が変わってもお互いを求めあう欲望は消えなかった。
「意外だな」
「なにが?」
「素手で何人も敵を倒せるような豪傑だからきっとガチムキなんだろうと思ってたのに。お前、柔らかい身体してるんだな」
「柔らかいのは、キラい?」
「いいや。大好物だよ」
「わたしは、硬いのが大好物なの」
そうして互いに数えきれないほどの高みに昇り、昇らせ、めくるめく快楽の泉に溺れ、いつしか二人は自然なまどろみの中に入って行った。
夜が更け、二人のまどろみが深くなるとともに、ヤヨイが初めて部下を率いて戦いに臨んだこの長い話も、そろそろ終わりが近づいている。
ここで、語り尽くせなかった事どもの顛末を、記す。
帝国は、チナを下した。
この後、ドンは平和裏にチナに王位の移譲を促すことに成功する。
旧文明の20世紀。かつて帝国のすぐ近くにあったヤーパンの傀儡である「満州国」の皇帝、「愛新覚羅溥儀(アイシンカクラフギ)」は、第二次世界大戦のヤーパンの敗戦によって皇帝の地位を追われ一市民へ落とされた。だが、彼は天寿を全うした。
それと同様に、幼王であったことが幸いしたのか、チナ王もまたその一命を赦され、普通の一市民としての生を送ることを認められた。
「我が意に従わねば、ピングーは天の怒りに触れ、王都は焼き払われ焦土と化しますぞ!」
老獪なドンが宮中に乗り込んで放ったその一言を裏付けるように、爆撃可能に換装された飛行船数隻がチナの王都上空に現れ、その空を覆うがごとくに飛行し、市街の外に大量の爆弾の雨を降らせ、コウリャン畑を悉く焼き払った。
最後まで「禅譲」に抵抗した「烏合の衆」の宦官どもが震えあがったのは言うまでもない。
ドンへの政権移行が行われるまさにその日の朝。
宮廷に宦官どもの姿はすでになく、そして、帝国との間に休戦協定が結ばれ、かつていにしえのヤーパンが敵国であった米国に敗れてそうしたように、攻守同盟の名を借りた、事実上の「帝国の覇権容認」の約定を交わすに至る。
最高司令官、帝国皇帝の決断は、正しかった。
もし皇帝が第二軍ハットン中将の進言、つまり北と南の同時侵攻による安全策を選んでいれば、南の第三軍は強力なミン軍により手間取り、最終的にミンを下すことは出来たとは思われるものの、戦争はより長期化し、戦費はさらに嵩み、兵員の消耗も増大したであろう。
さらに、北の大軍は正面のドンだけでなく北方の野蛮人に対しても戦線を構築することを余儀なくされ、その戦後における負担も増大したに違いない。
が、ドンの要衝クンカー攻略を思い留まり、休戦協定によって第二軍は侵攻前の国境まで引き上げた。それによって費やされるはずだった数個軍団が節約できただけではない。
北にチンメイ山脈、南に制海権を得た海のある、幅200キロの回廊のような旧ミン一族の所領を丸ごと得られたことは、途中の軍団配備を大幅に節約してチナ本国の喉元に接することを可能にした。
帝国初の空挺部隊と機甲部隊による協同作戦は最終的な作戦目標の達成こそできなかったものの、十分にその戦略目的を果たしたと言える。 皇帝の選択は、喪われるはずだったより多くの兵員の命と国費負担とを未然に防いだのだ。
だが、物事には全て表と裏、メリットとデメリット、作用に対する反作用がある。
戦略的に全く正しいこの帝国皇帝の決断が、後に想像もしなかった災いを帝国にもたらすことになるのだが、それを語るのはまたあらためて別の物語の中に機会を譲る。
そして、この物語を彩った人々の顛末は。
ナイグンの攻防戦を前に不意の砲弾の攻撃を受けて「不肖の人」となっていた「学者」大隊長エルンスト・カーツ大尉は廃兵院に収容され療養を受けていた。チナ戦役が終わり、休戦協定が結ばれ、マルス、ヤヌスの両神殿の扉が閉じられ、人々が普通の生活を取り戻したころに、やっと彼は我を取り戻した。
「ここはどこだ。ナイグンの橋は、どうなった?」
その後カーツは軍を去り、予てより願っていた学問の道を志し、バカロレアの地質学教室の講師の職にありついた。そこで再びヤヨイに再会することになるのだが、それはまた別のお話。
資源調査院のアラン・フリードマン調査官は、占領が確定し領有なったゾマに赴任し、新たな油井を掘削する監督官として日々を送っている。
アランと同じ、北の第十三軍団で独立偵察部隊に属し、ヤヨイの声掛けで近衛軍団の落下傘連隊に加わった予備役陸軍上等兵のリーズル・ルービンシュタイン。
彼女はこの戦役後、一度は袖にしたホモ・ノヴァス(新興成金)の男に再度言い寄られ、
「予備役招集が掛ったら、また軍務に戻ります。それでもいいなら、結婚してあげる」
そんな高飛車な態度にも拘わらず帝都近郊の七つの丘の一つに邸宅を構える大金持ちの後妻に収まった。そして再び新兵訓練所の射撃教官に復職して今に至る。
そのリーズルの薫陶よろしきを得て短期間で優秀なスナイパーに成長したビアンカ・エッケルト二等兵は、チナを下して以降は唯一の実戦が経験できる北、北の野蛮人から国境を守る第七軍団の独立偵察大隊にまたも志願して転属した。
そしてあのアルムの飲茶屋の娘に恋してしまったフリッツ・ローゼン上等兵だが、彼の予測の通り最初に進出した第六軍団がそのままナイグン西の旧チナ、現ドン王国との新たな国境沿いに陣営地が設けられ駐屯軍となったのでそこに志願して転属した。
ちなみにあの最後の火薬庫の大爆発の爆風はアルムの堅固な城壁によって大方減殺され、飛び火によって城壁内アルム東の市街が若干の火災を起こしただけで済んだ。その後帝国との協定が成立して交易も再開され両国の人の行き来も自由となったから、もしかするとあの飲茶屋の娘との恋も大安成就したのかもしれない。
他の「マルス」の面々を含めた落下傘連隊だが、その後あの帝都の東の奇妙な剣のような山の訓練施設に正式な陣営地が設けられ、第一近衛軍団所属のまま第一落下傘連隊の常設駐屯地となった。
だが、チナ戦役後の政府の軍備縮小の方針を受けて連隊の規模は半減し、20個小隊、2個大隊の規模まで縮小された。連隊長グールドは転属し、あらたに「大工」大隊長ヘルムート・ハーベが中佐に昇進し連隊長となった。
実は、その異動にはこの度の第三軍の軍令とヤン議員の画策したアルムの空挺部隊救出作戦との矛盾、齟齬、行き違いなどから端を発した軍内部の対立が関係しており、それがこの度のチナ戦役の結果と相まって、やがて国を二分するほどの大問題に発展してゆくことになるのだが、またそれも別のお話。
そして、ハーベや彼の大隊の下士官たちの養子となったフェイロンたち、「アルムの悪ガキ」のその後だが、その彼らがその後に起こった帝国の災い、大きな事件に深く関わってゆくことになる。
さて、その後の顛末を記さねばならない登場人物はまだまだ大勢いるのだが、ひとまずはこれぐらいにして、このチナ戦役に関わるヤヨイの物語の締めくくりに戻ることにする。
元老院前広場のすぐ向こうにバカロレアの広大なキャンパスを、そしてそのすぐ南には繁華街スブッラを望む内閣府のオフィス。
政務に一区切りつけて窓の側に立ったヤンは、もう日付も変わるというのになおもこの内閣府にまで聞こえてくる喧騒を生み出している盛り場の灯りを望んだ。
背後のドアがノックされ、金髪の麗人が香ばしいコーヒーの香りを届けに来てくれた。
「閣下、ほどほどになさいませんと、御身体に触りますよ」
「やあ、マーサ。おお、いつもありがとう。君こそこんな遅くまで」
優秀なスタッフではある。が、いつも遅くまで付き合わせてしまっていた。彼女の身体を心配し、その都度咎めはするのだがとの都度体よく無視されてしまうのだった。そんな彼女に困惑する反面、いつしかその存在を頼りにしてしまっている自分に気づいていた。
彼愛用の木のマグカップを受け取ったヤンはその茶色の液体のふくよかな焙煎の風味を味わい、そして窓の外を指して美しく聡明な秘書に尋ねた。
「今日はだいぶ賑やかじゃないか。何かあったのかね?」
「エア・ボーンですわ、閣下」
「ほお?」
「近衛落下差連隊のグールド大佐が作戦前に約束なさったのですって。無事作戦終了のあかつきにはお前たちに死ぬほど飲ませてやる、って。なんでも、通り全ての店を貸し切っているとか」
「なんと・・・。そうだったのか。
アルムの部隊の救出も無事成功したようだ。ウリル少将のところの例の『マルスの娘』が随分と奮闘してくれたらしいね。あまりにもドンがモタモタしているので気になってはいたのだ。でもおかげで私も一つ肩の荷が下りたよ。
そうか、あれはエア・ボーンたちだったのか・・・。あ、そうだ」
ふと心にかかっていた問題の一つを確認したくなった。
「はい?」
「例の『お客人』は無事に帰って行ったかね? 出来れば最後にもう一度会いたかったが」
「はい。わたしと特務機関のマギーとで北駅までお見送りして差し上げましたわ」
「で、彼は何を所望したかな。何でもいいと言ったものの、実際に何を求めたのか気になっていたんだ」
「お土産のことですね。それは・・・」
マーサは北の国に帰っていた野蛮人がリクエストした品物をヤンに耳打ちした。
「なんだって? なんでまた、そんなものを・・・」
「さあ。よほどお気に召したのでしょうね。背嚢一杯に詰めてお持ち帰りになられましたよ」
夜空を見上げ、しばし沈思していたヤンは、
「ああ、そうか。わかったぞ!」
掌の上にポンと拳を突いた。そして美しい秘書を顧みた。皇帝の許でこの巨大な帝国の国政を縦横に采配する若き国務長官は朗らかにその東洋風の顔を綻ばせた。
「もし彼がその手土産を私が想像した通りに使うなら、彼はまず政治家として第一級と言えるだろうな。この元老院の600名の議員たちなどよりも、はるかに政治的センスがあると思うよ。
そもそも、その先見があったからこそ、たった一人で、しかも丸腰で、何度も侵攻した敵国であるはずの我が帝国にやって来たのだろうね。好奇心と勇気だけを持って、ね。
まったく、大した男だよ、彼は・・・」
ヤンは全くと言っていいほど偏見というものに無縁の男であった。肌の色が青かろうが、アタマや髭がもじゃもじゃだろうが、ヤンの透徹した洞察力は、その野蛮人の風体の奥にある高い知性を看破していたのである。
そして、彼は帝国にやって来た青い肌の野蛮人に大いに期待していた。
「わが帝国は大国チナを下した。
ここ当分の間は、大きないくさの種はないだろう。
これからはその果実を生かして産業を活性化して内需を掘り起こし、国を富ませることに専心できる。そして、そうあらねばならない。そのためにも、東のノール王国の政情の安定、そして北方の国境の安寧が必要なのだ。
里に帰った彼が、彼のその理想を実現してくれることを、私は心から祈りたいね」
真冬の真夜中。帝都の安宿の、燃え盛る暖炉の炎がほの温かい部屋で明け方まで激しく愛し合い求めあった二人は、深い満足のまどろみの中にいた。
ヤヨイはウェーゲナー、ラインハルトの腕の中から身を起し、彼の唇を奪ってまどろみを破った。
「お前、スゴいな。まるで底なしだ」
「ウフフ。降参した?」
ラインハルトの、まだ汗のひかない裸の胸に顎を載せたヤヨイは悪戯そうに笑った。
「ああ。降参した」
「ねえ・・・」
「ん?」
「『プリンツ・オイゲン』で、何かいいかけてたでしょ」
「ん?」
「とぼけてもダメよ。もうわかってるんだから。正直におっしゃい!」
もう何度も身体を合わせ、酔いがさめるほどの汗もかいていた。ヤヨイは芯から大胆になっていた。
「ああ、あれな。あれは、その・・・」
「その?」
「・・・もう夜も明けるな」
「ん、もうっ!」
リセでの初体験。初めて女の悦びを教えてくれたイマム先生。そして、ジョー・・・。
ラインハルトは、ヤヨイがこれまで通り過ぎてきたどの男とも、違った。
彼といると気が張らない。自然の、素のままの自分でいられる。相性という言葉があるが、彼とは心と身体のどちらも、バツグンに相性がいい。
この男なら、ずっと一緒に居られる。そう思った。
ヤヨイは裸の胸をさらに愛する男の肌に寄り添わせた。
「わたし、タオのお父さんが欲しいの」
「なんだよそれ。ムードまるでなしじゃんか」
「なってくれない? お父さんに」
「言い直せよ。もうちょっと、甘くさ」
そして、微笑みを湛え続ける彼の、優しく見下ろす瞳に求婚した。
「ラインハルト。わたしたち、結婚しましょう」
彼の胸にキスをし、反応を待った。
「んー・・・。どおしよっかなあ・・・」
「なにそれ。焦らす気? 性格悪い!」
「なら、やめとく? 」
「ん、もうっ! いじわるね」
「カワイイ女の子は、イジめたくなるんだって」
安宿だから窓に高価なガラスはない。窓枠の戸板の隙間からはや黎明の気配が忍び込みつつあった。
男は胸の上で頬を膨らませている愛しい女のブルネットを優しく指で梳き、その碧眼に映る暖炉の炎を見つめた。
「結婚してくれ。俺の奥さんになってくれ、ヤヨイ」
「タオのお父さんに、なってくれるのね」
ラインハルトは娶ろうとする女の唇を引き寄せ、キスをくれた。その甘い感触に、ヤヨイは再度、酔った。
だが、ヤヨイはもう一度確認するべきだった。念を押すべきだった。ヤヨイとの結婚は、イコール彼が「タオの父親」になってくれることと同じなのだということを、である。
ヤヨイは二十歳。年が明けて三月になれば、21。
平民の多くは小学校を卒業したら社会に出る。旧文明と比べればはるかに短い帝国人の平均寿命からすれば、二十歳はもう立派な大人である。だがきっとそれにも個人差というものが、あるのだろう。
まだまだ、ヤヨイは未熟だった。
それがために後の後悔を生むことになるのだが、いつの世も、燃え上がっているときの男と女にはそれがわからないものなのだろう。
「そろそろ行かなくちゃ。ホラ、俺ら『指揮官』だし」
「じゃあ、もう一度愛して。そしたら行く」
「ほーんと、底なしだな、お前は」
そして、再び深く愛を交わした二人はようやく帝国陸軍の士官に戻った。
「まだ連れ立ってるところを見られるとマズいと思うの。わたしが先に出るわ」
「みんなもう、あらかた帰っちゃったろ」
「それでも、いちおう。ね? ダンナさま♡」
最後に今一度熱いキスを交わし、ヤヨイは安宿を出た。
帝国陸軍落下傘兵に定められた正式軍装であるダブダブのジャンプスーツ。
冬でも温暖な帝都とはいえ、もう冬至も近い払暁を待つ歓楽街に自分と同じ風体の酔っ払いを探した。乱痴気騒ぎと形容するのが相応しいぼどの賑わいは既に消え、日の出と共に起き出すスブッラの住人たちがあくびをかみ殺しつつテーブルや椅子を取り片付け、宴の後の後始末を始めていた。
さて、「マルス」たちはまだいるかしら。
通りの端から順に軒を連ねる店々の中を覗いて回っていると、一軒の飲み屋の主人から呼び止められた。
「ちょっと、兵隊さん。これ、あんたの知り合いかね。だったらはやくどこかに捨てて来てくれないかね。宴会は終わったんだ。とっとと帰ってくれないと、商売のジャマだよ!」
まさかと思ってその飲み屋の店先を覗いてみれば、案の定だった。
「フォルカー! それにビアンカにグレタ。それにクリスにヴォルフガング。まあ、グレイ曹長まで!」
店の店員がホーキで履き掃除をしている横で、テーブルに突っ伏した「マルス」たちが居汚く爆睡していた。
「むにゃむにゃ。もう飲めないッス、小隊長殿・・・」
やんちゃなフォルカーの夢の中ではまだヤヨイが彼にしこたま飲ませようとしているらしかった。
ナイグンの橋に続きスブッラの酒場の酒を飲みつくして「制覇」した英雄たちを起し、二日酔いでふらつく彼ら彼女らを、酔漢たち目当てに流していた通りすがりの辻馬車に乗せた。
「ふぁ、しょーたいちょーどの?」
寝惚けるビアンカに、
「お疲れ様、みんな。いろいろ、ありがとうね」
と言った。
辛うじて意識を取り戻したグレタ、そしてヴォルフガングが、こう言った。
「小隊長どの! これからも、自分たちの指揮官でいてくださいね」
「近衛軍団の兵営まで」と馭者に頼み込んで辻馬車を見送った。
さよならは言わなかった。
ヤヨイには先のことはわからない。
もしかすると、また再び彼ら彼女らと共に任務に当たることもあるかもしれない。でも、今彼女にわかるのはクィリナリスに帰らねばならないということだけだったから。
ひとまずクィリナリスの下宿先へ帰ることにした。
貴族たちの邸宅が軒を連ねる高級住宅地クィリナリス。街路のガス灯はまだ灯っていて石畳を照らしていたが、そこにも黎明がやってきつつあった。
でも、下宿先の門の側で居眠りしている門番のハンスの顔を見て気が変わった。
まだタオも眠っているだろう、と。
ヤヨイにはまだつい先ほどまでラインハルトに抱かれていた余韻があった。その余韻が残る間はなぜかタオに会うのが憚られたのだ。
それでその足ですぐ先のヤヨイの古巣、個人の邸宅に偽装した「ウリル機関」の本部に向かった。
まだ「スパイマスター」は出勤していまい。それでも良かった。彼のオフィスにある、「あるもの」を手に取りたかったのだ。
「ホラ、俺ら『指揮官』だし」
別れ際にラインハルトが言った言葉が、酒と愛の余韻とでふやけていたヤヨイの気を少しずつ引き締め始めていた。
「お早うございます、少尉殿。お帰りなさい!」
門番の奴隷に扮した軍曹は、まだ朝の早い近所を憚り、小声で略式の敬礼をした。
「お早うございます、軍曹。・・・まだ、ですよね」
答礼しながら軍曹に訊いた。
「はい。まだおみえになっておられません」
「わかりました」
そして彼が開けてくれた門を通り、邸宅の中に入って行った。
まさかとは思いきや、やはり准尉のおばちゃん、マギーはそこにいた。気が付けば、彼女はいつもそこにいる。いったい彼女はいつ眠るのだろうと思うことがある。
「まだ来てないわよ」
ヤヨイがあげたメープルシロップのガムがいたくお気に召したようで、クチャクチャ口を鳴らしながら、彼女は挨拶もそこそこにいつものぞんざいな口を利いた。
「だそうですね。軍曹にききました。でも、マギー。睡眠不足は身体に毒ですよ」
「飲み会の朝帰りが身体にいいという話も聞かないけどね」
すでに空挺部隊のスブッラの大宴会の話が耳に入っているのだろう。思いがけない毒舌に逆襲され這う這うの体で階下に降りた。
少将のオフィスの前に立っていたカーキ色の憲兵隊上等兵の敬礼を受け、
「中で待たせてもらいます」と言った。
オフィスに入るや、ヤヨイは天井の明かり取りの窓からのまだ暗い外光が差し込む部屋にランプを灯し、真っすぐ壁のクローゼットに向かった。
そこに、「あるもの」が置いてあるのを、ヤヨイは知っていた。
すでに機密制限が解かれているらしく、施錠されることもなくそれは ごく自然にそこにあった。槓桿に油がさされ、黒光りした銃床のよく手入れされた陸軍の正式銃。銃床に「L」の刻印が施してあった。
最初の任務でヤヨイの上官だった、雷に撃たれてこの三次元の世界から消滅してしまった、レオン・ニシダ少尉から譲り受けた銃。そしてヤヨイが愛した男、ジョーを撃ち殺した銃。それにまつわる記憶があまりにも生々しく忌まわしく、手を触れることさえ避けてきた銃だった。
その鈍く光る銃身と手に吸いつくような銃把の感触がヤヨイの記憶を再び鮮やかに蘇らせた。
自分は指揮官として上手くやれたのだろうか。
よい指揮官だったと言えるのだろうか。
やはり、声は聞こえなかった。
いつしかレオン少尉の声は聞こえなくなっていた。
いつからだろう。アルムの「大工」を救出した時か、その前の「敵前渡河」のあたりからか。なぜ聞こえなくなったのだろう。
たしか、「旗になれ」と言っていたのが最後だったような気がする。
自分はよき「旗」たりえたのだろうか。
グレタとヴォルフガングが二日酔いにふらつきながらも言ってくれた、
「これからも自分たちの指揮官でいてください」
それを答えにしていいのだろうか。それならば、もうレオン少尉の声が聞こえなくても不安にはならないような気がする。
天井に開いた天窓から注ぐ外光が明るさを増した。
朝が来たようだ。
銃を持ってその下に立った。そして銃口を真上に向け、真冬の帝都の空を狙った。
「ばーんっ・・・」
ヤヨイは心の中で引き金を引き、天窓の真上、虚空を撃った。
そして、ヤヨイの戦争は、終わりを告げた。
「やあ、もう行くのかね」
「そうだ。貴殿のおかげで何物にも代えがたい経験が出来た。礼を言う」
単身、国境を越えてほぼひと月が過ぎた。
死を覚悟するほどの決意をもって川を越えただけの甲斐は、あった。
いや、「甲斐があった」などという程度ではなかった。来てよかった。そして、来なければならなかった。
ヤーノフは、ひと月の帝国滞在で有り余るほどの貴重なものを見、触れ、知った。
帝都に向かう時は青い肌の同民族、通訳のアレックスと二人きりだったのに、帰路では二人の憲兵隊の護衛が着いた。おかげで帝都からの列車の中でも第十三軍団の司令部からの馬車の中でも肩が凝って仕方がなかった。だが、監視ではなく護衛である。監視も兼ねていたのかもしれないが、二人の憲兵隊の兵は一時といえどもヤーノフに対する敬意を失わなかった。
そして、来た時と同様に第十三軍団の前進陣地にいるポンテ中佐のところに立ち寄り、あいさつした。ひと月もの長きにわたって通訳の労を取ってくれたアレックスともここでお別れだ。
ヤーノフの返事を通訳したアレックスも、なにか思うところがあるのか、どこか寂し気に見えた。
「ところで、貴殿の背嚢からはいい匂いがするな」
ポンテ中佐はひと月前と同じ、街の商店主のような穏やかな笑みを浮かべて言った。
「見るか?」
ヤーノフはニヤ、と笑って背嚢を開き中身を取り出した。
そこにはヤーノフがあのクーロン飯店のインペリアル・スイートで生まれて初めて使った石鹸がギッシリと詰まっていた。
「里への土産だ。そしてこんなのもある」
石鹸の隙間に挟んであった、帝都で見学した小学校から贈られた小学一年生用の帝国語の教科書をも引っ張り出した。
「そんなものでいいのかね。帝都にはもっと素晴らしいものがたくさんあったろうに」
「ヤン閣下のひしょ・・・、おい、アレックス。ひしょ、でいいんだよな」
「そうだ。秘書のマーサ殿だ」
「そのマーサ殿から頂いたのだ。やはり同じことを訊かれた。そんなのものでいいのですか、と」
「で、いいのかね?」
「うむ」
とヤーノフは大きく頷いた。
「これがいいのだ」
「だが、一年やそこらじゃ使いきれないだろうに」
「いや。これは、里の部族の女たちに配るのだ」
「ほう。石鹼を、かね」
「うむ。なんと言ったか、『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ』というやつだ」
「え、なんだって?」
ポンテはアレックスの通訳を聞いても訳がわからず問い返した。
「『兵法三十六計』の18だ。『擒賊擒王』にそうある」
ヤーノフは滞在期間の少なくない時間をバカロレア付属の図書館で過ごした。そこが帝国の知の宝物殿であると聞いたからだ。もちろん、彼はまだ本を読めない。アレックスに「兵を論じた本」を探させ、時間のゆるす限りキャンパスのベンチで朗読させ訳させたのだった。野蛮人ではあったが、ヤーノフは記憶力が良かった。
「我が里では女は男の所有物だ。だが、女を大事にする者はいくさに出しても強い。大事にされた女が男に良い食事を作り男の世話をこまめにするからだ。反対に女をないがしろにする者はいくさでも力を出せず、役に立たない。
女を大事にする者は女の喜ぶ顔を喜ぶ。そういう者は他の男の意見も大切にし人の話をよく聞く。
俺はこれから一族をまとめて帝国と手を結ぼうと訴えるつもりだ。
女たちにこの石鹸を配れば、男たちは女たちを喜ばせた俺の話を真剣に聞くようになる」
アレックスの通訳で種明かしを聞いたポンテは度肝を抜かれた思いで、この青い肌の野蛮人を穴のあくほど見つめた。
別れ際、ポンテ中佐は真新しい帝国陸軍正式銃一丁と実包50発をヤーノフに贈った。
「餞別だ。ちゃんと上の許可も得ている。友情の証として受け取ってくれ」
ひと月前に北の国境の川向うの彼を見た日から、ポンテはこの青い肌の大男に何並みならぬものを感じ親近感を抱いていた。
「いつの日か貴殿が一族を掌握し、帝国と手を結ぶ日が来たなら、もし貴殿に危急の折が来れば我が第十三軍団が救援に駆けつける。
それがいつになるかは、わからんがな」
「ありがとう。ではありがたく受け取る」
そう言ってヤーノフは帝国に来て覚えた挨拶をするために右手を差し出した。
ポンテはその手を固く握り締めた。
そして、ヤーノフはあのレオン少尉が渡河作戦を決行した河原沿いの陣地跡に来た。川を渡れば、もうそこはヤーノフの棲む里である。すでに川はその半分が凍り付き、空は雪雲が覆い、淡い粉雪が舞い始めていた。
アレックスだけではない、第十三軍団の兵士たち一個小隊、そしてあの憲兵隊の二人も見送りに来た。見送りではなく、必ずヤーノフが里に戻ることを監視、確認するため、かもしれなかったが。
「じゃあ、達者でな、ヤーノフ」
「おう。お前もな、アレックス。大変世話になった。感謝する」
二人は固い握手を交わした。
「そうだ。ウクライノ族の者と会うことがあれば、お前のことを話してやろう。家族の名は、親の名は何というのだ」
「それはいい」
とアレックスは言った。
「もう、ここが、帝国が俺の故郷だ。もしウクライノの者に会ったら、アレクサンデルは帝国で立派に生きていると伝えてくれるだけで、それだけでいい。お前が見た全てをそいつに話してやってくれ」
「・・・そうか。わかった!」
そう言ってヤーノフは第十三軍団の兵たちと憲兵隊の二人に右手を上げて、
「Спасибо(スパシーバ)、До свидания(ダスヴィダーニャ)」
と言い、
「ありがとう。さようなら」
覚えたての帝国語でそう付け加えた。そして南に背を向け、凍り始めた川を渡り始めた。
「シビル族族長、ヤーノフ殿に対し、敬礼!」
第十三軍団の兵たちが一斉に右手を差し上げ、偵察部隊式でない、正式の敬礼を捧げた。
ヤーノフはまたちょっと振り向き、ニヤと笑って再び歩き出した。
「元気でな! また会おう、ヤーノフ!」
アレックスが大声で叫んだ。もちろん、北の国の言葉で。
だがもう、ヤーノフは振り返らなかった。軽く右手を上げただけだった。
そうして、帝国兵の軍装品である背嚢と帝国の正式銃を肩にかけた、毛皮を着た青い肌の大男は、やや大股で川を渡り、北に向かって帰って行った。
季節は真冬を迎え、帝国軍の来襲を恐れる北の野蛮人たちの多くはさらに北にその居住地を移し始める。だが、ヤーノフのシビル族とその盟邦であるクラスノ族の二つの部族だけはその冬移動をしないかもしれない。その結果がわかるのは、早くて年明けの春頃のことになると思われた。
それまでは、この国境の川も氷と雪に閉ざされ、静かな冬を越すばかりになる。
了
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久々の投稿待ち侘びてました。
中々更新されてなかったので作者様の身に何かあったのかなと心配しましたがご無事で何よりです。この作品は自分にとって楽しみでありますが、自分のペースでできる限り進めていってください。
いつもご支援ありがとうございます。
いやあ、ご心配お掛けしたようですが、
とにかく超多忙だっただけです。
たぶん、年末年始はマッタリできそうなので、しっかり突っ走る所存であります。
更新お疲れ様です。
いよいよ戦況はクライマックスを迎えましたが、ヤヨイ達学者小隊が無事に生き残れるか気になります。
後、リヨンがヤヨイに惚れている描写がありましたけど、一緒に行動を共にして行く内に惹かれいったってことですよね
いつもご支援ありがとうございます。
まあ、戦争ですので誰がどうなるかは最後までわかりません。それに男と女のことは戦争がなくても筆者にもよくわかりません(笑)。
更新お疲れ様です。
なんて言ったらいいでしょうか、死亡フラグ満載の新キャラが出てきましたね。
この先彼の出番があるか分かりませんが、調子に乗った挙句ヤヨイにボコボコにされる展開があったら見てみたいです(笑)。