剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―

三條すずしろ

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第十章 追憶観桜

盃に満つ花

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手に持ったままの猪口は、いつの間にか幾枚もの花びらで満ちていた。
酒を乾すのも忘れて隼人の話に聴き入っていた草介。

維新の折りに最後まで戦った会津や旧幕軍の将兵などには殉じることへの潔さを感じるものの、元々侍は好きであろうはずがない。
草介が中でも紀伊の侍が大嫌いだったのは、御三家でありながらいち早く新政府におもねったように思い込んでいたためだ。

だが、隼人の語る史実はそうではなかった。

徳利を差し出され、我に返った草介が慌てたように猪口の中身をあおった。
桜花と一緒に飲み下した酒は甘くて苦くて、胸の内でほのかに温かい。

「そいで紀伊はどうなったんでぇ」

隼人にも酒を差し返しながら、草介は続きを促す。

「無論朝廷からは……いや、新政府からはというのが適切か――。旧幕軍の兵を匿ったことで大いに警戒されたとも」
「でも攻められはしなかったんだろ」
「ああ。同年の2月13日、藩主茂承もちつぐ公は病を押し、自ら入京あそばされ二心の無いことの証を立てられた。だがこの段階でも江戸在留の紀伊勢はまだ抗戦の意思を示していたという。新政府からすれば、紀伊の兵力が発てば京を奪還されるおそれがあるばかりか、無傷では近畿を抜けられぬと分かっておったはずだ」
「じゃあ慶喜さんがトンズラこいちまったっつうのは……」
「内戦の大義を新政府に与えぬためだったと思っている。ただ、実際にはその後も戦は止まなかったことは草介も知る通りだ」
「紀伊にはなんかお咎めなかったのかい」
「いや、4月13日に在京していた各藩主たちは帰国が許可されたのだが、紀伊の茂承もちつぐ公ただお一人がそのまま留め置かれた。人質ということであるな。その後も紀伊の新政府軍への軍事的貢献が少ないとして十五万両の軍資金献納を求められたり、東北出兵のため1500名の兵を差し出すよう命じられたりもした」
「試されたっつうわけかい」
「ああ。紀伊は二万両、一万両と分納しつつ支藩であった伊予の西条藩からも兵を差し出し、ようやく嫌疑を晴らした」

隼人がもう一度草介に酒を注ぐ仕草を見せた。
墓参の当初こそ隼人をたしなめるなどしていた草介だったが、すっかり毒気を抜かれて神妙にしている。
用意したのは草介だが酒代はちゃっかり御留郵便の経費から差っ引いているため、隼人も悪びれることなく勧めているのだ。

「あっ!つうことはさ、明光丸の高柳キャップとかしのぶ姐さんとかも……」
「その通り。明光丸は鳥羽伏見で敗退した会津の方々を、紀伊から脱出させる手助けをしていた」
「そいつぁ熱いぜ」
「明光丸だけではなく、当時は入港したアメリカ籍の船まで雇い入れて救護にあたっていたな。ああ、それに……高柳提督や岡本副長、成瀬医師らは慶応3年に海援隊の伊呂波丸と衝突したことで坂本龍馬らと裁判で対峙した当事者だ」
「ええ! でもあれ、紀伊がわりいんじゃねぇの……って、違いそうな顔だぁな」
「提督が記された紀伊側の英文航海日誌を読むと、ランプの設置義務や回避航路などの規定に反したのは明らかに海援隊の側だな。だが、それ以上の政治力が坂本龍馬と土佐にはあった。それを知った上で紀伊側は賠償に応じたのだろう。……この時代を見越していたのかもしれぬな」

草介は唸ることしきりだった。
初めて参るという妻の墓前であることがそうさせているのか、いつもは口の重い隼人が様々なことを語ってくれている。
草介の年代では既に神話のようにすら感じられる、幕末から維新にかけての物語。
それは当時どういった立場にあったかによって、千差万別の切り口で語られることであろう。
だが、これまで大嫌いだと思っていた紀伊の水面下での行動には、畏敬のような念を禁じ得なかった。

「じゃあさじゃあさ、豊後で遭った藤田っつうお巡りさん……新撰組の斎藤一とはどこで知り合ったんだよ」
「斎藤どのか。少し話が遡るが王政復古の直前、京でのことだった」

隼人は自身の猪口をあおり、草介の酌を受けながら再び追憶に目を細めた。
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