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第十二章 浪華裏花街エレジィ
落籍金剛
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「なんだ草介、早かったではないか」
若衆宿の料亭からそっと引き上げてきた草介が何食わぬ顔で宿所に戻ると、既に隼人は先着していた。
先ほどの一種の修羅場を露も感じさせず、端座して書物を開いている。
さも寛いでいるように見せているが、その実は目の下が薄っすらと窪んで憔悴しているのが見てとれる。
「お前のことだからてっきり遊び歩いておるのではと思うておったのだ。大阪の町はもうよいのか」
「いやなに。食いもんもお上品っつうか、おいらにゃあやっぱ物足りねえや。何食っても醤油足したくならあ」
「ははっ、江戸の者には薄く感じるか。ならばどれ、魚すきでも食いにゆかぬか。魚介を濃いめのタレで煮る料理だ。醤油味の牛鍋の魚版だな」
隼人は隼人で気遣ってくれているのだが、草介にとっても最前に覗き見たやり取りは正直なところ胸に堪えた。
届かなかった思いを届ける――。御留郵便の務めに甲斐を感じるのは、そうした営みを幾許かでも尊いと思えばこそだった。
故にこれまで郵便を届けて感謝されたことはあれど、瑠璃駒のように結果としてその心を逆撫でしてしまうこともあるなどとは思いもよらなかったのだ。
様子を見るに隼人とて同じではないかと草介は思う。
それがたとえ任務ではなかったとしても、十数年来の使命感や思いの結果がこれだとは……やるせない気持ちばかりが募ってしまう。
せっかくの大阪遊山の機会だが、とてもそんな気にはなれない。だが草介がどう断ろうかと思案を巡らせたとき、部屋の外から宿の者が呼ばわる声がした。
「旦那はん、すんまへん。お客はん来てはりますで。瑠璃駒のお付きのもん、て伝えてほしい言うてま。お通ししてよろしおますか」
瑠璃駒のお付き――たしか“弥助”と呼ばれた男だ。
激怒した瑠璃駒が退室する際、手を引いていたのがそうだ。草介の位置からはよく見えなかったが、背の高い男だった。
「おう、お客さんならおいらちょっくら出て……」
「いや、よい。あの料亭で覗いておったろう」
「ぅぐっ」
「もう一人はあのお下げの女中殿か」
「ぅむぅ」
「お前の覗き見を責める気などはないさ。随分心配させたことは少々情けないがな。いきさつを知っておるなら席を外す必要はない。いてくれ」
隼人はそう言うと、宿の者に客を通すよう声をかけた。
ほどなくして部屋の障子がすっ、すっ、すっ、と段階的に開かれ、散切り頭の男が平伏していた。
「弥助殿と申されましたな。どうぞ、お顔を上げて入られよ」
へえ、と返事をして部屋ににじり上がり、弥助は障子を閉めて隼人と草介に向き直った。
草介より幾分か年嵩だろうか。目つきの鋭い、苦み走ったいい男だ。
弥助はその場に諸手を突き、額が畳に付くまで頭を下げた。
「瑠璃駒が、ご無礼しました。ほんまに……申し訳ありまへん」
「弥助殿、お顔を。そなたが気に病むことはござらぬ。どうかお顔を」
隼人の丁重な声かけに弥助は顔を上げ、時折草介にも目を向けながら事の次第を語り始めた。
弥助はかつて“金剛”とも呼ばれた若衆専属の付き人で、瑠璃駒を男娼として育ててきたのが彼なのだという。
読み書きや行儀作法、鳴り物や舞といった芸事、和歌や漢詩などの教養。そして床での性技。
これらを仕込むことから、歴史上も若衆と金剛の間には特別な感情が芽生えることも少なくなかったのだ。
「七年前……明治5年に芸娼妓解放令が出されて、廓の女は自由になりました。せやけどそんなん建前や。実態はなんも変わらへん。身売りする娘は後を絶たへんし、若衆を買う男もひっきりなしや」
弥助は沈痛な面持ちで、懐から一枚の書面を取り出した。
どうやら何かの証文のようだ。
「旦那はん、不躾承知でお頼申します。瑠璃駒が突っ返した花代、いただけませんやろか。わてはあいつを……瑠璃駒を日陰から出したりたいんだす」
先ほど弥助が広げた証文に、隼人は目を留めた。
「これは……」
「瑠璃駒を身請けするための金子の明細どす。あと少しで、満額に達します」
「身元の引き受けは……侠客の組ですかな」
「へえ、やくざ者と変わりまへん。わても人様に言えんようなことして稼いできました。せやけど、わての手えで、瑠璃駒を落籍したいんだす」
借金を肩代わりしたり金を払ったりして遊女などを身請けすることを落籍、あるいは落籍すという言い方をする。
隼人は弥助の望む通り、幾許かの色を付けて金子を渡した。
だが何度も頭を下げて帰っていく彼を見送ると、隼人は素早く羽織に袖を通した。
「用ができた。出かけてくる」
「ちょっ、はーさん……忙しいな!」
老剣士と若者は、すっかり夜の顔になった大阪の町へと躍り出した。
若衆宿の料亭からそっと引き上げてきた草介が何食わぬ顔で宿所に戻ると、既に隼人は先着していた。
先ほどの一種の修羅場を露も感じさせず、端座して書物を開いている。
さも寛いでいるように見せているが、その実は目の下が薄っすらと窪んで憔悴しているのが見てとれる。
「お前のことだからてっきり遊び歩いておるのではと思うておったのだ。大阪の町はもうよいのか」
「いやなに。食いもんもお上品っつうか、おいらにゃあやっぱ物足りねえや。何食っても醤油足したくならあ」
「ははっ、江戸の者には薄く感じるか。ならばどれ、魚すきでも食いにゆかぬか。魚介を濃いめのタレで煮る料理だ。醤油味の牛鍋の魚版だな」
隼人は隼人で気遣ってくれているのだが、草介にとっても最前に覗き見たやり取りは正直なところ胸に堪えた。
届かなかった思いを届ける――。御留郵便の務めに甲斐を感じるのは、そうした営みを幾許かでも尊いと思えばこそだった。
故にこれまで郵便を届けて感謝されたことはあれど、瑠璃駒のように結果としてその心を逆撫でしてしまうこともあるなどとは思いもよらなかったのだ。
様子を見るに隼人とて同じではないかと草介は思う。
それがたとえ任務ではなかったとしても、十数年来の使命感や思いの結果がこれだとは……やるせない気持ちばかりが募ってしまう。
せっかくの大阪遊山の機会だが、とてもそんな気にはなれない。だが草介がどう断ろうかと思案を巡らせたとき、部屋の外から宿の者が呼ばわる声がした。
「旦那はん、すんまへん。お客はん来てはりますで。瑠璃駒のお付きのもん、て伝えてほしい言うてま。お通ししてよろしおますか」
瑠璃駒のお付き――たしか“弥助”と呼ばれた男だ。
激怒した瑠璃駒が退室する際、手を引いていたのがそうだ。草介の位置からはよく見えなかったが、背の高い男だった。
「おう、お客さんならおいらちょっくら出て……」
「いや、よい。あの料亭で覗いておったろう」
「ぅぐっ」
「もう一人はあのお下げの女中殿か」
「ぅむぅ」
「お前の覗き見を責める気などはないさ。随分心配させたことは少々情けないがな。いきさつを知っておるなら席を外す必要はない。いてくれ」
隼人はそう言うと、宿の者に客を通すよう声をかけた。
ほどなくして部屋の障子がすっ、すっ、すっ、と段階的に開かれ、散切り頭の男が平伏していた。
「弥助殿と申されましたな。どうぞ、お顔を上げて入られよ」
へえ、と返事をして部屋ににじり上がり、弥助は障子を閉めて隼人と草介に向き直った。
草介より幾分か年嵩だろうか。目つきの鋭い、苦み走ったいい男だ。
弥助はその場に諸手を突き、額が畳に付くまで頭を下げた。
「瑠璃駒が、ご無礼しました。ほんまに……申し訳ありまへん」
「弥助殿、お顔を。そなたが気に病むことはござらぬ。どうかお顔を」
隼人の丁重な声かけに弥助は顔を上げ、時折草介にも目を向けながら事の次第を語り始めた。
弥助はかつて“金剛”とも呼ばれた若衆専属の付き人で、瑠璃駒を男娼として育ててきたのが彼なのだという。
読み書きや行儀作法、鳴り物や舞といった芸事、和歌や漢詩などの教養。そして床での性技。
これらを仕込むことから、歴史上も若衆と金剛の間には特別な感情が芽生えることも少なくなかったのだ。
「七年前……明治5年に芸娼妓解放令が出されて、廓の女は自由になりました。せやけどそんなん建前や。実態はなんも変わらへん。身売りする娘は後を絶たへんし、若衆を買う男もひっきりなしや」
弥助は沈痛な面持ちで、懐から一枚の書面を取り出した。
どうやら何かの証文のようだ。
「旦那はん、不躾承知でお頼申します。瑠璃駒が突っ返した花代、いただけませんやろか。わてはあいつを……瑠璃駒を日陰から出したりたいんだす」
先ほど弥助が広げた証文に、隼人は目を留めた。
「これは……」
「瑠璃駒を身請けするための金子の明細どす。あと少しで、満額に達します」
「身元の引き受けは……侠客の組ですかな」
「へえ、やくざ者と変わりまへん。わても人様に言えんようなことして稼いできました。せやけど、わての手えで、瑠璃駒を落籍したいんだす」
借金を肩代わりしたり金を払ったりして遊女などを身請けすることを落籍、あるいは落籍すという言い方をする。
隼人は弥助の望む通り、幾許かの色を付けて金子を渡した。
だが何度も頭を下げて帰っていく彼を見送ると、隼人は素早く羽織に袖を通した。
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