嘘をありがとう

七辻ゆゆ

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「嘘をありがとう」

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「お帰りなさい」
「……うん」

 パウロは五歳になった。
 その下に三歳と二歳の子がいる。騒がしいが充実した日々だった。

 そんな隙間をぬうようにして、アンガダは別宅のナーチェを訪ねた。帰宅の挨拶に違和感を覚えるほどに、アンガダにとって帰るべき場所はメリナのところだ。

 それでもナーチェは嬉しそうにアンガダを迎える。

「忙しかったの? 今日はゆっくりしていける?」
「いや……すまない、すぐに、帰らなければ」
「帰る?」
「……」
「ねえ、間違えちゃいけないわ。あなたの愛はここにある。そうでしょ?」

 アンガダは何も言えず、懐からいくばくかの金を取り出した。
 近頃はこうして、金を置いて去っていくばかりだ。最低なことをしているとわかっていても、どうすればいいかわからなかった。ナーチェには情がある。別れを一方的につきつけて追い出したりはできない。

「あなたの実家にいるのは偽物の妻よ。そういう仕事をしてるだけ。愛はここにあるんだから」
「……」
「あなたは私のところに帰ってくるの」

 もうその言葉にアンガダは同じ熱を返してやれなかった。アンガダには現実がある。大事な子どもたちと妻がいるのだ。

「ナーチェ……」
「そうでしょ?」
「僕は……」
「そうだと言って。じゃないと、奥さんのところになんて行かせない」
「……ナーチェ、もう、終わりにしよう」
「どうして? 跡継ぎはもういるんでしょ? だったら、もう、いいじゃない。あなたはやるべきことをこなしたのよ」
「そういうことじゃない。家族が……大事なんだ」
「それは嘘よ」

 ナーチェはじっとアンガダを見ながら、すぐに言った。考える余地もないという返答だった。

「嘘じゃない」
「自分に嘘をついてるのよ、義務でしかないのに」
「違う」
「奥さんが怖いの? 家を放り出されるのが怖いの?」
「……」
「ねえ、私が言ってあげるわ。アンガダが愛してるのはこの私だけだって。きっとわかってくれるわよ。もう義務は果たしたんだもの」
「……よせ」
「そうよ、最初からそうすればよかったのよ。僕の愛するナーチェだって紹介してくれたら、奥さんだって調子に乗ってあなたを縛り付けたりしないわ」
「違う。僕は……家族を愛しているんだ」

 すっと、ナーチェの顔から表情が消えた。
 思わず後ずさったアンガダに、一歩、大きく距離を詰めてくる。微笑んでいた。そして、ぶつかった。

「痛……っ!? な、に、を……!」
「驚くことはないわ」
「き、きみ、なぜ……」
「ふふ」

 ナーチェは乙女のように頬を赤くして微笑み、その手はアンガダの血の赤に濡れている。
 アンガダの腹はナイフで傷つけられたのだ。装飾の多い、小さなナイフ。

「素敵でしょう? 貴族の女はこういうのを持つって聞いたの。襲われたときに自害するため、辱めを受けないために」
「は、離れ……」
「私にも必要だと思ったのよ。だって私にはあなただけ。愛には私とあなただけ。……でもそれって、あなたを殺してしまえば同じことよね」

 どうしてそんな結論に達したのかわからない。
 しかしアンガダはここで死ぬわけにはいかない、それだけは確かだった。




「ちちうえ?」
「……ああパウロ、すまないね、眠っていた……ようだ」
「よかった、死んでるのかと思った!」
「はは、死な、ないさ。小さなおまえを置いて」

 笑っただけでも傷口に響くが、医者が言うには、無理をしなければ命に別状はないそうだ。ナーチェの持つナイフは実用的なものではなく、それほど力も入っていなかった。どれほどの力なら相手を殺せるかなど、ナーチェにはわかっていなかっただろう。

(平凡に、きちんと育てられた女性だった。それが、僕のせいでああなった)

 ナーチェは修道院に入れた。それなりの金を積んだので、内密に、死ぬまで外に出さないでくれるだろう。貴族を傷つけた娘なのだから、家族も黙っているはずだ。
 そうするしかなかった。
 アンガダは愛人に刺されたことを公にできない。嘘をつきとおせとメリナに言われたからだ。

 だから怪我をしていることさえ、メリナにも子どもにも言わなかった。

「旦那様、一度、お医者様に見ていただいたほうが」
「いや、なんでもないよ。疲れが溜まっているだけだ」
「……そうでしょうか?」
「そうだよ、心配することはない。それより君は大丈夫かい」
「ええ、もう四度目ですもの」

 メリナはなんでもないことのように笑う。
 お腹に四人目の子どもがいるのだ。

 腐っても貴族家、子どもたちの面倒は乳母や使用人が見てくれる。自分の身体を大事にすることに専念できるはずだが、メリナは子どもたちとの関わりを減らさなかった。
 少し顔色が悪いようなのが心配だ。

 だが、アンガダも子どもの相手を引き受けるほどの元気がなかった。五歳の子どもはついていけないほど活発に動き回るのだ。

「……メリナ、いつもありがとう」
「え? 急にどうしたの」
「いや、君は僕に四人も子どもをくれたのに、何も報いてやれていなくて」
「それは私こそよ。あなたは私に四人の子どもをくれた。……四人目はまだ産まれていないけどね」

 少しだけ心配そうに、メリナは自分のお腹を撫でた。
 愛しさに満ちたその仕草に、アンガダは目を細める。本当に彼女は素晴らしい人だった。あの日「なんて図々しい」とアンガダを詰ったことすら、彼女の芯の強さだと感じられるようになった。

「体を大事にしてくれ。子どもたちも僕も、君を愛しているんだ」

 するとメリナは驚いたようにまばたきをして、恥ずかしそうに笑った。アンガダの胸が幸福でいっぱいになる。そうだ、早くこうするべきだったのだ。

 ナーチェに刺されたとき、頭に死がよぎった。
 だが死ねないと強く思えたのは、メリナと家族がいるからだ。それを愛と呼ばないわけがない。

 遠回りしてしまったが、今からでも取り戻せるはずだ。




「……は?」

「声をかけて差し上げてください、さきほどまで意識が」
「母上!」
「まっま? ねてるの?」
「うぇええ!」

 子どもたちが母親の枕元で声をあげ、意味もわからず泣いている。
 血の匂いがした。おぎゃあ……と控えめに泣いたのは、乳母の手の中にある四番目の子だ。

 メリナはベッドの上でぴくりともしない。
 顔色がひどかった。まるで死んでいるかのように、青を通り越して土のような色だった。

「どう、して……」
「母上、母上! ……あっ!」
「メリナ!」

 うっすらと、メリナが目を開いて確かにアンガダを見た。そして微笑んだと思う。

「メリナ……」
「……ありがとう」
「え……?」
「嘘を、ありがとう……」

 それだけを言い残して、妻は二度と目を開けることはなかった。
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