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「私はあなたといられればいいの」
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子どもは驚くほどにすくすくと育つ。
アンガダは毎日家に帰り、子どもを確認せずにいられなかった。よく泣き、よく乳を飲むさまを見ていると、自分の子はきっと大物に育つに違いないと思う。
アンガダがそんな考えを告げると、メリナは笑って「ええ、もちろん」と頷いてくれる。きっと賢く育つだろう。それともたくましく育つだろうか。立派な体を持つだろう。誰もが好きになるような、美しい心も持つだろう。
メリナとそんな話をするのは楽しかった。未来が輝いている感覚は、ずいぶん若い頃以来だった。
生活は充実しているが、ナーチェが不満を表すようになった。
「ねえっ、最近ぼんやりしすぎじゃない? ちゃんと私を見てよ!」
「あ、ああ……すまない」
つい、ナーチェといる間にも子どものことを考えてしまう。もしかすると今日にも歩き出すかもしれない。つかまり立ちが上手になってきているのだ。
それに、そろそろ次の子のことを考えても良いんじゃないか?
それならナーチェとこうしている場合ではない。ナーチェと夜を過ごしても何にもならない。ナーチェは子どもを望んでおらず、愛に生きられればそれで良いのだと言う。子どもがいなかった頃のアンガダも、それに共感していた。
しかし子が産まれてしまえば、どうだろう、アンガダは刹那的な暮らしに疑問を覚えるようになった。ナーチェだって、ずっと若いままではいられない。いつかはどこかに落ち着かなければ。
(いや、何を考えてるんだ。ナーチェを愛している。家の存続も、生物としての本能も関係ない。愛しているんだ。ずっとそばにいると誓った……)
じっとナーチェを見つめると、無邪気に笑う。彼女は将来のことも、子どものことも、アンガダの家も立場のことも考えていない。アンガダという、眼の前にいる個人を愛してくれている。
「……愛しているよ、ナーチェ」
「ふふ。もう一度言って」
「愛してる」
「ふふ、ふふ。私も愛してるわ」
しかし二人の関係がこれ以上に進むことはないのだ。ここが目的地であり、ここが最終地点なのだ。アンガダは愛に溺れ満たされながら、胸の中にわずかな閉塞感を覚えた。
「ぱぁぱ」
「……んっ? どうしたパウロ」
「こえ」
「くれるのか?」
仕事を邪魔されても腹を立てる気になれない。小さな我が子が差し出してきたものに、アンガダは思わず微笑んだ。
花冠だ。
アンガダも昔、庭の花で編んだ覚えがあった。
「庭の花をそろそろ植え替えるそうなので」
「そうか、もうそんな季節か」
子爵家の庭は客人のためにいつでも整えられている。子どもたちが楽しむためにつんで良いのは、花の入れ替えの前だけだ。
草の匂いのするパウロは、メリナと一緒に過ぎる季節を楽しんだのだろう。
「ありがとう、パウロ」
「わあ」
アンガダが花冠を被ってみせると、パウロはきゃっきゃとはしゃいだ。こんな男に花冠が似合うはずもないだろうに、パウロにとってはとても嬉しいことのようだ。
視線をあげてふと、アンガダはメリナの頭を見た。
メリナは今日もにこにことして、子どもの成長が嬉しくてたまらないという顔だ。そこにはアンガダへのわだかまりなど一つもないように見える。
メリナがそうしてくれるから、自分はパウロの父でいられるのだ。
「……パウロ、もう疲れたかい?」
「ううん! まだあそぶ!」
「だったら次は母さんの花冠を一緒につくろうか。これにはかなわないかもしれないが、僕もちゃんと経験があるんだ」
「つくる!」
「まあ。とても楽しみよ」
メリナが幸せそのもののように笑う。
「嫌よ!」
「だが、このままの関係を続けるのは君のためにならない。君だって」
「絶対別れないから!」
「ナーチェ」
「あんただけ幸せになろうとしたって無駄よ」
「……っ」
愛していた人から向けられた悪意に、アンガダは体を強張らせた。ナーチェのきらきらした瞳には、今は憎悪が宿っている。
話し合いになれば揉めるだろうとは思っていた。けれど、こうまで言われるとは思っていなかった。
「……いい? あなたの幸せは私の支えの上にあったのよ。私が愛してあげたから、あなたは愛のない結婚で満足できた。そうでしょ?」
「それは……」
「いまさら私を切り捨てたって、幸せな夫婦になんてなれないわ。最初から裏切っているんだから」
「……」
「あなたと奥さんの間に本当のことなんてひとつもないのよ」
そんなことはない。
アンガダは思った。ともに暮らし、ともに子を育てている。そこに真実がひとつもないなんてありえない。
アンガダはメリナを大事にしていたし、メリナだってアンガダを父親として大事にしてくれる。これこそ家族の姿ではないか。
「楽になろうとしたって無駄なの。嘘の誓いをたてたことは永遠に消えないわよ。そのために真実の愛を捨てようっていうの?」
「楽に、なろうとなど……」
「じゃあ、私と別れて何が変わるっていうの」
それは、確かにそうだった。
ナーチェのことはあれ以来、メリナと話してなどいない。言われたとおりに嘘を突き通し、ふたりの間であの日のことは、なかったことになっている。
別れても何も変わらないのだ。
ただ、アンガダの気持ちの問題だ。
楽になろうとしているのだ。
「……」
「何も変わらないのよ。得るものもないのに愛を捨てようとしているの、あなたは」
「……だが、だが、君が……」
「私はあなたといられればいいの」
「……」
「いいのよ、それだけなの。私のためを思うなら、奪わないで」
ナーチェはうっとりと言って、アンガダにそっと腕を回した。互いの形を理解し尽くして、しっくりとくる触れ合いだった。
もう何度も抱きしめたかわからない。
遅かったのだ、とアンガダは思った。
もうナーチェを捨てることはできない。ナーチェはアンガダがいなければ生きていくことができないのだ。
(どうすればよかったんだ。いや……わかっている。愛か結婚か、どちらかを選ぶしかなかったんだ……)
アンガダは中途半端にどちらも得ようとした。
メリナの言ったとおり、その帳尻を誰かが合わせなければならない。誰かを犠牲にしなければならない。アンガダがつけを支払わなかった結果が、こうなのだ。
アンガダは毎日家に帰り、子どもを確認せずにいられなかった。よく泣き、よく乳を飲むさまを見ていると、自分の子はきっと大物に育つに違いないと思う。
アンガダがそんな考えを告げると、メリナは笑って「ええ、もちろん」と頷いてくれる。きっと賢く育つだろう。それともたくましく育つだろうか。立派な体を持つだろう。誰もが好きになるような、美しい心も持つだろう。
メリナとそんな話をするのは楽しかった。未来が輝いている感覚は、ずいぶん若い頃以来だった。
生活は充実しているが、ナーチェが不満を表すようになった。
「ねえっ、最近ぼんやりしすぎじゃない? ちゃんと私を見てよ!」
「あ、ああ……すまない」
つい、ナーチェといる間にも子どものことを考えてしまう。もしかすると今日にも歩き出すかもしれない。つかまり立ちが上手になってきているのだ。
それに、そろそろ次の子のことを考えても良いんじゃないか?
それならナーチェとこうしている場合ではない。ナーチェと夜を過ごしても何にもならない。ナーチェは子どもを望んでおらず、愛に生きられればそれで良いのだと言う。子どもがいなかった頃のアンガダも、それに共感していた。
しかし子が産まれてしまえば、どうだろう、アンガダは刹那的な暮らしに疑問を覚えるようになった。ナーチェだって、ずっと若いままではいられない。いつかはどこかに落ち着かなければ。
(いや、何を考えてるんだ。ナーチェを愛している。家の存続も、生物としての本能も関係ない。愛しているんだ。ずっとそばにいると誓った……)
じっとナーチェを見つめると、無邪気に笑う。彼女は将来のことも、子どものことも、アンガダの家も立場のことも考えていない。アンガダという、眼の前にいる個人を愛してくれている。
「……愛しているよ、ナーチェ」
「ふふ。もう一度言って」
「愛してる」
「ふふ、ふふ。私も愛してるわ」
しかし二人の関係がこれ以上に進むことはないのだ。ここが目的地であり、ここが最終地点なのだ。アンガダは愛に溺れ満たされながら、胸の中にわずかな閉塞感を覚えた。
「ぱぁぱ」
「……んっ? どうしたパウロ」
「こえ」
「くれるのか?」
仕事を邪魔されても腹を立てる気になれない。小さな我が子が差し出してきたものに、アンガダは思わず微笑んだ。
花冠だ。
アンガダも昔、庭の花で編んだ覚えがあった。
「庭の花をそろそろ植え替えるそうなので」
「そうか、もうそんな季節か」
子爵家の庭は客人のためにいつでも整えられている。子どもたちが楽しむためにつんで良いのは、花の入れ替えの前だけだ。
草の匂いのするパウロは、メリナと一緒に過ぎる季節を楽しんだのだろう。
「ありがとう、パウロ」
「わあ」
アンガダが花冠を被ってみせると、パウロはきゃっきゃとはしゃいだ。こんな男に花冠が似合うはずもないだろうに、パウロにとってはとても嬉しいことのようだ。
視線をあげてふと、アンガダはメリナの頭を見た。
メリナは今日もにこにことして、子どもの成長が嬉しくてたまらないという顔だ。そこにはアンガダへのわだかまりなど一つもないように見える。
メリナがそうしてくれるから、自分はパウロの父でいられるのだ。
「……パウロ、もう疲れたかい?」
「ううん! まだあそぶ!」
「だったら次は母さんの花冠を一緒につくろうか。これにはかなわないかもしれないが、僕もちゃんと経験があるんだ」
「つくる!」
「まあ。とても楽しみよ」
メリナが幸せそのもののように笑う。
「嫌よ!」
「だが、このままの関係を続けるのは君のためにならない。君だって」
「絶対別れないから!」
「ナーチェ」
「あんただけ幸せになろうとしたって無駄よ」
「……っ」
愛していた人から向けられた悪意に、アンガダは体を強張らせた。ナーチェのきらきらした瞳には、今は憎悪が宿っている。
話し合いになれば揉めるだろうとは思っていた。けれど、こうまで言われるとは思っていなかった。
「……いい? あなたの幸せは私の支えの上にあったのよ。私が愛してあげたから、あなたは愛のない結婚で満足できた。そうでしょ?」
「それは……」
「いまさら私を切り捨てたって、幸せな夫婦になんてなれないわ。最初から裏切っているんだから」
「……」
「あなたと奥さんの間に本当のことなんてひとつもないのよ」
そんなことはない。
アンガダは思った。ともに暮らし、ともに子を育てている。そこに真実がひとつもないなんてありえない。
アンガダはメリナを大事にしていたし、メリナだってアンガダを父親として大事にしてくれる。これこそ家族の姿ではないか。
「楽になろうとしたって無駄なの。嘘の誓いをたてたことは永遠に消えないわよ。そのために真実の愛を捨てようっていうの?」
「楽に、なろうとなど……」
「じゃあ、私と別れて何が変わるっていうの」
それは、確かにそうだった。
ナーチェのことはあれ以来、メリナと話してなどいない。言われたとおりに嘘を突き通し、ふたりの間であの日のことは、なかったことになっている。
別れても何も変わらないのだ。
ただ、アンガダの気持ちの問題だ。
楽になろうとしているのだ。
「……」
「何も変わらないのよ。得るものもないのに愛を捨てようとしているの、あなたは」
「……だが、だが、君が……」
「私はあなたといられればいいの」
「……」
「いいのよ、それだけなの。私のためを思うなら、奪わないで」
ナーチェはうっとりと言って、アンガダにそっと腕を回した。互いの形を理解し尽くして、しっくりとくる触れ合いだった。
もう何度も抱きしめたかわからない。
遅かったのだ、とアンガダは思った。
もうナーチェを捨てることはできない。ナーチェはアンガダがいなければ生きていくことができないのだ。
(どうすればよかったんだ。いや……わかっている。愛か結婚か、どちらかを選ぶしかなかったんだ……)
アンガダは中途半端にどちらも得ようとした。
メリナの言ったとおり、その帳尻を誰かが合わせなければならない。誰かを犠牲にしなければならない。アンガダがつけを支払わなかった結果が、こうなのだ。
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