王子と公爵令嬢の駆け落ち

七辻ゆゆ

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「……サティ」

 アベルトは顔をしかめて彼女を呼んだ。
 幼い頃から知っている相手だ。彼女の母親にはよくしてもらった。こんなことになるとは、かつては想像もしなかった。

 けれどこうなったのだ。
 仕方ないとアベルトは思った。どうせ自分の命にはもうさほどの価値もないだろう。サティが殺したいのが自分であるなら、それで良い。

 だがツァンテリだけは逃さなければ。

「逃げ……」

 アベルトは振り向いてツァンテリを見た。
 けれど、ツァンテリは足を踏み出した。

「死ね!」

 サティが、おぼつかない手つきで、それでも刃を振り上げる。アベルトの胸を狙っている。アベルトのことしか見えていない。
 殺すのだ。
 かつて愛した男だと、思い出した。そして今は憎い男だ。殺してしまわなければ、他の女のものになる。

「へ、あ?」

 しかし勢いのまま、なぜかサティは空を見て、背中から倒れていた。
 ツァンテリがサティを突き飛ばしたのだ。

「なっ」
「なんという、無礼を……っ!」
「きゃ、あっ!?」

 そのままツァンテリはサティに乗り上げ、美しい小刀を取り上げた。

「何をしたかわかっているのですか! 王族に刃を向けるなんて……!」
「な、にっ、王族って、馬鹿じゃないの、ただのお荷物よ! あたしが好きにしていい男よ!」
「まして、なんですか、別の男の子を身ごもった!? あなたは貴族ではない。人間として最低の恥知らずよ!」
「はぁっ!? この」
「命で贖いなさい」
「……ひ」

 罵声を浴びさせようと開いたサティの喉が、ぎゅっと縮んで潰れた音を出した。
 ツァンテリは本気だった。本気で、この女を処分しなければと思っていた。嫉妬などではない。羨む理由などひとつもない。
 ただ、アベルトが王位につき、国を平定する邪魔になる。であれば、殺さなければならない。

 ツァンテリは力を込めて小刀を振り下ろす。

「だめだ!」
「あっ」

 しかしその手はアベルトに止められた。

「ア、アベルト……」

 目の前の刃にまだ震えながらも、サティが表情を歪めるようにして笑った。ようやく、こんなときになって!
 アベルトが自分を助けたのだ。ようやく、役に立ったのだ。

 しかしアベルトはサティのことなど見もしなかった。

「ツァンテリ、君こそが王になる人だ」
「え……?」
「君が手を汚してはいけない。もう、この国には君しかいないのだから」
「……何を言っているんです。あなたが」
「僕が王位についたとて、混乱するだけだ。公爵派の力がなければ他国の言いなりになるだけ、国は保てない」

 ツァンテリは小刀を離しはしない。
 アベルトもまた、ツァンテリの手を離さなかった。力は拮抗し、刃の先が震えてサティの顎をかすめた。

「い、いたっ……!」

「いけません。公爵派は一枚岩ではないのだから、結局、国が荒れます。今、政を行っているのは下位貴族でしょう。彼らをすぐに入れ替えはできない」
「彼らにとって既に私は裏切り者だ。どうしようもない」
「そんな……いえ、それならばやはり、このものを殺さなければ」
「だめだ!」
「彼女の子が王位になどついたら、それこそめちゃくちゃです!」
「そんなことはありえない! 王になるのは君だ、彼女が目障りだというのなら……」

 アベルトは言って、確かに邪魔なのだと気付いた。
 王子の婚約者の子。確実に、あとあと禍根を残すだろう。

 そうだ、どうして気づかなかったのか。
 アベルトが考えることを放棄していたせいだ。流されるまま、呆然と日々を過ごしていた。
 ツァンテリが王となるならば、まず自分が、そして次にサティが邪魔なのだ。

「……君にそんなことはさせない。私がやる。だから」
「なっ……いけません! あなたは王になる、人」

 王は自分の手を汚してはならない。
 二人はよくわかっていた。重い責務を押し付けられようとして、理解していた。人の死に触れるほどに心は揺らぐ。人間だからだ。
 王という立場は、人を殺して生かさなければならない。だがそれを自分の手で行っていては、いつか心を病む。

 王は臣下の手を汚させ、臣下は王の命令で行う。そうして罪を棚上げすることで、国はなんとか人間らしく在れるのだ。

「君だ、君こそが!」
「いいえ……!」

 二人は強く手を握り合い、小刀はぶるぶると震えた。その切っ先がサティの頬を切り裂き、痛い、とまた彼女が悲鳴をあげる。
 二人は顔をしかめたが、そんなことは問題ではない。
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