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そして八月。普段学生を相手にしている博美は、夏休み中と言うこともあって、忙しい季節になった。
(気付けば、先月会ったきりだ)
幸太も就活に気合を入れる時期になり、もうひと月、会っていないことになる。
(そういえば、内定の結果もそろそろだったよな)
博美がこんな風に思いを巡らせることができるのは、普段忙殺される仕事から一時的に開放されたのと、この時期必ずと言っていいほどひく、夏風邪のせいだった。
基本的に博美はめったに体調を崩さないのだが、夏のお盆になると、一年で体内に入った風邪菌が、一気に悪さでもするかのように暴れだす。
「夏なのに寒いって、いつになっても不思議だなぁ」
上がった熱のせいで変な感想も漏れる。大体、博美がこの時期にこうなるのは、自分でも原因は分かっていた。この時期は、博美の精神的ダメージをもっとも受けるからだ。
お盆と言う単語は、博美に嫌な出来事を思い出させる。
高校で全寮制の学校に入ってから、博美は一度も実家に帰っていない。大学へは恋人、もといセフレの家を転々とし、幸太と付き合うようになってから何とか自分で生活をしてきた。
社会人になって金銭的な余裕もわずかに出てきたが、そうなると、幸太が社会人になった時のことを考えざるを得なくなってくる。
(長男だし、絶対親御さんも結婚、出産を望んでるよなぁ)
幸太の両親はどんな人か知らないが、彼にはこのままゲイの彼氏をしてもらうつもりはない。
彼が内定をもらったら、この話をしよう、と考えていた。
七年。よくもった方だと思う。その間、幸太は博美を傷つけることはしなかったし、もう十分に優しくしてもらった。
このまま先の見えない関係を続けていくより、その方が幸太のためだと思っている。
(それに……)
今年の四月から不定期で届く、手紙のことも気がかりだった。相手はどこで博美の新しい住所を知り、どうして会いたいなどと言ってくるのだろう。
このまま手紙が届き続けば、幸太に誤解を招きかねない。でも相手に会う気はさらさらなかった。
今日届いた手紙にも、変わらず相手の近況と、会いたいという変わらない文章が綴られている。
手紙を読んでから頭痛がひどくなった気がして、それを適当にゴミ箱に捨てたのはついさっきだ。
すると、玄関の方で鍵が開く音がした。合鍵を渡しているのは幸太しかいないから、入ってきたのは彼だろうけど、今日は来る予定はなかったはずだ。
「博美さん? ここにいるのか?」
そう言いながら寝室に入ってきた幸太は、ベッドに横になっていた博美を見て、笑みを深くした。
「やっぱり。体調崩してたのか」
「な、何でここに?」
「ん? 昨日の電話でしんどそうな声してたから。それに、いつもこの時期倒れてるだろ」
「あ、はは……ばれてたのか」
悪寒が止まらず丸くなると、熱が高いのか? と幸太が額に触れてくる。
「今冷やしてもしんどいよな。毛布出す?」
「うん、お願い」
弱々しく答えると、幸太はすぐにクローゼットを開けて、毛布を取り出し掛けてくれた。
幾分ましになったか、とホッとすると、幸太が珍しく嬉しそうな顔をしている。
「朗報だよ博美さん。俺、内定もらった」
「え……」
いつも幸太が就活で面接を受けるたび、応援する気持ちはあったはずなのに、博美は一瞬固まってしまった。
まさか先ほど考えていたことが、こんなにも早く実行しなければいけなくなるなんて、とクラクラする。
「給料はそんなによくないけど、ホームページ見て、カッコイイ女性社員がいるって言ってたところ。本命受かったよ」
無邪気に笑う幸太はこれを知らせに来たのだと分かった。しかし、おめでとう、と言うべきなのに、言葉が上手く出てこない。
それに気付いた幸太は、少し表情を曇らせる。
「あれ? 祝ってくれないの?」
(俺のバカ!)
すぐに博美は自分の失態に気付いて表情を和らげる。するとホッとしたように幸太も息を吐いた。
(言わなきゃ……)
博美は力が入らない体を起こした。寒くて体を震わせると、慌てて幸太が寝かせようとする。
「バカ、寝てろって……」
「いい」
幸太に支えられながら起き上ると、彼の瞳を見つめた。
「おめでとう」
このご時世就職するのも困難なのだ。なのにこんなに早く内定をもらえるなんて、幸太の社会人としての見込みは期待されているらしい。
だから、やはりこの先、一緒に生きていくわけにはいかなかった。
「俺からも話があるんだ……別れてほしい」
なるべく事務的に言おうと思ったが、声が少し震えてしまったのは、寒さのせいだけじゃない。
幸太の表情が真剣なものに変わった。さっきの笑った顔も好きだけど、今みたいな真剣な顔も好きだな、と場違いながら思う。
「……それは時々くる男からの手紙のせいか?」
博美は肩を震わせた。すぐに幸太の顔が見られなくなり、視線を逸らす。
最悪のタイミングで切り出した別れ話にも関わらず、幸太は冷静にその理由を探ろうとしてくるのは、さすがだなと思った。
(幸太……怒ってる)
幸太は怒るとき、表情にはあまり出ない。その代わり、理詰めで説き伏せてくるから厄介だ。
大体、手紙のことがすでにばれていることから、彼なりに悩んでいたのだろう。声音も心なしかきつい。
「博美さん、答えて」
「…………話せない」
それだけ言うのが精一杯だった。すると幸太は逃がさないとでも言うように、博美の細い手首を掴む。
「手紙の男は新しい彼氏か?」
「違う」
「じゃあ何で毎回会いたいって書いてある?」
「知らない」
(すっごい、冷たい声……)
熱のせいだけじゃなく悪寒がした。手紙の内容まで知っているとなると、わざわざ捨てたものを見ていたらしい。
「その男とは会ったのか?」
「……」
博美は首を横に振る。むしろ会いたくない人だ、と言いたかったが、幸太の雰囲気に気圧されて言えなかった。
幸太は少し沈黙して、それから長いため息をついた。どうやら落ち着け、と自分に言い聞かせたらしい、少し優しい声音で質問を続ける。
「……俺のこと、嫌いになった?」
「違う……」
その声の優しさに、博美は目頭が熱くなった。しかしここで情に流されては、博美のせっかくの決意も無駄になる。
「……手紙の男と、毎年この時期元気がないのは関係あるのか?」
「……っ」
しまった、と博美は思った。今までで一番大きな反応をしてしまったのだ。これでは、何かあると言っているようなものではないか。
「……実家からなんだな?」
確信したような言葉に手が震える。寒くて寒くて、手を力いっぱい握った。
その背中を、幸太は優しく撫でてくれる。
この時期毎年幸太からは、実家に帰れと言われていた。しかし、それだけは頑なに拒んできたのだ。
賢い彼のことだから、セクシャルマイノリティの博美と結び付け、何があったかは想像しているだろう。
「じゃあ、俺が社会人になったら、博美さんと一緒に住もうと考えてたことは知ってた?」
「……え?」
唐突の転換に、博美は一瞬聞き間違えたかと思った。思わず幸太を見ると、彼は眼鏡の奥で優しい瞳を向けている。
しかし博美はすぐに首を振った。そんなことをしたら必ず過去のことも話さなくてはならなくなる。
同棲のその先、パートナーとなることになったらなおさらだ。
幸太もその辺りの方法は、知っているだろう。
「……い、や……だめ。それはダメだよ……」
力なく首を振るだけの博美に、幸太はさらにたたみかける。
「どうして? 俺、ちゃんと博美さんを大事にする。何なら、ご両親を説得しに行ってもいい」
その言葉に、本当に体がふらついた。慌てて幸太が支えてくれたけど、もう座っているのも無理だった。
「悪い、体調悪いのすっかり飛んでた」
そう言われて、博美も酷かった悪寒が引いていることに気が付いた。しかし、そのせいか横になったとたん瞼が重くなって、眠るように気を失ったのだった。
(気付けば、先月会ったきりだ)
幸太も就活に気合を入れる時期になり、もうひと月、会っていないことになる。
(そういえば、内定の結果もそろそろだったよな)
博美がこんな風に思いを巡らせることができるのは、普段忙殺される仕事から一時的に開放されたのと、この時期必ずと言っていいほどひく、夏風邪のせいだった。
基本的に博美はめったに体調を崩さないのだが、夏のお盆になると、一年で体内に入った風邪菌が、一気に悪さでもするかのように暴れだす。
「夏なのに寒いって、いつになっても不思議だなぁ」
上がった熱のせいで変な感想も漏れる。大体、博美がこの時期にこうなるのは、自分でも原因は分かっていた。この時期は、博美の精神的ダメージをもっとも受けるからだ。
お盆と言う単語は、博美に嫌な出来事を思い出させる。
高校で全寮制の学校に入ってから、博美は一度も実家に帰っていない。大学へは恋人、もといセフレの家を転々とし、幸太と付き合うようになってから何とか自分で生活をしてきた。
社会人になって金銭的な余裕もわずかに出てきたが、そうなると、幸太が社会人になった時のことを考えざるを得なくなってくる。
(長男だし、絶対親御さんも結婚、出産を望んでるよなぁ)
幸太の両親はどんな人か知らないが、彼にはこのままゲイの彼氏をしてもらうつもりはない。
彼が内定をもらったら、この話をしよう、と考えていた。
七年。よくもった方だと思う。その間、幸太は博美を傷つけることはしなかったし、もう十分に優しくしてもらった。
このまま先の見えない関係を続けていくより、その方が幸太のためだと思っている。
(それに……)
今年の四月から不定期で届く、手紙のことも気がかりだった。相手はどこで博美の新しい住所を知り、どうして会いたいなどと言ってくるのだろう。
このまま手紙が届き続けば、幸太に誤解を招きかねない。でも相手に会う気はさらさらなかった。
今日届いた手紙にも、変わらず相手の近況と、会いたいという変わらない文章が綴られている。
手紙を読んでから頭痛がひどくなった気がして、それを適当にゴミ箱に捨てたのはついさっきだ。
すると、玄関の方で鍵が開く音がした。合鍵を渡しているのは幸太しかいないから、入ってきたのは彼だろうけど、今日は来る予定はなかったはずだ。
「博美さん? ここにいるのか?」
そう言いながら寝室に入ってきた幸太は、ベッドに横になっていた博美を見て、笑みを深くした。
「やっぱり。体調崩してたのか」
「な、何でここに?」
「ん? 昨日の電話でしんどそうな声してたから。それに、いつもこの時期倒れてるだろ」
「あ、はは……ばれてたのか」
悪寒が止まらず丸くなると、熱が高いのか? と幸太が額に触れてくる。
「今冷やしてもしんどいよな。毛布出す?」
「うん、お願い」
弱々しく答えると、幸太はすぐにクローゼットを開けて、毛布を取り出し掛けてくれた。
幾分ましになったか、とホッとすると、幸太が珍しく嬉しそうな顔をしている。
「朗報だよ博美さん。俺、内定もらった」
「え……」
いつも幸太が就活で面接を受けるたび、応援する気持ちはあったはずなのに、博美は一瞬固まってしまった。
まさか先ほど考えていたことが、こんなにも早く実行しなければいけなくなるなんて、とクラクラする。
「給料はそんなによくないけど、ホームページ見て、カッコイイ女性社員がいるって言ってたところ。本命受かったよ」
無邪気に笑う幸太はこれを知らせに来たのだと分かった。しかし、おめでとう、と言うべきなのに、言葉が上手く出てこない。
それに気付いた幸太は、少し表情を曇らせる。
「あれ? 祝ってくれないの?」
(俺のバカ!)
すぐに博美は自分の失態に気付いて表情を和らげる。するとホッとしたように幸太も息を吐いた。
(言わなきゃ……)
博美は力が入らない体を起こした。寒くて体を震わせると、慌てて幸太が寝かせようとする。
「バカ、寝てろって……」
「いい」
幸太に支えられながら起き上ると、彼の瞳を見つめた。
「おめでとう」
このご時世就職するのも困難なのだ。なのにこんなに早く内定をもらえるなんて、幸太の社会人としての見込みは期待されているらしい。
だから、やはりこの先、一緒に生きていくわけにはいかなかった。
「俺からも話があるんだ……別れてほしい」
なるべく事務的に言おうと思ったが、声が少し震えてしまったのは、寒さのせいだけじゃない。
幸太の表情が真剣なものに変わった。さっきの笑った顔も好きだけど、今みたいな真剣な顔も好きだな、と場違いながら思う。
「……それは時々くる男からの手紙のせいか?」
博美は肩を震わせた。すぐに幸太の顔が見られなくなり、視線を逸らす。
最悪のタイミングで切り出した別れ話にも関わらず、幸太は冷静にその理由を探ろうとしてくるのは、さすがだなと思った。
(幸太……怒ってる)
幸太は怒るとき、表情にはあまり出ない。その代わり、理詰めで説き伏せてくるから厄介だ。
大体、手紙のことがすでにばれていることから、彼なりに悩んでいたのだろう。声音も心なしかきつい。
「博美さん、答えて」
「…………話せない」
それだけ言うのが精一杯だった。すると幸太は逃がさないとでも言うように、博美の細い手首を掴む。
「手紙の男は新しい彼氏か?」
「違う」
「じゃあ何で毎回会いたいって書いてある?」
「知らない」
(すっごい、冷たい声……)
熱のせいだけじゃなく悪寒がした。手紙の内容まで知っているとなると、わざわざ捨てたものを見ていたらしい。
「その男とは会ったのか?」
「……」
博美は首を横に振る。むしろ会いたくない人だ、と言いたかったが、幸太の雰囲気に気圧されて言えなかった。
幸太は少し沈黙して、それから長いため息をついた。どうやら落ち着け、と自分に言い聞かせたらしい、少し優しい声音で質問を続ける。
「……俺のこと、嫌いになった?」
「違う……」
その声の優しさに、博美は目頭が熱くなった。しかしここで情に流されては、博美のせっかくの決意も無駄になる。
「……手紙の男と、毎年この時期元気がないのは関係あるのか?」
「……っ」
しまった、と博美は思った。今までで一番大きな反応をしてしまったのだ。これでは、何かあると言っているようなものではないか。
「……実家からなんだな?」
確信したような言葉に手が震える。寒くて寒くて、手を力いっぱい握った。
その背中を、幸太は優しく撫でてくれる。
この時期毎年幸太からは、実家に帰れと言われていた。しかし、それだけは頑なに拒んできたのだ。
賢い彼のことだから、セクシャルマイノリティの博美と結び付け、何があったかは想像しているだろう。
「じゃあ、俺が社会人になったら、博美さんと一緒に住もうと考えてたことは知ってた?」
「……え?」
唐突の転換に、博美は一瞬聞き間違えたかと思った。思わず幸太を見ると、彼は眼鏡の奥で優しい瞳を向けている。
しかし博美はすぐに首を振った。そんなことをしたら必ず過去のことも話さなくてはならなくなる。
同棲のその先、パートナーとなることになったらなおさらだ。
幸太もその辺りの方法は、知っているだろう。
「……い、や……だめ。それはダメだよ……」
力なく首を振るだけの博美に、幸太はさらにたたみかける。
「どうして? 俺、ちゃんと博美さんを大事にする。何なら、ご両親を説得しに行ってもいい」
その言葉に、本当に体がふらついた。慌てて幸太が支えてくれたけど、もう座っているのも無理だった。
「悪い、体調悪いのすっかり飛んでた」
そう言われて、博美も酷かった悪寒が引いていることに気が付いた。しかし、そのせいか横になったとたん瞼が重くなって、眠るように気を失ったのだった。
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