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圏ガクの夏休み
変なヤツ
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早く来いよと、扉の所で待っている、表裏のなさそうな男の顔を見る。圏ガクでは珍しい穏やかな雰囲気のある、少し先輩と重なる、人のよさそうな顔で、何故か着ている物がやたら泥で汚れている。さっき顔に無理矢理押しつけられた手ぬぐいが、ポケットから半分くらい飛び出ているのを見ると、それも泥で真っ黒だった。
「すいません、あの、先に手洗い場に寄ってもいいですか?」
きっとそれで拭われたオレの顔も汚れているに違いない。と言うか、そんなの見せられたら気のせいか顔が無性に痒くなってきた。
「手洗い場? おー? 便所か?」
首を傾げ、怪訝な表情を浮かべる男に、自分の血と泥で汚れた顔を指さし、一度サッパリしたいと苦笑しながら伝える。事情を察してくれたのか、パッと顔色を変えた男は、ペコペコと頭を下げて謝ると、いきなりオレの腕を掴んで廊下を走り出した。
後で合流するから先に行っていてくれと言ったのだが、気が動転している男の耳には届かず、その間にとんずらするつもりが失敗に終わってしまう。
「ほほほほら、顔出せ。ちゃんと洗おう。ほら、もっと近くに。だ、大丈夫だ。ちゃんと洗うの手伝うから!」
どんだけ慌ててるんだと思う程の狼狽えっぷりに、オレの思考はどんどん冷静になっていく。水道の蛇口を全開にしながら、両手で水を掬ってオレと自分の手の間を忙しなく見る男に落ち着けと言い聞かせる。
「一人でやれます。まだ、殴られた所が痛むので、ゆっくり洗い流したいんですが、少し時間を貰えますか?」
どこか玩具みたいなカクカクした動作で頷く男は、一歩引くと場所をオレに譲ってくれた。軽く頭を下げ、気持ちの悪い口元を掬った水で丁寧に流していく。口の中を濯ぐと切れているのか、何カ所も染みる所があった。吐き出した水も真っ赤で、自分ですらギョッとしてしまったが、横目で男を見ると、何とも言えない表情で顔面蒼白になっていて少し笑えた。
冷たい水で腫れた顔を冷やしながら、これからどうやって逃げ出そうか考える。ずっとソワソワしながら見守ってくれている男をどうやって出し抜くか……何通りも思い浮かんで、知らず溜め息が出た。
先輩みたいに人のよさそうな雰囲気があるせいか、ものすごい罪悪感でいっぱいになってしまった。けれど、どんなにコイツが友好的であろうと、素直について行こうと思えるほど、圏ガクという場所は甘くない。
こいつが言っていた『番長代理』という単語から、連想出来る奴らにロクなのがいない事をオレは知っている。
今の香月たちのように、完全に標的にされている訳ではないが、圏ガクでは基本的に一年は二年の獲物なのだ。主にスバルと連んでいる時だが、オレだって二年には何度も絡まれている。名前と顔は一致しないが、出くわしたくない顔の一つや二つ……どころではないな。まあ、そんな事情でぶっちゃけ二年とは関わりたくなかった。
香月たちから助けてくれたのは、本当にありがたいが、正直な話、香月たちが二年に代わっただけのような気がするのだ。まあ『番長代理』と番長を語るのなら、そっちの気はないだろうから、ケツ掘られる事はないと思うが、なんせ相手はこっちを家畜扱いしている訳で、人のよさそうなお迎えに騙され、のこのこ付いて行くのは利口ではない。
気持ちの悪さを洗い流し、出しっぱなしの水道を止める。濡れた顔を着ているTシャツを捲り上げて拭うと、アッと隣で声が上がった。振り向くと、あの真っ黒な手ぬぐいを持って待機していた男と目が合う。
「拭く物なら、貸してやるのに」
洗った顔を汚れた手ぬぐいで拭いてどうする。普通に考えたら、嫌がらせにしか思えないが、目の前の男は親切心しかなさそうだ。まあ、泥だらけの手ぬぐいで顔を拭く事に対して、本人が全く抵抗がないのだろう。理解は出来ても、付き合ってやる義理なんてないので、視界の端に準備されていた手ぬぐいを見て、そう切り出される前に服で拭いたのだ。
「服がビチャビチャになってるぞ」
眉をハの字にして肩を竦めながらも男が手ぬぐいをしまうのを見届け、オレはホッと胸を撫で下ろし、Tシャツを軽く摘まんで見せた。
「このくらい、すぐに乾くんで大丈夫です」
夕方とは言え、まだまだ暑さは続く。肌に張り付く感覚が気持ちいいとは言えないが、自然と乾くだろう。だと言うのに、何故か男は腕を組んで厳しい表情を浮かべる。
「お前、着替えとか金城先輩の部屋に持って来てるか?」
唐突に先輩の名前が聞こえて、どう答えるべきか迷ってしまう。適当に誤魔化すべきかと思ったが、ジッと真っ直ぐに目を見られていると、自然と頷き答えてしまった。
「なら、ちゃんと着替えた方がいいぞ。風邪引いたら大変だから」
にかっと笑うと、男はまた強引にオレの腕を引っ張って走り出した。ドタバタと賑やかな足音を立て、先輩の部屋まで戻ると、男は律儀に「失礼します」と言って足を踏み入れた。
自分の荷物から着替えを取り出し、濡れた服を脱ぎ捨てる。真新しいシャツを被ると、
「これも着るといいぞ」
部屋の隅でオレが積み上げた先輩の服の山から発掘したらしい、前に借りたことのあるパーカーを差し出された。
先輩の服を勝手に触られ、自分の中に鈍い不快感が沸き上がる。服を受け取らないオレを見て何を思ったのか、男は大丈夫だと言ってのけた。
「勝手に借りても、金城先輩なら怒ったりしないぞ」
我が物顔で先輩の服を手渡してくる男に、自分がバカだと分かっていても苛立ちを覚えた。
「先輩の物は、誰が使おうと問題ないって事かよ」
黙っていられず、口を開いてしまった。しかも、喧嘩腰で。後悔しても遅いが、案の定、男はビックリした顔で固まってしまった。
例えコイツが人畜無害だろうと、他の連中は違うって事を失念していた。けれど、オレはまたも行き当たりばったりな覚悟を決めて、目の前の男を睨み付ける。
黙ったままの男に、オレの苛立ちは際限なく大きくなっていく。遠慮もなにもない視線を浴びせ続けると、先輩の服を差し出していた男の手が、ブルブルと小刻みに揺れ出した。
相手が一人なら、さっきみたいな醜態は晒さない。不意に仕掛けられても対応出来るよう、男の様子を黙って窺い、その表情の固まった顔を見て、オレは場違いな間の抜けた声を上げてしまう。
「え?」
見開かれた目に今にも流れ落ちんばかりに、涙が溜まっていたのだ。手の震えも大きくなり、先輩の服が右へ左へ忙しなく動いている。
「な、なんっ、なんで、ななななんで、おこ、おぉぉお怒るんだよぉ」
体が震えているせいか、声も盛大に震えていた。そして、口を開いた事で、溜まっていたモノが勢いよく溢れ出した。ダァーという滝のような勢いで泣き出した男を前に、今度はオレが固まってしまった。
え? オレが泣かしたのか? いや、おかしいだろ。ガキじゃねーんだぞ。なんだ、この泣き方。コイツ絶対におかしい。
「お、おおおおれ、なんか、なななんなんか悪い、ことし、ししししたか?」
ズルズル鼻を啜り上げながら、真っ赤に腫らした目で見つめられると、相手に対する非難めいた気持ちは、どうしたことか罪悪感へと取って代わった。今、オレの頭をいっぱいにしているのは、何処かで見たポスターの標語だ。
『いじめ、かっこ悪い』
この状況、どう考えても変だが、見ようによっては、オレがコイツをいじめてるように見えるのではないか? そう考えてしまうと、もう駄目だった。良心の呵責で胸が締め付けられるように苦しくなり、さっきまであった苛立ちの後に残ったのは情けないくらい激しい動揺。
「すいません。いきなり……その、えーっと、大きな声を出してしまって……」
かなり弱腰。てか、完全に完敗。男を威圧しないよう目線を合わせる為に少し屈んでいるので、見るからにへっぴり腰という、訳の分からない状況に陥ってしまった。
オレの言葉を聞いて、男の滝のような涙はなんとか止まってくれた。ズルズルと鼻を必死で啜り、ゴシゴシと目元をこれまた必死で手の甲で拭うと、男はキッと真っ赤な目でオレを睨んできた。
「まったく、本当に、お、おお、驚かせやがって。その、アレだぞ! 驚いただけだからな! 別に恐かったんじゃないからな!」
一応、取り繕うつもりらしい。いいか、分かったな! と何度も念押ししてくるので、適当に頷いていると、目だけじゃなく顔と耳を真っ赤にした後、手ぬぐいで証拠隠滅とばかりに顔を勢いよく拭いた。真っ赤な顔が、手ぬぐいの汚れで少し隠れると、男はわざとらしく咳払いを一つする。
「これ……借りとけよ。知らない奴が勝手に借りたら問題だけど、お前が着るなら、別に先輩も怒ったりしないだろ」
先輩のパーカーを押しつけられ、仕方無く受け取ると、男はボソッとそんな事を言った後、
「冷蔵庫みたいになってるから……何か着てないと辛いぞ」
不機嫌そうに口を尖らせ、オレの身を案じてくれているらしい言葉を付け加えた。
冷蔵庫みたいな場所に連れて行かれるのだろうか? 暑さが厳しくなるにつれ、結構真面目に思い描いていた、入れるものなら入りたい場所である冷蔵庫に? いかん、すごく心惹かれている。
額に浮いた汗をTシャツの袖で拭い、自分の中にあった危機感と向き合う。このまま、言われるがままコイツに付いて行くのは、あまりに無防備と言わざるを得ない。が、このままオレが男を撒いて逃げた場合、多分、いや確実に、また男を泣かす羽目になるだろう。正直、あんな思いはもうしたくなかった……オレのメンタルは、相当に弱いらしい。
「ここの掃除は、また今度にしよう。おれも手伝うから」
香月たちに荒らされた部屋を見て、眉をハの字にする男は、当然のように片付けを手伝うと言った。そう言えば、部屋に入る時も、誰もいないのに一声かけてから足を踏み入れていたな。先輩の部屋を我が物顔で使う気かと腹が立ったのだが、オレの勝手な思い込みだったと思い知らされる。
手渡されたパーカーに袖を通すと、更に汗が噴き出してうんざりしたが、男がすっかり元の調子を取り戻して、嬉しそうに笑っているのを見てしまうと、脱ごうとは思えなかった。
「んじゃ、行くか」
オレが着替え終わると、男は再びオレの腕を掴もうと手を伸ばしてきた。さすがに三度目となると、男の行動も読めてくる。一歩後ろへ下がる事で、その手をひらりと躱す。
「もう逃げようとか思ってないから、それは必要ないです。ちゃんとついて行くんで」
掴み損なった自分の手とオレの顔を交互に見る男は、何を考えているのか難しそうな顔をした。
「お前、おれから逃げる気だったのか?」
しまった、余計な事を言ってしまった。謝っておくべきか迷っていると、男は快活に笑ってオレの肩をパンと叩いた。
「別に取って食ったりしないって。まあ、おっかない見た目してる奴もいるけど、お前に危害を加える事はないから安心しろ」
自分に任せろと言いたげに胸を張る男は、油断したオレの腕を当然のように掴んで、また走り出そうとする。引きずられながらも、オレは慌ててポケットから部屋の鍵を取り出した。
「ちょっと待てって! 鍵! あいつら戻って来るかもしんないから、戸締まりさせて下さい!」
「おぉー戸締まりか。そりゃした方がいいな」
うんうん頷きながら足は止めてくれたが、少し前まで逃げようとしていた前科持ちは信用出来ないらしく、腕を掴んだ手は離してくれなかった。
しっかりと鍵をかけると、何を急いでいるのか、男は当然のように廊下を走った。目的の場所は、同じ階にあるらしく、廊下を一直線に駆け抜ける。
先輩が言っていたように、この階は本当に生徒の、番長のテリトリーならしく、普段の授業で使う教室は一つもない。なので、他の階と同じ数だけ部屋がある訳だが、それらが何に使われているのか、オレは全く知らなかった。バッタバッタと盛大な足音の割に低速な移動中、物珍しくて辺りを見ていたオレは、一カ所だけ残っていた教室名を上げたプレートを見つけた。
「視聴覚室?」
思わず読み上げてしまったが、確かにそれなら頷ける。オレたちの普段使う教室には、映像教材用の設備が揃っていたはずなので(まだそれらを使った授業にはお目にかかった事はないが)わざわざ何かを試聴する為だけに、教室移動をする必要はないのだ。そうなると必然的に『視聴覚室』は使われなくなる。そうやって都合のいい空き教室が出来上がる訳だな。
「すいません、あの、先に手洗い場に寄ってもいいですか?」
きっとそれで拭われたオレの顔も汚れているに違いない。と言うか、そんなの見せられたら気のせいか顔が無性に痒くなってきた。
「手洗い場? おー? 便所か?」
首を傾げ、怪訝な表情を浮かべる男に、自分の血と泥で汚れた顔を指さし、一度サッパリしたいと苦笑しながら伝える。事情を察してくれたのか、パッと顔色を変えた男は、ペコペコと頭を下げて謝ると、いきなりオレの腕を掴んで廊下を走り出した。
後で合流するから先に行っていてくれと言ったのだが、気が動転している男の耳には届かず、その間にとんずらするつもりが失敗に終わってしまう。
「ほほほほら、顔出せ。ちゃんと洗おう。ほら、もっと近くに。だ、大丈夫だ。ちゃんと洗うの手伝うから!」
どんだけ慌ててるんだと思う程の狼狽えっぷりに、オレの思考はどんどん冷静になっていく。水道の蛇口を全開にしながら、両手で水を掬ってオレと自分の手の間を忙しなく見る男に落ち着けと言い聞かせる。
「一人でやれます。まだ、殴られた所が痛むので、ゆっくり洗い流したいんですが、少し時間を貰えますか?」
どこか玩具みたいなカクカクした動作で頷く男は、一歩引くと場所をオレに譲ってくれた。軽く頭を下げ、気持ちの悪い口元を掬った水で丁寧に流していく。口の中を濯ぐと切れているのか、何カ所も染みる所があった。吐き出した水も真っ赤で、自分ですらギョッとしてしまったが、横目で男を見ると、何とも言えない表情で顔面蒼白になっていて少し笑えた。
冷たい水で腫れた顔を冷やしながら、これからどうやって逃げ出そうか考える。ずっとソワソワしながら見守ってくれている男をどうやって出し抜くか……何通りも思い浮かんで、知らず溜め息が出た。
先輩みたいに人のよさそうな雰囲気があるせいか、ものすごい罪悪感でいっぱいになってしまった。けれど、どんなにコイツが友好的であろうと、素直について行こうと思えるほど、圏ガクという場所は甘くない。
こいつが言っていた『番長代理』という単語から、連想出来る奴らにロクなのがいない事をオレは知っている。
今の香月たちのように、完全に標的にされている訳ではないが、圏ガクでは基本的に一年は二年の獲物なのだ。主にスバルと連んでいる時だが、オレだって二年には何度も絡まれている。名前と顔は一致しないが、出くわしたくない顔の一つや二つ……どころではないな。まあ、そんな事情でぶっちゃけ二年とは関わりたくなかった。
香月たちから助けてくれたのは、本当にありがたいが、正直な話、香月たちが二年に代わっただけのような気がするのだ。まあ『番長代理』と番長を語るのなら、そっちの気はないだろうから、ケツ掘られる事はないと思うが、なんせ相手はこっちを家畜扱いしている訳で、人のよさそうなお迎えに騙され、のこのこ付いて行くのは利口ではない。
気持ちの悪さを洗い流し、出しっぱなしの水道を止める。濡れた顔を着ているTシャツを捲り上げて拭うと、アッと隣で声が上がった。振り向くと、あの真っ黒な手ぬぐいを持って待機していた男と目が合う。
「拭く物なら、貸してやるのに」
洗った顔を汚れた手ぬぐいで拭いてどうする。普通に考えたら、嫌がらせにしか思えないが、目の前の男は親切心しかなさそうだ。まあ、泥だらけの手ぬぐいで顔を拭く事に対して、本人が全く抵抗がないのだろう。理解は出来ても、付き合ってやる義理なんてないので、視界の端に準備されていた手ぬぐいを見て、そう切り出される前に服で拭いたのだ。
「服がビチャビチャになってるぞ」
眉をハの字にして肩を竦めながらも男が手ぬぐいをしまうのを見届け、オレはホッと胸を撫で下ろし、Tシャツを軽く摘まんで見せた。
「このくらい、すぐに乾くんで大丈夫です」
夕方とは言え、まだまだ暑さは続く。肌に張り付く感覚が気持ちいいとは言えないが、自然と乾くだろう。だと言うのに、何故か男は腕を組んで厳しい表情を浮かべる。
「お前、着替えとか金城先輩の部屋に持って来てるか?」
唐突に先輩の名前が聞こえて、どう答えるべきか迷ってしまう。適当に誤魔化すべきかと思ったが、ジッと真っ直ぐに目を見られていると、自然と頷き答えてしまった。
「なら、ちゃんと着替えた方がいいぞ。風邪引いたら大変だから」
にかっと笑うと、男はまた強引にオレの腕を引っ張って走り出した。ドタバタと賑やかな足音を立て、先輩の部屋まで戻ると、男は律儀に「失礼します」と言って足を踏み入れた。
自分の荷物から着替えを取り出し、濡れた服を脱ぎ捨てる。真新しいシャツを被ると、
「これも着るといいぞ」
部屋の隅でオレが積み上げた先輩の服の山から発掘したらしい、前に借りたことのあるパーカーを差し出された。
先輩の服を勝手に触られ、自分の中に鈍い不快感が沸き上がる。服を受け取らないオレを見て何を思ったのか、男は大丈夫だと言ってのけた。
「勝手に借りても、金城先輩なら怒ったりしないぞ」
我が物顔で先輩の服を手渡してくる男に、自分がバカだと分かっていても苛立ちを覚えた。
「先輩の物は、誰が使おうと問題ないって事かよ」
黙っていられず、口を開いてしまった。しかも、喧嘩腰で。後悔しても遅いが、案の定、男はビックリした顔で固まってしまった。
例えコイツが人畜無害だろうと、他の連中は違うって事を失念していた。けれど、オレはまたも行き当たりばったりな覚悟を決めて、目の前の男を睨み付ける。
黙ったままの男に、オレの苛立ちは際限なく大きくなっていく。遠慮もなにもない視線を浴びせ続けると、先輩の服を差し出していた男の手が、ブルブルと小刻みに揺れ出した。
相手が一人なら、さっきみたいな醜態は晒さない。不意に仕掛けられても対応出来るよう、男の様子を黙って窺い、その表情の固まった顔を見て、オレは場違いな間の抜けた声を上げてしまう。
「え?」
見開かれた目に今にも流れ落ちんばかりに、涙が溜まっていたのだ。手の震えも大きくなり、先輩の服が右へ左へ忙しなく動いている。
「な、なんっ、なんで、ななななんで、おこ、おぉぉお怒るんだよぉ」
体が震えているせいか、声も盛大に震えていた。そして、口を開いた事で、溜まっていたモノが勢いよく溢れ出した。ダァーという滝のような勢いで泣き出した男を前に、今度はオレが固まってしまった。
え? オレが泣かしたのか? いや、おかしいだろ。ガキじゃねーんだぞ。なんだ、この泣き方。コイツ絶対におかしい。
「お、おおおおれ、なんか、なななんなんか悪い、ことし、ししししたか?」
ズルズル鼻を啜り上げながら、真っ赤に腫らした目で見つめられると、相手に対する非難めいた気持ちは、どうしたことか罪悪感へと取って代わった。今、オレの頭をいっぱいにしているのは、何処かで見たポスターの標語だ。
『いじめ、かっこ悪い』
この状況、どう考えても変だが、見ようによっては、オレがコイツをいじめてるように見えるのではないか? そう考えてしまうと、もう駄目だった。良心の呵責で胸が締め付けられるように苦しくなり、さっきまであった苛立ちの後に残ったのは情けないくらい激しい動揺。
「すいません。いきなり……その、えーっと、大きな声を出してしまって……」
かなり弱腰。てか、完全に完敗。男を威圧しないよう目線を合わせる為に少し屈んでいるので、見るからにへっぴり腰という、訳の分からない状況に陥ってしまった。
オレの言葉を聞いて、男の滝のような涙はなんとか止まってくれた。ズルズルと鼻を必死で啜り、ゴシゴシと目元をこれまた必死で手の甲で拭うと、男はキッと真っ赤な目でオレを睨んできた。
「まったく、本当に、お、おお、驚かせやがって。その、アレだぞ! 驚いただけだからな! 別に恐かったんじゃないからな!」
一応、取り繕うつもりらしい。いいか、分かったな! と何度も念押ししてくるので、適当に頷いていると、目だけじゃなく顔と耳を真っ赤にした後、手ぬぐいで証拠隠滅とばかりに顔を勢いよく拭いた。真っ赤な顔が、手ぬぐいの汚れで少し隠れると、男はわざとらしく咳払いを一つする。
「これ……借りとけよ。知らない奴が勝手に借りたら問題だけど、お前が着るなら、別に先輩も怒ったりしないだろ」
先輩のパーカーを押しつけられ、仕方無く受け取ると、男はボソッとそんな事を言った後、
「冷蔵庫みたいになってるから……何か着てないと辛いぞ」
不機嫌そうに口を尖らせ、オレの身を案じてくれているらしい言葉を付け加えた。
冷蔵庫みたいな場所に連れて行かれるのだろうか? 暑さが厳しくなるにつれ、結構真面目に思い描いていた、入れるものなら入りたい場所である冷蔵庫に? いかん、すごく心惹かれている。
額に浮いた汗をTシャツの袖で拭い、自分の中にあった危機感と向き合う。このまま、言われるがままコイツに付いて行くのは、あまりに無防備と言わざるを得ない。が、このままオレが男を撒いて逃げた場合、多分、いや確実に、また男を泣かす羽目になるだろう。正直、あんな思いはもうしたくなかった……オレのメンタルは、相当に弱いらしい。
「ここの掃除は、また今度にしよう。おれも手伝うから」
香月たちに荒らされた部屋を見て、眉をハの字にする男は、当然のように片付けを手伝うと言った。そう言えば、部屋に入る時も、誰もいないのに一声かけてから足を踏み入れていたな。先輩の部屋を我が物顔で使う気かと腹が立ったのだが、オレの勝手な思い込みだったと思い知らされる。
手渡されたパーカーに袖を通すと、更に汗が噴き出してうんざりしたが、男がすっかり元の調子を取り戻して、嬉しそうに笑っているのを見てしまうと、脱ごうとは思えなかった。
「んじゃ、行くか」
オレが着替え終わると、男は再びオレの腕を掴もうと手を伸ばしてきた。さすがに三度目となると、男の行動も読めてくる。一歩後ろへ下がる事で、その手をひらりと躱す。
「もう逃げようとか思ってないから、それは必要ないです。ちゃんとついて行くんで」
掴み損なった自分の手とオレの顔を交互に見る男は、何を考えているのか難しそうな顔をした。
「お前、おれから逃げる気だったのか?」
しまった、余計な事を言ってしまった。謝っておくべきか迷っていると、男は快活に笑ってオレの肩をパンと叩いた。
「別に取って食ったりしないって。まあ、おっかない見た目してる奴もいるけど、お前に危害を加える事はないから安心しろ」
自分に任せろと言いたげに胸を張る男は、油断したオレの腕を当然のように掴んで、また走り出そうとする。引きずられながらも、オレは慌ててポケットから部屋の鍵を取り出した。
「ちょっと待てって! 鍵! あいつら戻って来るかもしんないから、戸締まりさせて下さい!」
「おぉー戸締まりか。そりゃした方がいいな」
うんうん頷きながら足は止めてくれたが、少し前まで逃げようとしていた前科持ちは信用出来ないらしく、腕を掴んだ手は離してくれなかった。
しっかりと鍵をかけると、何を急いでいるのか、男は当然のように廊下を走った。目的の場所は、同じ階にあるらしく、廊下を一直線に駆け抜ける。
先輩が言っていたように、この階は本当に生徒の、番長のテリトリーならしく、普段の授業で使う教室は一つもない。なので、他の階と同じ数だけ部屋がある訳だが、それらが何に使われているのか、オレは全く知らなかった。バッタバッタと盛大な足音の割に低速な移動中、物珍しくて辺りを見ていたオレは、一カ所だけ残っていた教室名を上げたプレートを見つけた。
「視聴覚室?」
思わず読み上げてしまったが、確かにそれなら頷ける。オレたちの普段使う教室には、映像教材用の設備が揃っていたはずなので(まだそれらを使った授業にはお目にかかった事はないが)わざわざ何かを試聴する為だけに、教室移動をする必要はないのだ。そうなると必然的に『視聴覚室』は使われなくなる。そうやって都合のいい空き教室が出来上がる訳だな。
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