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10歳 その4
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頬に添えられたままの殿下の手のひらが、うつむいた私の顔を引き上げた。
「ねぇ、エイミー嬢。婚約者になったことだし、そろそろ名前で呼んでくれてもいいんじゃないかな?」
殿下とある程度親しくなってきた時から、何度か同じような打診はされていた。
妹のように可愛がってくれているからの申し出だとわかっていても、私にとっては、やはり殿下は敬うべき対象であったし、大好きだからこそ名前で呼ぶというのがどうしても気恥ずかしくて「恐れ多いです」と毎回断ってしまっていたけれど。
確かに今日からは婚約者という立場に変わったのだから、このタイミングで呼び方を名前に変えるのはそうおかしい事ではないと思う。それに婚約者に対して恐れ多いから名前で呼ばないと断るのも何だか違う気がする。
「……ですが、」
それでも、殿下を名前で呼ぶ事が正しいのか。躊躇う気持ちがあるのは、前世の記憶によるところが大きい。
ゲーム中のエイミーは一度もリチャード様の事を名前で呼ぶ事はなかった。後ろから勢いよく馬に近付いていくようなお転婆具合は鳴りを潜めたのか、控えめな淑女であった彼女はリチャード様を「殿下」と呼び一歩後ろから傍にいるような女性だった。
そして、リチャード様の事を唯一名前で呼ぶ女性こそがヒロインだったのだ。
前世の記憶を取り戻す前の私もそうであったように、ゲーム中のエイミーも気付いていたのだろう。殿下から自分に向けられている好意は恋慕の情ではなく妹のような存在に向ける親愛の情だと。
だからこそ名前で呼ぶ事が出来なかったのだと思う。大好きな人にもっと近づきたい気持ちはあれど、近づきすぎるのも怖いから。
今後、殿下は第二王子として社交の場を広げていく。その時にもし他の女性に恋をしたら? 王家として大きなメリットをもたらす様な高位のご令嬢が現れたら?
そんな事を考えれば、額に傷痕が残る(しかも実質的にはリチャード様に責任はない)という理由で婚約をしたエイミーの立場はとても脆弱だ。リチャード様は第二王子でエイミーはただの伯爵令嬢なのだから、婚約の解消がそう難しい事ではないと理解していたに違いない。
だからこそエイミーはいつか離れてしまうその日が来るのを恐れて、その時の痛みを少しでも回避するために殿下と呼び続けたんだろう。
「さっきは名前で呼んでくれたと思うんだけどな」
そんな私の気持ちなどお構いなしに、殿下は口の端を少しだけ釣り上げて笑う。
それはゲーム中では見る事のなかった不敵な笑みで。そんなお顔も素敵ですリチャード様! 流石私の推し!
って、そうじゃない。今のは完全にリチャード様推しの前世の私の思考だった。危ない危ない。
そして、殿下が言ったさっきというのは、意識を取り戻した瞬間の話だろう。
あの時は前世の記憶を思い出したばかりで、その記憶に引きずられるままに前世と同じようにうっかり名前で呼んでしまっていた。
これはもう、やらかした。としか言いようがない。
寝起きのうわ言のようなものとはいえ、名前を呼んでしまった事実は覆らないし。うわ言であるからこそ無意識下では名前で呼びたがっていたんだと、暗に示してしまったようなものだ。
正直に言えば、この状況で名前呼びを断る口実を作るのは中々に難しい。
それに前世の私の記憶を取り戻してしまった今の私からすれば、リチャード様はリチャード様なのだ。殿下という呼称は正直しっくりこないのもまた事実だった。
「わかりました……リチャード様」
そして結局、私は欲望に負けた。
この状態で断る口実を考えるのが億劫だったという面があるのは否定しない。でもそれ以上に、推しから名前で呼んでほしいと懇願されたのに、それを断るのが嫌だった。
大好きなリチャード様の事を、前世のようにリチャード様と呼びたかった。
大丈夫。私はゲーム中のエイミーとは違う。この先に何が起きるのかを既に知っている。離れる日が来ることもわかっているし、その時に向けての覚悟だってできている。
だから、こんな事でリチャード様の幸せを願う気持ちは揺るがない。その日が訪れた時にはちゃんと笑ってお別れできる。
「ありがとう。エイミー」
ふわりとリチャード様は嬉しそうに笑って、私の頬を撫でた。
名前で呼んだだけなのに、こんな風に笑いかけてくれるなんて思ってもみなくて胸が熱くなる。
やっぱり私はこの人が好き。この人の笑顔が大好き。
そんな風に思ってしまったら、堪え性のない私の欲望は止まらなくなってしまった。
「あの……」
「ん? 何かな? エイミー」
私がリチャード様を名前で呼んだ。そんなことから現れた些細な齟齬。
ゲーム中では「エイミー嬢」と呼んでいたリチャード様が、私の名前を呼び捨てにした。
既に変わってしまったのであれば、もう少し。もう少しだけ近づきたいという私の欲望。
「もし、リチャード様がよろしければ……私の事はエミィと呼んでくれませんか?」
それは親しい人だけが呼ぶ私の愛称だった。
全く同じではないけれど、最愛の人から前世の名前に近いその名で呼んでほしい。そんな気持ちがどうしても抑えきれなくなってしまった。
大好きな人の婚約者になれた。名前で呼んでほしいと言われた。それだけでも十分過ぎるくらいに幸せなのに。欲張りな私はそれだけじゃ足りない。
「もちろん構わないよ、エミィ。可愛らしい愛称だよね。君にぴったりだ」
そんなわがままな私に、リチャード様はもう一度、微笑みをくれた。
私は幸せだ。本当に幸せ者だ。嬉しすぎて溢れ出しそうな涙をぐっとこらえて、私も笑う。
「ありがとうございます。リチャード様。とっても嬉しいです」
いつか離れる時が来ると知っている。だからこそ、今だけでも仮初のこの幸せに浸ることを許してほしい。
「ねぇ、エイミー嬢。婚約者になったことだし、そろそろ名前で呼んでくれてもいいんじゃないかな?」
殿下とある程度親しくなってきた時から、何度か同じような打診はされていた。
妹のように可愛がってくれているからの申し出だとわかっていても、私にとっては、やはり殿下は敬うべき対象であったし、大好きだからこそ名前で呼ぶというのがどうしても気恥ずかしくて「恐れ多いです」と毎回断ってしまっていたけれど。
確かに今日からは婚約者という立場に変わったのだから、このタイミングで呼び方を名前に変えるのはそうおかしい事ではないと思う。それに婚約者に対して恐れ多いから名前で呼ばないと断るのも何だか違う気がする。
「……ですが、」
それでも、殿下を名前で呼ぶ事が正しいのか。躊躇う気持ちがあるのは、前世の記憶によるところが大きい。
ゲーム中のエイミーは一度もリチャード様の事を名前で呼ぶ事はなかった。後ろから勢いよく馬に近付いていくようなお転婆具合は鳴りを潜めたのか、控えめな淑女であった彼女はリチャード様を「殿下」と呼び一歩後ろから傍にいるような女性だった。
そして、リチャード様の事を唯一名前で呼ぶ女性こそがヒロインだったのだ。
前世の記憶を取り戻す前の私もそうであったように、ゲーム中のエイミーも気付いていたのだろう。殿下から自分に向けられている好意は恋慕の情ではなく妹のような存在に向ける親愛の情だと。
だからこそ名前で呼ぶ事が出来なかったのだと思う。大好きな人にもっと近づきたい気持ちはあれど、近づきすぎるのも怖いから。
今後、殿下は第二王子として社交の場を広げていく。その時にもし他の女性に恋をしたら? 王家として大きなメリットをもたらす様な高位のご令嬢が現れたら?
そんな事を考えれば、額に傷痕が残る(しかも実質的にはリチャード様に責任はない)という理由で婚約をしたエイミーの立場はとても脆弱だ。リチャード様は第二王子でエイミーはただの伯爵令嬢なのだから、婚約の解消がそう難しい事ではないと理解していたに違いない。
だからこそエイミーはいつか離れてしまうその日が来るのを恐れて、その時の痛みを少しでも回避するために殿下と呼び続けたんだろう。
「さっきは名前で呼んでくれたと思うんだけどな」
そんな私の気持ちなどお構いなしに、殿下は口の端を少しだけ釣り上げて笑う。
それはゲーム中では見る事のなかった不敵な笑みで。そんなお顔も素敵ですリチャード様! 流石私の推し!
って、そうじゃない。今のは完全にリチャード様推しの前世の私の思考だった。危ない危ない。
そして、殿下が言ったさっきというのは、意識を取り戻した瞬間の話だろう。
あの時は前世の記憶を思い出したばかりで、その記憶に引きずられるままに前世と同じようにうっかり名前で呼んでしまっていた。
これはもう、やらかした。としか言いようがない。
寝起きのうわ言のようなものとはいえ、名前を呼んでしまった事実は覆らないし。うわ言であるからこそ無意識下では名前で呼びたがっていたんだと、暗に示してしまったようなものだ。
正直に言えば、この状況で名前呼びを断る口実を作るのは中々に難しい。
それに前世の私の記憶を取り戻してしまった今の私からすれば、リチャード様はリチャード様なのだ。殿下という呼称は正直しっくりこないのもまた事実だった。
「わかりました……リチャード様」
そして結局、私は欲望に負けた。
この状態で断る口実を考えるのが億劫だったという面があるのは否定しない。でもそれ以上に、推しから名前で呼んでほしいと懇願されたのに、それを断るのが嫌だった。
大好きなリチャード様の事を、前世のようにリチャード様と呼びたかった。
大丈夫。私はゲーム中のエイミーとは違う。この先に何が起きるのかを既に知っている。離れる日が来ることもわかっているし、その時に向けての覚悟だってできている。
だから、こんな事でリチャード様の幸せを願う気持ちは揺るがない。その日が訪れた時にはちゃんと笑ってお別れできる。
「ありがとう。エイミー」
ふわりとリチャード様は嬉しそうに笑って、私の頬を撫でた。
名前で呼んだだけなのに、こんな風に笑いかけてくれるなんて思ってもみなくて胸が熱くなる。
やっぱり私はこの人が好き。この人の笑顔が大好き。
そんな風に思ってしまったら、堪え性のない私の欲望は止まらなくなってしまった。
「あの……」
「ん? 何かな? エイミー」
私がリチャード様を名前で呼んだ。そんなことから現れた些細な齟齬。
ゲーム中では「エイミー嬢」と呼んでいたリチャード様が、私の名前を呼び捨てにした。
既に変わってしまったのであれば、もう少し。もう少しだけ近づきたいという私の欲望。
「もし、リチャード様がよろしければ……私の事はエミィと呼んでくれませんか?」
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大好きな人の婚約者になれた。名前で呼んでほしいと言われた。それだけでも十分過ぎるくらいに幸せなのに。欲張りな私はそれだけじゃ足りない。
「もちろん構わないよ、エミィ。可愛らしい愛称だよね。君にぴったりだ」
そんなわがままな私に、リチャード様はもう一度、微笑みをくれた。
私は幸せだ。本当に幸せ者だ。嬉しすぎて溢れ出しそうな涙をぐっとこらえて、私も笑う。
「ありがとうございます。リチャード様。とっても嬉しいです」
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