江戸の夕映え

大麦 ふみ

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妾を持つ町の蕎麦屋の話──『梅翁随筆』より

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 菊次が女を娶らせた相手は、おなじ町内の湯屋の主人だった。
 といっても、祐助は中風で隠居した父から店を引き継いだばかりで、歳は二十五でしかなく、女と夫婦とするのに好ましい振り合いだった。祐助は色白、細身の女好きのする優男の見かけに加え、仕事ぶりにも問題はなさそうで、あたりの妙齢の娘たちやその母親たちから、熱っぽい視線を向けられているような男だった。
 祐助を連れて女の家に挨拶に出向くと、菊次がいつまでも娘を手放さないのではと疑っていた女の母親は、態度を露骨なほど変えた。菊次さん、ご主人、旦那さんと呼んで、隣家からお茶まで借りて、柄にもないもてなしを始めて、引き込まれるような面差しをもつ若主人に相好をくずした。
 だが、菊次が祐助を選んだのは、世の母親達の了見するのとはまったく違う祐助の裏の顔からだった。菊次は祐助を陰間野郎と心のなかで馬鹿にしていたのである。はっきりとした証拠があったのではない。みんながそう認めていたのでもなかった。だが菊次ひとりはそうに間違いないと信じていた。
 菊次が祐助を十代のころから覚えていたのは、たんに店に足繁くやってくる常連だったからではない。祐助と同い年の男の子たちは、もう何年も前に剃刀をあて月代(さかやき)を剃っていたというのに、祐助ひとり二十歳ちかくまで前髪を残していたからだった。ただそれがとくべつ変にとみえなかったのは、背丈こそ伸びても骨柄はひ弱で、男の体がよんどころなく放つ熱、暑苦しさがおよそ欠けていたからだろう。その若衆ぶりが女たちに評判であったから、まわりの男たちはやっかみ半分で役者気取りでいやがるのかと腐したり、あざ笑ったりした。
 ただ菊次はそんな祐助のなふるまいを、色男のわが容貌への執着とは見ていなかった。祐助が毎日の昼時に菊次の店に顔を出すようなった頃には、蕎麦が好物で来ているわけではないと疑い出していた。次から次の注文をてきぱきこなす菊次が、どこからか一条の光が自分にむけて射し込んでくるよう思われ頭をあげると、祐助の視線の残像があった。それは粘ついて生温かい痕跡を残していた。居合わせた誰も気づかないなものではあったがが、女との艶ごとから学ぶことの多かった菊次には、それがどういう種類のものがおのずと知れて、ぞわぞわと全身の膚(はだえ)が粟だった。湯屋も祐助が店にいそうにない時を見計らっていきたかったが、おのずと限りがあり、ここでも同じ眼差しが薄暗く湯気の満ちた浴室に鈍く光った。
 女には事欠くとは見えない祐助に浮いた話のひとつもなく、体を交えた女のことを自慢語りする仲間たちと一緒にいても、さざめきたつ下卑た笑いの波からひとり取り残されているよう見えた。親父が隠居する頃を機に、縁談を持ち込む手合もたくさんいたようだが、祐介の方には身を固めようとする気配がひとつもみえなかった。
 やがて菊次は祐介を利用することを思いついた。女を誰かに譲るとなったら、やつほど好都合な男はいないと考えだしたのである。
 女がほかの男に抱かれて一番耐えがたいと思えたのは、艶本さながらに女をおもちゃのようにいじり倒して、菊次がやれなかったような破廉恥を臆面もなく堪能することだった。他人の閨を覗いたことなどなかった菊次は、テラテラと油染みた顔をしたみるからに好色そうな男を見ると、こいつがあの女をねぶり倒すのかと勝手な妄想を膨らませてひとり妬けた。
 祐介は女へのぎらついた欲望を菊次に想像させなかった。筋張ったところのない骨格、体の線の細さは、情欲剥き出しと菊次にはみえる汚れた男たちからずいぶんと遠かった。女の腐ったのは女を満足させられない そう菊次は思い込むことにした。身勝手な決めつけはさらにすすんで、淡泊のあまり、体に触れもしまいとまですることにした。
 さらに勝手な計算は歯止めがきかなくなった。
 ──俺の言うことなら、奴は何でもきくはずだ。
 いつもどおり昼時やってきた祐助に、「頼みてえことがあるんだが」と耳打ちして、二階にあげた。身を固めるつもりはないかとは問わず、「面倒を見てやって欲しい女がいるんだ」と本当に頼み込むと、あっけないほど簡単に祐介が飲み込んだことで、それは確信にかわった。
 そうして、菊次は自分の妾を娘分にして、湯谷の祐介に縁付けたのだった。
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