江戸の夕映え

大麦 ふみ

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妾を持つ町の蕎麦屋の話──『梅翁随筆』より

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 女は菊次の用意した長屋を出て、千駄木へ移った。そこは武家屋敷のならびにぽつりとある百姓地のそばで、今度働くことになった水茶屋の通いに具合がいいということだった。だが、じっさいのところは、加賀様、黄門様のお屋敷、根津権現の向こう側にあるため、菊坂からは離れている気はしたが、さほど不忍池あたりに近づいたというわけてもなかった。
 ここに女の部屋をみつけて、養親として請人となったのは菊次だった。女を近くに置いておくのが、女房、息子、町内の者たちにはばかられるようになったからだった。蕎麦屋に置き平時いっしょにいるようになると、自然とその顔、姿が三重、声を聞き、あれこれ話す機会はどうしても生まれる。祐介と別れただけでなくり、支えであり重荷でもあった二親もすでにいない女の寂しさと所在なさは、菊次には健気と映って、まえよりも強く心をかき立てた。あらがいようなく、女とふたたび通じてしまっていた。
 そうなってみると、前よりもよほど注意深くことを運ぼうと菊次は考えた。いまの女には、自分の身一つを養っていくことはさほど難しくない。今度の水茶屋は、参詣がえり、遊山のついでに立ち寄る至極まっとうな店で、容色が評判となれば、客もついて心付 をもらえたりもするらしい。ならば、銭金のことから女を見限るという、前の別れの惨めさは考えなくていい。ならばこそ、他人の横やりでだめにされると考えるとなんとも業腹だった。そこで、人目につかず、だが通うきになれば障害とならないところに宿をさがしたのだった。
 料理茶屋に奉公させていた息子を、じぶんの店に戻して、蕎麦の仕事をたたき込んだ。いつかは継がせるつもりだったし、それが少しばかり早くなったに過ぎない。店を切り盛りすることは、人に使われて料理をつくっているだけとは全然ちがうことで、はやくそれを気づかせてやるのが、なにかにつけ悴のためにもなると菊次は心のなかでした。だが、ほんとうのところは、自分のからだを空けて、女との時間をつくりだすために悴を利用しただけとは我ながら気づいていた。
 そうして、釣りを始めた。いままで働きづめに働いてきて、亭主や親父を見て、意外な感じをもっているようだが、なにかいやごとを言ってとどめようとすることはいっさいなかった。そうして、息子に店を任せると、竿とかごをさげて、近場の水辺へといくようになった。好き者が、「いっしょにいこうぜ、釣れるようにしてやるぜと」と誘いをかけてきても、「ひとりで、ぼんやり糸を垂れているとのがいいんだ。わちゃわちゃ、釣ってやろうとするなら、働いているのとかわりないだろ」といって、ひとりでどこかに行くやり方を変えなかった。獲物を持って帰ってくることはほとんどなく、みながそれ笑っても、つられたようにじんわりと笑みをうかべるだけだった。
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