江戸の夕映え

大麦 ふみ

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妾を持つ町の蕎麦屋の話──『梅翁随筆』より

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 江戸で生まれて育った人間が、ながく江戸を離れて暮らすことはできない。祐介も上州での生活に二、三年こそ耐えたが、いくぶんかの蓄えができると懐かしい街に舞い戻った。寛政十年のことである。
 本郷界隈に顔をだせば、見知った奴らはすぐにみつかり、昨日分かれたかのような歓迎をうけた。その晩、開かれた祝いの宴には、昔からの友達、仲間が集まった。
 お互いの身に起こったことを語り合っていると、楽しくおもしろかったことは、もちろん、そのときは苦しく煩わしいばかりであったことも、懐かしいとさえおもえる心地となって、喜びの杯が数えきれぬほど飲み干された。
 だが、その喜びの頂を越えても飲み続けていくと、平素は押さえ込まれている蓋の重しが軽くなって、いわずもがなのことが話題にあげて、酒宴の熱をさげまいといがらい煙をだすような材を無理に焼べる段階に落ちていった。
「おまえの女房、蕎麦屋の囲い者になってるぞ」
 この頃には、すでに菊次の釣りは女の居どころに出向くための口実だということが、まわりのものに知られるようになっていた。わざわざ菊次の後をつけて、怪しげな釣りの正体をつかもうとする暇な者はいなかった。だが千駄木から蔬菜を買い付ける振り売りが、釣り竿をもってやってくる男を見かける話を百姓から聞き出していた。もうそれだけのことで、周囲の者には十分だった。
「おまえは、人がよすぎるぜ。全部、蕎麦屋の企みさね。最初っからそれを目当てに、江戸から追い出したのさ」
 酒の力をかりて蕎麦屋のことをあしざまに皆が言いつのった。まじめな男で恨みを買うはずははなかった。いい男ぶりで年をとっても若い女を囲っているのが、なんとなくむしがすかないといったぐらいの理由だったろう。
 このときは以前のように、祐介が蕎麦屋と女のできているという話を聞き流さなかったが、それをなぜかと怪しむものは酔った男たちのなかにはいなかった。女はもう祐介の女房でもなく、離縁するのもあまりにすんなりと運んでしまったことも覚えているものもいなかった。
 祐介の顔色が酒のせいもあって朱というよりどす黒くかわった。
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