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妾を持つ町の蕎麦屋の話──『梅翁随筆』より
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五月の半ば、その日、十五日は夕暮れまでに雨がやんで、季節の長雨の切れ目となった。雨雲は跡形なく消えて、久しぶりの夕焼けが江戸の空にひろがる。ひとびとは茜色に染まって家路をたどっているが、その片手にもう用なしとなった雨傘がたたまれて、携えられている。
その夕刻の人のながれのなかに、ひときわ足早に先を急ぐものがいた。祐介が菊次の店へと向かっていた。
雨が止んでから宿を出たというのに、その片手には傘がにぎられている。そこには江戸への道中で差していた旅脇差しが抜き身で忍ばされていた。
雨のために仕事に出られなかった者が多かったのだろう。菊次の店を外から覗いてみると一人の客のすがたも見えなかった。もっけの幸いと祐介は店のなかにそっと入り込んだ。菊次のすがたは見えないが、奥から夜の客への準備をしているらしい音があれこれしている。わずかな音も立てないよう息をつめて、そちらににじりよっていくと、菊次は大釜の前にかがんで火を焚てている。節を抜いた竹筒をとおして、ふぅふうと鞴のように息を吹き込んでいて、祐介の気配にはまったく気づいていないようだった。
祐介は傘をそっと地面に置いて、脇差しの柄をにぎりしめた。反対の手で懐をさぐって、垢じみた手拭きを取り出す。菊次の背後に回り込み、息を継ごうと竹筒を離した口元にぐっとその汚れた布を押しつけた。
とつぜん視界を横切って顔を圧迫してくる掌と、動物じみた匂いに全身を身構え、後ろを振り向こうと体を捻ろうとしたまさにその瞬間、焼火鉢に誤って触れたときのような灼熱が走り抜けた。ほとんど同時に鋭く刺すような激痛と押しつぶされるような鈍痛で世界は同時に襲ってきた。竈(かまど)の中で立ち上がる炎が、菊次の胸から突き出す刃を映し出している。これが菊次がこの世でみた最後の景色であった。声をあげることもなく、動かなくなると、全身の重みすべてが脇差に架かっているよよう祐介に感じられた。
この時二階では、菊次の女房が息子に灸を据えてやっていた。人の声はしないのに、荷物が土間に放り出されたような物音がして、
いまごろ、なんでえ、といぶかしむ気持ちが湧いて、首をつきだして階段の下をのぞき込んだ。土間のところに人影はみえなかったが、光を照り返す明るい影が一瞬走り抜けた。物取りか、と足音をたてないよう階下におりていくと、おそるべき光景が息子の視界を捉えた。親父の胸あたりから五、六寸ほど刀の切っ先が飛び出している。
悴はなんの考えもなく階段を飛び降りて 跳躍するかのように数歩をかけだすと、もう祐介のそばに到達していた。ちょうど目に入った蕎麦庖丁をつかむと、敵の眉間をしたたかに撃った。
菊次にとどめを刺せたのかに気をとられていた祐介は、襲いかかってきた息子に気づいていなかった。手負いの菊次による必死の反撃だと勘違いした祐介は、刀を引き抜くと、めったやたらと振り回して菊次の死体を二十四、五カ所も切りつけた。このあいだ、あまりの勢いに息子は祐介に容易には近づけず、隙をみて大きく包丁を振りかぶった。その拍子に包丁の柄が抜けて、刃だけが祐介の背後の壁に鈍い音をたてて衝突した。
その音をした方向を確認しようと、首をまわしてあたりを窺おうとして、ようやく祐介は菊次の息子が父親を助け出そうと、ものすごい勢いでこちらにむかっているのに気づいた。その形相をみてあわてて刀を菊次から引き抜くと、抜き身のまま逃げ出した。すでに階段の一番下で息子と祐介の向き合いを見ていた女房はそれを見て、
「ひとごろしい、ひどころしい」、と耳にうるさい声でわめきたてた。
狭い土地に店が立て込む江戸の町内では、この金切り声で、近隣の者達がかけつけるのには十分だった。ばらばらに一人、二人と集まってきた町内の者は、地べたに倒れた蕎麦屋が血まみれであるのに仰天した。抜き身がぶっすりと体を貫いているのを目にしていた息子は、もうぴくりとも動かない父親の方にはかけよらず、壁のあたりにかがんてなにかを探している様子であった。
「おい、なにしてるんだ、菊次がこんなことになってるぜ」
「包丁がこのあたりに飛んで」
ここまでの成り行きのわからない近所のものたちは、包丁を見つけ出して息子がここを出て行こうとするのを見て初めて、親父を殺した下手人をみずから追い詰めようとしてるのが飲み込めた。
それは危ないと通せんぼうしようとする者の脇をすりぬけようとする悴をみながひきとどめた。いきり立つ息子に、
「おい、あっちだって光り物をもってるんだろ。そんな得物で勝てるのかい」
と冷水をあびせかけるよう語りかけた。
「本望とげたきゃ、むだに追いかけたしてたんじゃだめだ。あっちにも一撃くれてやったんだろ」
息子をおしとどめるまでに、きれぎれに何がおこっていたかを聞出すのに成功していたので、理をといてうまくいさめることができると踏んだのだろう。
「なら、いそいで辻番所にいって、奉行所にお願いするのがいちばんだ」
あっぱれ町人ながら父の敵討ちを遂げようとした、とのことで奉行所も訴えを軽くはあつかわなかった。直ちに、配下の与力、同心、その手下のものに動員をかけた。
祐介はそれらの大捕物となっているとはついぞ知らなかった。なんとか菊坂を出たものの、額にうけた傷はおもいのほか大きく、逃げようとするする気持ちをかき立てようとしてもすぐに萎えて、歩み続けることはできなかった。辻番所の手前で倒れると、そこにかつぎ込まれた。まだ奉行所から人殺しの犯人が逃走しているという連絡は届いていながった。しかし、祐介は子細を訪ねる番人にあっさりと、蕎麦屋を殺して逃げているところだったことを、すこしづつであったが白状した。そうして奉行所の牢にいれられてしまった。そこで祐介の様態はみるみる悪化して、医師もよばれたが、その日の夜を越すことなく息絶えてしまった。
この話は蕎麦屋の息子の敵討ちとして江戸の街でひとびとの噂話となったとされる。
その夕刻の人のながれのなかに、ひときわ足早に先を急ぐものがいた。祐介が菊次の店へと向かっていた。
雨が止んでから宿を出たというのに、その片手には傘がにぎられている。そこには江戸への道中で差していた旅脇差しが抜き身で忍ばされていた。
雨のために仕事に出られなかった者が多かったのだろう。菊次の店を外から覗いてみると一人の客のすがたも見えなかった。もっけの幸いと祐介は店のなかにそっと入り込んだ。菊次のすがたは見えないが、奥から夜の客への準備をしているらしい音があれこれしている。わずかな音も立てないよう息をつめて、そちらににじりよっていくと、菊次は大釜の前にかがんで火を焚てている。節を抜いた竹筒をとおして、ふぅふうと鞴のように息を吹き込んでいて、祐介の気配にはまったく気づいていないようだった。
祐介は傘をそっと地面に置いて、脇差しの柄をにぎりしめた。反対の手で懐をさぐって、垢じみた手拭きを取り出す。菊次の背後に回り込み、息を継ごうと竹筒を離した口元にぐっとその汚れた布を押しつけた。
とつぜん視界を横切って顔を圧迫してくる掌と、動物じみた匂いに全身を身構え、後ろを振り向こうと体を捻ろうとしたまさにその瞬間、焼火鉢に誤って触れたときのような灼熱が走り抜けた。ほとんど同時に鋭く刺すような激痛と押しつぶされるような鈍痛で世界は同時に襲ってきた。竈(かまど)の中で立ち上がる炎が、菊次の胸から突き出す刃を映し出している。これが菊次がこの世でみた最後の景色であった。声をあげることもなく、動かなくなると、全身の重みすべてが脇差に架かっているよよう祐介に感じられた。
この時二階では、菊次の女房が息子に灸を据えてやっていた。人の声はしないのに、荷物が土間に放り出されたような物音がして、
いまごろ、なんでえ、といぶかしむ気持ちが湧いて、首をつきだして階段の下をのぞき込んだ。土間のところに人影はみえなかったが、光を照り返す明るい影が一瞬走り抜けた。物取りか、と足音をたてないよう階下におりていくと、おそるべき光景が息子の視界を捉えた。親父の胸あたりから五、六寸ほど刀の切っ先が飛び出している。
悴はなんの考えもなく階段を飛び降りて 跳躍するかのように数歩をかけだすと、もう祐介のそばに到達していた。ちょうど目に入った蕎麦庖丁をつかむと、敵の眉間をしたたかに撃った。
菊次にとどめを刺せたのかに気をとられていた祐介は、襲いかかってきた息子に気づいていなかった。手負いの菊次による必死の反撃だと勘違いした祐介は、刀を引き抜くと、めったやたらと振り回して菊次の死体を二十四、五カ所も切りつけた。このあいだ、あまりの勢いに息子は祐介に容易には近づけず、隙をみて大きく包丁を振りかぶった。その拍子に包丁の柄が抜けて、刃だけが祐介の背後の壁に鈍い音をたてて衝突した。
その音をした方向を確認しようと、首をまわしてあたりを窺おうとして、ようやく祐介は菊次の息子が父親を助け出そうと、ものすごい勢いでこちらにむかっているのに気づいた。その形相をみてあわてて刀を菊次から引き抜くと、抜き身のまま逃げ出した。すでに階段の一番下で息子と祐介の向き合いを見ていた女房はそれを見て、
「ひとごろしい、ひどころしい」、と耳にうるさい声でわめきたてた。
狭い土地に店が立て込む江戸の町内では、この金切り声で、近隣の者達がかけつけるのには十分だった。ばらばらに一人、二人と集まってきた町内の者は、地べたに倒れた蕎麦屋が血まみれであるのに仰天した。抜き身がぶっすりと体を貫いているのを目にしていた息子は、もうぴくりとも動かない父親の方にはかけよらず、壁のあたりにかがんてなにかを探している様子であった。
「おい、なにしてるんだ、菊次がこんなことになってるぜ」
「包丁がこのあたりに飛んで」
ここまでの成り行きのわからない近所のものたちは、包丁を見つけ出して息子がここを出て行こうとするのを見て初めて、親父を殺した下手人をみずから追い詰めようとしてるのが飲み込めた。
それは危ないと通せんぼうしようとする者の脇をすりぬけようとする悴をみながひきとどめた。いきり立つ息子に、
「おい、あっちだって光り物をもってるんだろ。そんな得物で勝てるのかい」
と冷水をあびせかけるよう語りかけた。
「本望とげたきゃ、むだに追いかけたしてたんじゃだめだ。あっちにも一撃くれてやったんだろ」
息子をおしとどめるまでに、きれぎれに何がおこっていたかを聞出すのに成功していたので、理をといてうまくいさめることができると踏んだのだろう。
「なら、いそいで辻番所にいって、奉行所にお願いするのがいちばんだ」
あっぱれ町人ながら父の敵討ちを遂げようとした、とのことで奉行所も訴えを軽くはあつかわなかった。直ちに、配下の与力、同心、その手下のものに動員をかけた。
祐介はそれらの大捕物となっているとはついぞ知らなかった。なんとか菊坂を出たものの、額にうけた傷はおもいのほか大きく、逃げようとするする気持ちをかき立てようとしてもすぐに萎えて、歩み続けることはできなかった。辻番所の手前で倒れると、そこにかつぎ込まれた。まだ奉行所から人殺しの犯人が逃走しているという連絡は届いていながった。しかし、祐介は子細を訪ねる番人にあっさりと、蕎麦屋を殺して逃げているところだったことを、すこしづつであったが白状した。そうして奉行所の牢にいれられてしまった。そこで祐介の様態はみるみる悪化して、医師もよばれたが、その日の夜を越すことなく息絶えてしまった。
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