江戸の夕映え

大麦 ふみ

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箪笥に鍵をかける元花魁の話──『思出草紙』より

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 樽屋三四郎が、おみちの箪笥に鍵が掛かっているときづいたのは、お道に箕輪(みのわ、現在の台東区三ノ輪)の妾宅をあてがって最初の夏の土用、虫干しの折でのことだった。

 その箪笥は、お道が吉原で通路(かよいじ)と名乗っていた頃、その手練手管にほだされた三四郎が贈ったもので、格式の高い妓楼、松葉屋の看板太夫にみあう、うるし地に金箔で飾られた一等品であった。

 身請けとなって、廓(くるわ)でこその派手に過ぎる花魁の着物は、三四郎からのも含め残らず始末させたが、箪笥はそろいの文様をあしらえた鏡台と一緒にお道の居室に移させた。板塀で囲まれた門つきの屋敷で、何人もの下女、奉公人にかしづかれて遊び暮らすお道の調度としてそれは違和がなくおさまった。

 梅雨のあいだにしみこんだ湿気を追い出すために、召使いたちが箪笥から着物、帯を取り出し、庭続きの座敷に陰干ししていく。日差しは部屋の端に並べられた衣桁(いこう、着物の掛ける家具)の列にまで届かない。ただ、乾いた風が松、石灯籠をしつらえた庭を渡って吹き差し、着物をかすかに揺らして、奥の廊下へと通り抜けていく。

 その風に当てられながらまばゆいまでの装束をながめる三四郎は、狂態の余韻に浸っている朝の寝間で、本宅への帰りを遅らせてとお道が無理をいいだし、虫干しに同座させたわけが飲み込めてくる。

 どれもこれも三四郎が買い与えたものだ。空っぽになった箪笥を埋めてやるには、落籍に替わらぬほどの金がいった。江戸の町年寄である樽屋の名前を継ぐ三四郎とて、それらの費(ついえ)はけっして安いものではなかった。それだけに、ずらりと並ぶ艶やかな衣を瞥見していると、男の見栄心がこの上なくにくすぐられた。

 遊女百人並べて、まずは十人を選りすぐり、そこからただ一人に選ばれる美貌がなければ太夫とはいえない。その太夫たちのなかでも別格の女を我が物として、気の儘に着飾らせてやる。それだけの甲斐性をもつ男はそうはいないのだ。

 江戸に三人しかいない町役人、町人の総元締めをご公儀様から仰せつかる身ながら、金に明かした遊蕩に耽る。そんな三四郎につゆも後ろめたさがないといえば嘘になった。けれども代は宝暦、それもすでに十年をとうに過ぎたこの頃では、世の風紀はおさえようなく緩み始めていた。役務がら侍たちとの付き合いが深い三四郎の目には、享楽を否まない気風が武家にまではびこっているのは明らかだった。あいつらがあの体たらくなら、まあ大丈夫。そうたかをくくっていたのである。どれほどつぎ込もうが、悪所で一人前に遊んでこその粋人、そして俺こそが粋だ。

 浮かれ心地の三四郎は、箪笥に寄って小さな抽斗をみずから明ける。笄(こうがい)や櫛、簪(かんざし)がに目に飛び込んでくる。どれもこれもが、日本橋あたりに店を構える一等の小間物問屋に持ってこさせた流行の品々で、男にまで所有の欲をかきたてる、巧緻な工芸品である。

 そうして錠前のついた下段の抽斗に手がのびて、そろりと引き出そうとする。

 ──あれ。

 抵抗がある。せっかくの酔い心地に冷や水を浴びせられたような嫌な気分になった。鍵か掛かっている。三四郎がガチャガチャとしばらく繰り返して、下女の一人を呼び止めると、

「奥様が」

 とだけ自分の手抜かりではないことを伝えると、主人たちのもめごとに関わりたくないかのように、やり残した仕事へ急ぐていで慌ただしく立ち去った。

 お道は長火鉢の前に座って使用人たちを差配しており、このやりとりが聞こえているはずなのに、素知らぬ顔を装い、あらぬほうに視線を漂わせている。  

 ひっかかるものを感じて、三四郎から言葉がでた。

「……なあ、お道、小袖のたぐいがまだすんでいないようだが」

 そこらの町娘の着るのとは段違いに洒落た普段着も数多(あまた)買い与えている。めぼしいもののいくつかもが着物の列のなかに見当たらない。

「……あら、よくお気づきになられましたこと。……それらは結構ですの、今日は。……よく出し入れするもので、箪笥の奥にいれっぱなしというわけでもございませんから」

 そんな虫干しがあるものか、と三四郎は心の中で毒つくが、

「おや、そうかい。ただ、せっかくだからそいつらの具合もこの機会に拝ませてくれるかい」

 と努めて穏やかな調子で話をあわせる。お道は細面で小柄の体つきのため一見華奢な印象をあたえるが、これと決めたらたやすくは折れない心の強い女なのだ。
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