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江戸に奉公にでる熊谷農夫の話 ― 『譚海』より
2 江戸
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江戸で、仕事はおもいのほか簡単に見つかった。
太平次の隣り村に、江戸の出稼ぎに行った者がいた。その百姓から口入れ屋(職業あっせん業)の場所を教えてもらっていた。
新吉原の丁字屋という遊女屋が下男をさがしていて、搗米屋(精米屋)の代わりにもなるのが便利でいいという。割れ米が混じるような不細工な飯米は、上客には絶対に禁物、臼と杵で搗かれたつやつやの白米をいつでも用意できるようしたいらしい。
出稼ぎの百姓なら、そういわれて太平次に声がかかった。
太平次が、江戸人が好む、糠をこそげ落とした米を食べることなど、まずはなかった。しかし、村の造り酒屋で日雇いをした経験もあり、加減をみながらやってみれば造作のない仕事だった。試しに遊女屋の主人の眼の前で搗かされたが、その場で一年二両の抱え(雇用)が決まった。
来る日も来る日も、太平次は杵を打ち下ろした。真夜中に起こされて搗けといわれても文句を言わなかった。そのあいだにみなが好む搗き方もどんどんわかってきた。あいつの搗く米は、越後出の搗米屋と変わらないほどうまい、炊き上がりもきれいだと言われて、他の仕事から放免された。そうなると今度は、どれくらいの米が必要となるか、天候、季節、客数、行事から予測して、いつでもうまい米が出せるように心を配った。
太平次は、誘惑の多い江戸に暮らしながらも倹約につとめ、もらった給金や臨時の収入も、都合がつけばこまめに母、女房に金を送った。
──あいつは使える。
主人は太平次がいたく気に入った。律儀で篤実な性格は奉公人として安心できたし、仕事の品をあげようと工夫を絶やさないのは商人に必要な才覚だった。
翌年の契約では台所での掛かりとなり、給金も増額された。米の搗き方を他の使用人に教え、その管理を続けるいっぽうで、薪、肴(おかず)、酒、醤油、油など食べ物まわり一切の消耗品に責任を持った。
江戸の客商売で扱う品々のものの良いこと、またその値段の高さに最初は驚いた。それだけに、どうやって無駄遣いをなくし、また品を悪くさせないか、その扱いに考えをこらした。そのうち、これらを卸してくる出入りの商人の見極め、交渉の大切さも分かってきた。
店の銭をかすめ取るのが簡単なこともすぐに見通せた。村にいるときから、算術がうまれながらに得意なことが庄屋たちに重宝されていたが、特別難しい計算はそれに必要なかった。出入りの商人たちが不正を持ちかけ、太平次にやり方を教えようとした。
太平次はそれにのらなかった。そういう奴らの調子のよさげなところがなんとなく虫が好かなかった。腹の底では百姓を馬鹿にしている笑い顔や、そいつらが力説する「要領」が嘘くさく思えた。
─自分のやり方でいい。
熊谷をでるときに四、五年を覚悟してきた。生きるか死ぬかはここでの辛抱にかかっている、そう腹を決めてい
た。
幸運だったことに、その誠意は主人に通じた。
利益の鞘抜きがなくなり、堅実な商人だけを相手にしたことで、無駄な銭の流出が減った。それが徐々に積み上げられ、帳面の上ではっきりとした数字となるまでになった。主人はそれを見逃さなかった。
翌年には更に給金があがり、仕事は、二階のもの、遊女屋の経営に関わるものになった。茶屋との貸方という、一階の裏方仕事を遥かに上回る金を扱う仕事も担った。その仕事は、何年も勤めた手代でも、ばくち、女という蜜の甘みにはまっていると、横領をふと考えてもおかしくはない、危険なものでもあった。
太平次も江戸で三年目となり、そこが金さえあればどこまでも愉快にすごせる場所だとわかっていた。だが、そういうその場かぎりの気持ち良さより、主人の信用にこたえることで、もっと大きな仕事を与えられ、それをうまく乗り切って見せることに、もっと深い喜びを感じるようになっていた。
どうやれば円滑に掛け金を回収できるのか、どういう客に取り損ないの危険があるのか、なにをしてやれば客が喜ぶのか、そういう農事からかけ離れた仕事をこなしているうちに、主人だけでなく、女郎やその馴染みの遊客からも便利に使われ、どんどん世の中が広く、深くなった。
それにつれて、給金以外の花代(祝儀)も増えていき、それを元手に堅実な金貸しをすることも覚えた。これも幸運なことに、大きな焦げ付きなく着実に金子を増やした。
五年目に一度主人に帰郷を申し出たが、主人からの引き留めにあい、あと二年の約束で抱えを引き延ばした。結果的にその二年が、太平次の蓄えを、百七十両という、ふつうの小作の百姓がもちつけないほど莫大なものとした。
質とした田畑を取り返すには充分な額であったし、母や女房のこともさすがに心配となっていた。取り交わす手紙の間隔が間遠になり、このままでは村とのつながりが根腐れするような怖さも感じ始めていた。
太平次は約束の六年目の年季があけると、主人に丁寧に帰郷の別れをつげた。主人は、のらりくらりと太平次との約束を反故にして、なんとか店にとどまらせようとした。そのため、帰郷の準備に時間をとれず、最低限の荷物だけを飛脚で送ることしかできないほどであった。
最後には諦めた主人は、百姓の一時の出稼ぎには過分な宴を開いてくれた。その席で、また江戸にもどってくるよう、また他の店には絶対抱えられないよう太平次に約束をさせて、ようやく江戸を発つことを許したのだった。
太平次の隣り村に、江戸の出稼ぎに行った者がいた。その百姓から口入れ屋(職業あっせん業)の場所を教えてもらっていた。
新吉原の丁字屋という遊女屋が下男をさがしていて、搗米屋(精米屋)の代わりにもなるのが便利でいいという。割れ米が混じるような不細工な飯米は、上客には絶対に禁物、臼と杵で搗かれたつやつやの白米をいつでも用意できるようしたいらしい。
出稼ぎの百姓なら、そういわれて太平次に声がかかった。
太平次が、江戸人が好む、糠をこそげ落とした米を食べることなど、まずはなかった。しかし、村の造り酒屋で日雇いをした経験もあり、加減をみながらやってみれば造作のない仕事だった。試しに遊女屋の主人の眼の前で搗かされたが、その場で一年二両の抱え(雇用)が決まった。
来る日も来る日も、太平次は杵を打ち下ろした。真夜中に起こされて搗けといわれても文句を言わなかった。そのあいだにみなが好む搗き方もどんどんわかってきた。あいつの搗く米は、越後出の搗米屋と変わらないほどうまい、炊き上がりもきれいだと言われて、他の仕事から放免された。そうなると今度は、どれくらいの米が必要となるか、天候、季節、客数、行事から予測して、いつでもうまい米が出せるように心を配った。
太平次は、誘惑の多い江戸に暮らしながらも倹約につとめ、もらった給金や臨時の収入も、都合がつけばこまめに母、女房に金を送った。
──あいつは使える。
主人は太平次がいたく気に入った。律儀で篤実な性格は奉公人として安心できたし、仕事の品をあげようと工夫を絶やさないのは商人に必要な才覚だった。
翌年の契約では台所での掛かりとなり、給金も増額された。米の搗き方を他の使用人に教え、その管理を続けるいっぽうで、薪、肴(おかず)、酒、醤油、油など食べ物まわり一切の消耗品に責任を持った。
江戸の客商売で扱う品々のものの良いこと、またその値段の高さに最初は驚いた。それだけに、どうやって無駄遣いをなくし、また品を悪くさせないか、その扱いに考えをこらした。そのうち、これらを卸してくる出入りの商人の見極め、交渉の大切さも分かってきた。
店の銭をかすめ取るのが簡単なこともすぐに見通せた。村にいるときから、算術がうまれながらに得意なことが庄屋たちに重宝されていたが、特別難しい計算はそれに必要なかった。出入りの商人たちが不正を持ちかけ、太平次にやり方を教えようとした。
太平次はそれにのらなかった。そういう奴らの調子のよさげなところがなんとなく虫が好かなかった。腹の底では百姓を馬鹿にしている笑い顔や、そいつらが力説する「要領」が嘘くさく思えた。
─自分のやり方でいい。
熊谷をでるときに四、五年を覚悟してきた。生きるか死ぬかはここでの辛抱にかかっている、そう腹を決めてい
た。
幸運だったことに、その誠意は主人に通じた。
利益の鞘抜きがなくなり、堅実な商人だけを相手にしたことで、無駄な銭の流出が減った。それが徐々に積み上げられ、帳面の上ではっきりとした数字となるまでになった。主人はそれを見逃さなかった。
翌年には更に給金があがり、仕事は、二階のもの、遊女屋の経営に関わるものになった。茶屋との貸方という、一階の裏方仕事を遥かに上回る金を扱う仕事も担った。その仕事は、何年も勤めた手代でも、ばくち、女という蜜の甘みにはまっていると、横領をふと考えてもおかしくはない、危険なものでもあった。
太平次も江戸で三年目となり、そこが金さえあればどこまでも愉快にすごせる場所だとわかっていた。だが、そういうその場かぎりの気持ち良さより、主人の信用にこたえることで、もっと大きな仕事を与えられ、それをうまく乗り切って見せることに、もっと深い喜びを感じるようになっていた。
どうやれば円滑に掛け金を回収できるのか、どういう客に取り損ないの危険があるのか、なにをしてやれば客が喜ぶのか、そういう農事からかけ離れた仕事をこなしているうちに、主人だけでなく、女郎やその馴染みの遊客からも便利に使われ、どんどん世の中が広く、深くなった。
それにつれて、給金以外の花代(祝儀)も増えていき、それを元手に堅実な金貸しをすることも覚えた。これも幸運なことに、大きな焦げ付きなく着実に金子を増やした。
五年目に一度主人に帰郷を申し出たが、主人からの引き留めにあい、あと二年の約束で抱えを引き延ばした。結果的にその二年が、太平次の蓄えを、百七十両という、ふつうの小作の百姓がもちつけないほど莫大なものとした。
質とした田畑を取り返すには充分な額であったし、母や女房のこともさすがに心配となっていた。取り交わす手紙の間隔が間遠になり、このままでは村とのつながりが根腐れするような怖さも感じ始めていた。
太平次は約束の六年目の年季があけると、主人に丁寧に帰郷の別れをつげた。主人は、のらりくらりと太平次との約束を反故にして、なんとか店にとどまらせようとした。そのため、帰郷の準備に時間をとれず、最低限の荷物だけを飛脚で送ることしかできないほどであった。
最後には諦めた主人は、百姓の一時の出稼ぎには過分な宴を開いてくれた。その席で、また江戸にもどってくるよう、また他の店には絶対抱えられないよう太平次に約束をさせて、ようやく江戸を発つことを許したのだった。
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